大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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秀吉の花見(4)
吉水神社には、秀吉が数日滞在した豊太閤花見の本陣をはじめ、豊臣家ゆかりの品が展示されている。

豊太閤花見の本陣


狩野永徳 桜の図


狩野山雪 竹の図


豊臣秀長公花押


豊臣秀頼公寄贈の湯釜
| 奈良 | 21:05 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
秀吉の花見(3)
秀吉の花見の際、吉水神社が花見の本陣となり、秀吉やねねが宿泊した。
境内の庭ではお茶会、お能の会、歌会なのが催され、この日のために、狩野派の有名な絵師が襖絵や障壁画を描き、建具も取り替えられたという。
このことからも、いかにこの花見が盛大なものであったかがうかがえる。

吉水神社にて

 
秀吉の花見に際し修理したという後醍醐天皇玉座


| 奈良 | 00:12 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
秀吉の花見(2)
吉野山の桜が色とりどりなのには理由がある。
吉野の花見の前年、吉野へ視察に出かけた秀吉は、山桜中心の桜の山に彩りを加えるために、数千本の枝垂桜を植樹したのだという。
吉野山の桜には秀吉の功績があったともいえる。

 年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな(秀吉)



| 奈良 | 09:36 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
秀吉の花見(1)
秀吉の花見といえば文禄三年(1594年)吉野の花見と慶長三年(1598年)の醍醐の花見が有名である。この吉野の花見には、徳川家康、前田利家、伊達政宗らの武将をはじめ、茶人たちを伴い、総勢5千人を引き連れ吉野山を訪れた。この中に一豊もいたといわれている。
この年、吉野は雨続きで、秀吉が入山してからも三日間雨が降り続いた。苛立った秀吉は、吉野山に火をつけて下山すると言い出した。吉野の全山の僧侶たちが晴天祈願をしたところ雨がやみ、晴れあがり、盛大な花見が行われたという。

吉野の吉水神社に、一目千本という看板がある。ここからの景色を見た秀吉は「絶景じゃ。絶景じゃ。」と子供のように喜んだという。



| 奈良 | 14:15 | comments(11) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
長浜3・・・(近江を歩く)
長浜城から、250mくらいの所に「山内伊右衛門一豊屋敷跡」の碑がある。
秀吉が長浜城主だったころ、一豊はここに屋敷を構え、千代とともに住んだ。
明治6年の地図にも、「伊右衛門屋敷」という地名が残っていたという。
今はその跡地にマンションが建ち、見る影もないが、その一角に一豊と千代のモニュメントが建立されている。



「山内伊右衛門一豊屋敷跡」の碑
「山内伊右衛門一豊屋敷跡」の碑


一豊と千代のモニュメント
「夫婦円満」「立身出世」をイメージしている

一豊と千代のモニュメント

| 滋賀 | 18:38 | comments(9) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
長浜2・・・(近江を歩く)
秀吉が造成した長浜の町の根幹は、現在も、基盤の目状の町並みのなかに受け継がれている。
城の周辺から町なかにかけて、当時の城の遺構を示す石柱が建っている。(北近江戦国物語より)

長浜城大手門跡
長浜城大手門跡


長浜城外堀跡
長浜城外堀跡

| 滋賀 | 18:52 | comments(7) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
長浜1・・・(近江を歩く)
天正元年(1573)浅井長政滅亡後小谷城に入った秀吉は、翌天正2年夏にはすでに今浜に築城を開始している。
秀吉が湖岸に城を移した理由は、琵琶湖の舟運を重視した領国経営にあったと考えられる。
天正3年秋頃に秀吉は小谷城から今浜城に移り、地名を「長浜」と改めて天正10年まで在城した。(長浜城パンフレットより)



長浜城址の碑と再興された長浜城
長浜城

| 滋賀 | 21:36 | comments(7) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
初所領地・唐国・・・(近江を歩く)
一連の浅井・朝倉攻めの戦いのあと、一豊はその功績を認められて近江・唐国に400石を賜った。
一豊と一緒に戦ってきた堀尾吉晴(150石)、中村一氏(200石)と比べると、はるかに多くを知行している。
やはり、刀根坂で朝倉氏の有力武将・三段崎勘右衛門を討ち取った戦功が大きかったと思われる。
近江唐国は、南に姉川、北東に小谷山を望み、北国街道が通る重要な場所であった。
ついに念願の領主となった一豊。
武将として出発点になったのが、この唐国であった。

山内一豊公初所領の地
(滋賀県 虎姫町)
初所領地・唐国
| 滋賀 | 14:17 | comments(3) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
小谷城6・・・(近江を歩く)
3年間にわたる小谷城攻撃の先鋒で活躍した秀吉は、浅井の旧領である近江国北三郡12万石を与えられ、初の城持ち大名として出世を遂げた。
また、秀吉の配下にいた一豊も出世の糸口をつかんだ。
秀吉は約2年間小谷城に居住した後、天正3年(1575)、琵琶湖湖畔の今浜の地に長浜城を築城して移転した。
小谷城は廃城となったが、彦根城西ノ丸三重櫓は小谷城天守を移築したものと伝わり、今日に姿を留めている。



彦根城西ノ丸三重櫓
彦根城西ノ丸三櫓
| 滋賀 | 16:46 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
小谷城5・・・(近江を歩く)
小谷城はついに落城、長政は自刀。
お市も夫長政と運命をともにしようとしたが、子どもを守るため生き延びる道を選ぶ。
長政とお市の間には、3人の娘の他に男子もいたとされるが、長男万福丸は、お市の助命嘆願もむなしく、信長の命令を受けた秀吉によって、関ヶ原で磔に処されてしまった。
大河ドラマでは、秀吉の配下の一豊が手を下した事になっているが、史実は分からない。次男万寿丸は僧侶になったとされている。
長男万福丸は、長政の側室の子どもという説もある


絶世の美女といわれるお市の方。
観光パンフレットに肖像画がありました。
お市の方
| 滋賀 | 20:34 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP