大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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前田利家と金沢城(2)
1602年落雷により天守閣を焼失したが、以後再建されなかった。
その後も火災による焼失を繰り返す。
現存の石川門は、1788年の再建のもので、三十間長屋と共に、重要文化財に指定されている。
2001年、菱櫓、橋爪門続櫓、五十間長屋が木造で復元され、金沢城公園として整備された。

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五十間長屋

橋爪門続櫓

菱櫓

石川門


| 石川 | 00:00 | comments(6) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
前田利家と金沢城(1)
金沢城の前身である金沢御堂は、1580年、信長の命により、柴田勝家軍に攻め落とされた。その後、勝家の甥である佐久間盛政が13万石を与えられ、金沢御堂を改修し、尾山城と呼んだ。
賤ヶ岳の戦いで、秀吉に敗れた勝家は自刃。盛政は六条河原で処刑された。
賤ヶ岳の戦い後、秀吉から加賀二郡を与えられた前田利家は1583年、能登の七尾城から尾山城に移り、キリシタン大名の高山右近を招いて城の修築を始めた。また、城下町の整備にも努め、加賀百万石の礎を築いた。

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| 石川 | 00:00 | comments(4) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
豊臣秀次ゆかりの瑞泉寺5・・・(京都を歩く)
その後、三条河原の「塚」には花を手向ける者もなく、荒れるがままに16年の歳月が流れた。
やがて太閤秀吉の13回忌を前にして「大仏殿方広寺」の再建が決まり、その建築資材を運搬するため角倉了以が「高瀬川」の開削工事をする事となった。
慶長16年(1611)、角倉了以が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘し、この地に移して寺を創建したのであるが、そこにはひとつの史実があった。
それは、角倉了以の実弟は秀次公の家臣であり、事件の連座をまぬがれたものの、慶長15年に亡くなっていた。
瑞泉寺を創建する慶長16年は、ちょうど一周忌にあたる時であった。
理不尽な「秀次事件」の犠牲になった人々に対する角倉家の熱い思いが、怨念の「塚」を秀次公一族の新たな「墓所と寺」に生まれかわらせたのである。
これが寺の起こりで、秀次の法号「瑞泉寺殿」をとって瑞泉寺と名付けられた。
(瑞泉寺の縁起についてより引用)
角倉了以



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| 京都 | 15:59 | comments(5) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
豊臣秀次ゆかりの瑞泉寺4・・・(京都を歩く)
秀次公の墓塔の左右には三条河原で処刑された幼児を含む一族39名と家臣10名の石塔が並んでいる。
案内板によれば、まず最初に処刑されたのは秀次公の嫡男「仙千代丸 六歳」で、続いて次男の「百丸 四歳」。そして三男「十丸 三歳」四男「土丸 当歳」「姫君 九歳」とある。
子ども達の処刑が終わると、壱ノ臺御局をはじめ、34名の妻妾と一族が次々と処刑されていったという。
中には61歳、68歳という高齢の婦人や、12歳、13歳という妻妾とは思えない年齢が書いてあるところをみると、聚楽第に住んでいる全員が処刑されたのであろうか。
戦国に世にあっては、敗者の遺児、それも男子を殺戮する例は多くあるが、姫や子を持たない妻妾まで惨殺したのは、当時のモラルからみても、あきらかに行き過ぎである。
ここまでして、秀吉は自分一子秀頼をもり立てようとしたのであろうか。
妻妾の墓2

妻妾の墓1


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| 京都 | 14:13 | comments(9) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
豊臣秀次ゆかりの瑞泉寺3・・・(京都を歩く)
瑞泉寺の続きです。

この日、すべての遺骸は刑場に掘られた大穴に投げ込まれ、跡には四角推の大きな塚が築かれた。
そしてその塚の頂上に秀次公の御首を納めた石びつを据え、三条大橋を渡る人への見せしめとした。
江戸初期に描かれた「洛中洛外図」に、三条大橋の南西の位置、つまり現在の瑞泉寺がある場所に「塚」がはっきりと描かれているという。
寺伝によると、「ソノ塚ハ高大ニシテ、当寺今ノ本堂ノ地コレナリ」と明記されていて、瑞泉寺の本堂はその塚の位置に建立されている事がわかる。
また当時の「石びつ」は境内の秀次公の石塔の中央に奉安されているという。
塚

