細川家は、忠興の父:細川幽斎の時代から、信長〜秀吉〜家康と戦国時代を生き抜いた数少ない大名家です。
高桐院は、忠興により1601(慶長6)年に建立されました。
忠興三斎公は、信長に仕えていたが本能寺の変後、秀吉に仕える。
文武両道に通じ、茶人としても有名で利休七哲の一人であった。
書院は、千利休の邸宅を移築したもので、茶室は、忠興の好みを反映して造られている。
大徳寺の境内にあるのでお寺のように思われますが、中に入るとお寺の雰囲気は無く、
当時の高級住宅はこんなんだったのだろうと想像します。
ドラマでは、父幽斎を近藤正臣、忠興を猪野学、ガラシア夫人を長谷川京子が演じています。
入り口通路
南庭
三斎井戸
【コーヒーブレイク】
20日「そのとき歴史が動いた 戦国の母:おね」を見ました。
豊臣家の存続、分裂防止を願ったおねの働きで豊臣恩顧の武将が、関ヶ原では家康についたため東軍が勝ったという内容でした。
以上は、NHKの放送内容ですが、私の解釈は違います、もっとドロドロした嫉妬、妬み、恨みなどが重なった、おね対淀の対決だったのではないでしょうか。
側室:淀に秀頼が生まれると世継ぎは正妻が育てる慣例を無視して、秀吉が淀に育てさせると告げた。そこから、豊臣政権内での淀の勢力が強くなってきました。
秀吉の死後は、完全に淀や三成の勢力が強くなり、おねは阻害されるようになってきたため、秀吉と一緒に育ててきた豊臣政権を側室の淀に取られるくらいなら豊臣家が滅亡してもいいと思ったおねは、家康に力を借りるために住んでいた大坂城西の丸を出て家康に明け渡し、子飼いの福島正則や加藤清正らに家康に加担するように仕向けた。そして、関ヶ原では、小早川秀秋の寝返りを誘い東軍の勝利になったのである。秀秋も幼少の頃は、おねに育てられた一人でした。
関ヶ原の戦いは、家康対三成の戦いのようですが、実際には正室おね対側室淀の女の戦いだったのではないかと想像しています。
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