大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2006 >>
商品紹介
更新履歴
記録之分類
過去之記録
最近之評論
記録之輪
友達之輪
作者紹介
余他
無料ブログ作成サービス JUGEM
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |- pookmark↑PAGE TOP
婚礼の地モニュメント・・・(岐阜を歩く)
一豊が信長に仕えるようになったのは、稲葉山城攻略の頃ではないかと言われている。
従って、千代との婚礼の地も岐阜とされている。
岐阜公園内には、その後の一豊を成功へと導いた千代を讃え、モニュメントが建立されている。


一豊と千代のモニュメント

岐阜の旗


(担当:merry)
| 岐阜 | 18:50 | comments(5) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
信長居館跡2・・・(岐阜を歩く)
信長の居館跡には人工的な2〜3段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下を千畳敷下といい、折れ曲がった通路でつながっている。
昭和58年から行われた発掘調査で、通路両側に並び立てられた板状の巨石や、周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見されている。

信長居館跡1

壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡とされている。(案内板より抜粋)

信長居館跡2

(担当:merry)
| 岐阜 | 17:33 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
信長居館跡1・・・(岐阜を歩く)
岐阜城が建つ金華山の西麓に信長の居館跡がある。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で「壮麗豪華なもの」と紹介しているのがこの館跡と言われている。
安土城へ移るまでの10年弱、信長はこの地で天下統一を睨んでいたのである。

信長居館跡

門の横に馬に乗る信長の像がある。
颯爽と馬を走らせるその姿は、まさに電光石火と言われた信長の行動をよく表現している。
信長像

(担当:merry)
| 岐阜 | 14:08 | comments(8) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
岐阜城(稲葉山城)・・・(岐阜を歩く)
美濃平野を一望する金華山山頂にそびえている岐阜城は、もと稲葉山城と呼ばれ、斉藤道三を祖とする斉藤氏3代にわたる居城であった。
しかし、家臣の竹中半兵衛による稲葉山城占拠などにより一挙に衰退し、永禄10年、信長の攻略により落城した。
信長は井之口と呼ばれていた地名を「岐阜」と改称し、ここを拠点として、天下統一をめざした城下町づくりに着手した。

岐阜城

金華山


(担当:merry)
| 岐阜 | 20:58 | comments(3) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
慈恩禅寺・・・(岐阜を歩く)
郡上八幡城から徒歩10分くらいの所に慈恩禅寺がある。
この寺は、八幡城主遠藤氏によって創建されたもので、今も「遠藤家御先祖書」が大切に保存されている。
それによると遠藤盛数と東氏の娘との間の女子が「山内対馬守様室」と記録されている。
原本は見られないが、本堂に写真が展示してあった。

慈恩禅寺

(担当:merry)
| 岐阜 | 14:10 | comments(5) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
もう一つの千代のふるさと・郡上八幡・・・(岐阜を歩く)
千代のふるさとについては「近江の若宮氏説」が定説とされているが、もう一つ、初代郡上八幡城主・遠藤盛数の娘とする説もある。
遠藤盛数は美濃斉藤氏の家臣で、永禄5年(1562)に信長に攻められて戦死した。
父を失った千代は母と共に紆余曲折を経て近江に落ちていったとされている。

郡上八幡城

郡上八幡城

お城へ登る途中に「一豊と千代の像」がある。
想像していたよりずっと大きなもので、地域の人の意気込みを感じる。
一豊と千代の像

像の後ろにはお城が垣間見える。


(担当:merry)
| 岐阜 | 20:58 | comments(4) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
法蓮寺・・・(尾張を歩く)
黒田城跡から歩いてすぐの所に法蓮寺がある。
ここに「山内一豊公出生地」と刻まれた碑がある。
このあたりは織田信長が骨肉の争いを繰り広げた土地であった。
弘治3年(1557)、勢力を伸ばしてきた信長の夜襲を受けて黒田城は落ち、父盛豊と兄十郎は戦死。幼くして父と兄を失った一豊は、尾張を後にして流浪の日々を過ごす事になる。


法蓮寺の裏には二人の墓が並んで立っている。
(左:十郎 右:盛豊)




(担当:merry)
| 愛知 | 13:19 | comments(4) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
黒田城・・・(尾張を歩く)
JR木曽川駅を降りて徒歩5分くらいの所に黒田小学校があり、その一角に黒田城址公園がある。
天文14年(1545)、一豊は尾張の黒田城で生まれ、幼名を辰之助、通称を伊右衛門といった。
一豊の父・盛豊は、岩倉織田氏の家老で、支城の黒田城を預かっていた。
従って、一豊は岩倉城で生まれたとの説もある。



公園の中には、城址を示す碑が立っている。


またその横には馬を曳く少年一豊の小さな像がある。




(担当:merry)
| 愛知 | 10:30 | comments(6) | trackbacks(0) |- pookmark↑PAGE TOP
山内一豊の母・法秀院の墓・・・(近江を歩く)
一豊の母・法秀院のもとへ裁縫と行儀見習いに通っていた千代は、美しく、聡明であり、しかも慎ましやかな上に大変器用であったと地元では言い伝えられている。大河ドラマとはストーリーが違うが、この母の進めによって、ふたりは結婚する事になる。千代16〜17歳で、一豊は12歳年上であった。
法秀院の墓

法秀院は天正14年(1586年)に没したが、墓地は長野家によって大切に守られていた。
しかし、なぜか土佐藩主山内家には忘れ去られていて、約200年後になって山内家の調査によりその存在が明らかになったという経緯がある。
旧の墓
(担当:merry)
| 滋賀 | 12:13 | comments(3) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP
永江院(ようこういん)

一豊が龍の彫刻の総門を寄進した寺。
その龍の彫刻があまりに見事な為、
龍が池の水を飲みに来るとの噂で住民が
恐れたので、彫刻の周りに金網を張ったと
いう伝説が残されています。

(担当:shizuka)




| 静岡 | 21:21 | comments(9) | trackbacks(1) |- pookmark↑PAGE TOP