正面墓塔の中央に見える古石は、秀次公の御首を入れて「塚」の頂上に据えた中空の「石びつ」
秀次公墓



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| 京都 | 11:59 | comments(8) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
功名が辻9月24日「秀次切腹」
この回で、二人の若者が舞台から去りました。

秀次は、秀吉への謀反の疑いをかけられ、伏見城に呼び出される。
一豊は、呼び出しの役目を負わされ、秀次説得に出向くが、秀次のとりまきは、行くと帰ってこれなくなると反対する。
しかし、秀次は、決心して秀吉の前に出て、関白として最後の任務を果たすと秀吉に「朝鮮出兵や伏見城普請で大名も人民も疲弊している」と忠告する。そして、怒りをかった秀次は高野山で謹慎を命ぜられ、幽閉され、1595(文禄4)年7月15日切腹。
そして、淀は、後継者:秀頼に邪魔になる者は全て抹殺するようにと秀吉に申し出で秀次一族は、8月2日三条河原で斬首、聚楽第は解体された。

一豊と千代は、拾を跡取りにしようと思っていたが、家臣の信頼を得られるかどうかわからないと出家させることにして拾に伝える。武士として生きたかった拾は、父:一豊の命で出家することに決心する。

秀次も拾も後継者として微妙な位置にいた。そして、片や切腹、片や出家として決着した。当主の正式な子供でなかったために起こったできごとでした。
秀頼と言う後継者ができた秀吉は、日本一の親ばかになって天下人としての立場を忘れてしまうほど、正しい判断ができなくなってしまっていました。

放送の最後に紹介された秀次の斬首された場所にある瑞泉寺の記事は、23日と24日に記載しています。

※お知らせ
関東方面の功名が辻の史跡の記事をこのブログにアップしてくださる方を探しています。
ドラマの進行状態から、家康の上杉成敗のための会津遠征先での史跡があれば3〜5回ほどお願いしたいのです。
このブログは、ネットで知り合った4人がネタを持ち寄って運営しています。
勿論、匿名でけっこうです。
しかし、費用などは一切ありませんのでご了解お願いします。
ご連絡はメールでao-nisi@nifty.comまで

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| ドラマ | 00:07 | comments(13) | trackbacks(13) |- pookmark↑PAGE TOP
豊臣秀次ゆかりの瑞泉寺2・・・(京都を歩く)
文禄4年(1595)8月2日の昼下がり、京の三条大橋西南の河原では世にも恐ろしい悲劇が演じられた。
早朝より死装束に装いをこらした秀次一族の女性たちは、母君の胸に抱かれた若君や姫君とともに牛車に乗せられ、市中引き廻しのあと三条河原の刑場に運ばれた。
そこには高野山で自刀させられた秀次公の御首が、土壇の上に西向きに据え置かれていた。
主君の御首と涙の対面を果たした合計39人(若君4人、姫君1人、妻妾34人)の一族は盛夏の熱気去りやらぬ三条河原の処刑場に次々と引き出され、刺され、あるいは首討たれて命を絶った。
そのとき加茂の清流は彼女たちの鮮血によって朱に色を変じたという。
(案内板より)

瑞泉寺に伝わる「絵縁起」
ガラスで光ってちょっと見にくいですが、高野山から京に運ばれた秀次公の御首(右上)を前にした処刑直前の一族が描かれています。
哀れな妻子の境遇に涙する反秀次方の武士たち(下)も描かれています。
三条河原処刑場




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| 京都 | 13:14 | comments(14) | trackbacks(7) |- pookmark↑PAGE TOP
豊臣秀次ゆかりの瑞泉寺1・・・(京都を歩く)
三条大橋近くに、およそこのあたりの繁華街に似合わない小さなお寺がぽつんとある。
数年前、そのお寺の前の石碑に刻まれている「豊臣秀次公之墓」の文字に、引き込まれるように境内に入った。
小さい境内は綺麗に手入れされていて、訪れる観光客のために詳しい案内版やパンフレット、そして座布団も用意もされている。
しかも入場無料であるのが嬉しい。
無料だからという訳ではないが(笑)、今回私がここを訪れるのは3回目である。

太閤秀吉の姉「とも」の子として生まれた秀次は、実子に恵まれなかった秀吉に請われてその養子となり、一時は豊臣を継ぐ関白太政大臣として天下にときめいていた。
しかし、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは次第に疎んぜられ、文禄4年(1595)7月15日、高野山青巌寺において自害させられた。
次いで8月、秀次の幼児、妻、妾たち39人がこの近くの三条河原で死刑に処せられた。
秀吉というたぐいまれなる英雄を叔父にもったばかりに、秀次はあやつり人形のように自主性の無い生涯を送り、最後は秀次自身の処刑のみならず、罪の無い妻妾や子どもまでが道連れにされたのであった。
(瑞泉寺案内板より引用)
瑞泉寺

三条大橋から右手に瑞泉寺の屋根が見える。
三条河原




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| 京都 | 14:10 | comments(6) | trackbacks(3) |- pookmark↑PAGE TOP
伏見城・・・(京都を歩く)
京阪電車と近鉄電車が交差する丹波橋駅から歩くこと20分。
広大な桓武天皇陵を通り抜けると、伏見城が見えてくる。
約40年前に、遊園地・キャッスルランドのシンボルとして、伏見城跡の一角に模擬天守が建てられたが、数年前に閉鎖となり、今は立ち入り禁止となっている。
城は取り壊されることなく残されたが、鉄柵で囲まれたその姿はまさに「廃城」であった。

1592年、秀吉が隠居所として京都の宇治川沿いの丘陵に城を築城。
秀吉がこの伏見城で逝去すると、直ちに徳川家康が城に入って政務をとり、徳川政権への足固めとなった。
関ヶ原の合戦の時、この城は徳川軍の捨石となり、家康の家臣鳥居元忠らが壮絶な討ち死にを遂げた。
今もあちらこちらの寺に「伏見城の血天井」が残されている。

伏見城

伏見にある御香宮神社の表門は伏見城の大手門を移築したものと伝わっている。
御香宮神社


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| 京都 | 17:00 | comments(6) | trackbacks(2) |- pookmark↑PAGE TOP
高桐院その2(茶人:細川忠興三斎公)
細川家は、忠興の父:細川幽斎の時代から、信長〜秀吉〜家康と戦国時代を生き抜いた数少ない大名家です。

高桐院は、忠興により1601(慶長6)年に建立されました。
忠興三斎公は、信長に仕えていたが本能寺の変後、秀吉に仕える。
文武両道に通じ、茶人としても有名で利休七哲の一人であった。
書院は、千利休の邸宅を移築したもので、茶室は、忠興の好みを反映して造られている。
大徳寺の境内にあるのでお寺のように思われますが、中に入るとお寺の雰囲気は無く、
当時の高級住宅はこんなんだったのだろうと想像します。

ドラマでは、父幽斎を近藤正臣、忠興を猪野学、ガラシア夫人を長谷川京子が演じています。

高桐院通路入り口通路


高桐院庭南庭


井戸三斎井戸


茶室

書斎












【コーヒーブレイク】
20日「そのとき歴史が動いた 戦国の母:おね」を見ました。
豊臣家の存続、分裂防止を願ったおねの働きで豊臣恩顧の武将が、関ヶ原では家康についたため東軍が勝ったという内容でした。

以上は、NHKの放送内容ですが、私の解釈は違います、もっとドロドロした嫉妬、妬み、恨みなどが重なった、おね対淀の対決だったのではないでしょうか。

側室:淀に秀頼が生まれると世継ぎは正妻が育てる慣例を無視して、秀吉が淀に育てさせると告げた。そこから、豊臣政権内での淀の勢力が強くなってきました。
秀吉の死後は、完全に淀や三成の勢力が強くなり、おねは阻害されるようになってきたため、秀吉と一緒に育ててきた豊臣政権を側室の淀に取られるくらいなら豊臣家が滅亡してもいいと思ったおねは、家康に力を借りるために住んでいた大坂城西の丸を出て家康に明け渡し、子飼いの福島正則や加藤清正らに家康に加担するように仕向けた。そして、関ヶ原では、小早川秀秋の寝返りを誘い東軍の勝利になったのである。秀秋も幼少の頃は、おねに育てられた一人でした。

関ヶ原の戦いは、家康対三成の戦いのようですが、実際には正室おね対側室淀の女の戦いだったのではないかと想像しています。

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| 京都 | 01:30 | comments(7) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP