上野撮影局から川に沿って歩き、阿弥陀橋を渡って禅林寺まで、5分くらい歩いたでしょうか。
禅林寺と深崇寺という二つのお寺の間に「龍馬通り」と名づけられた細い道があります。
ここから山手の方に上がって行くと、あの龍馬が設立した有名な「亀山社中」があります。
当時龍馬も、何度もこの道を駆け上がった事でしょう。
と、当時に思いを馳せながら歩いていたのは最初だけ。
山手に向かっての急階段はけっこうキツイ・・
でもこんな標語に励まされながら、黙々と歩きます。
途中には、龍馬をとりまく人物の説明板があります。
説明板によりますと
近藤長次郎
幼い頃から学問、武芸を好み、江戸にも遊学して高島秋帆からも砲術を学びました。
勝海舟に入門し、神戸の海軍操練所でも修行を続け、慶応元年(1865)の亀山社中結成に参加し、龍馬の片腕と呼ばれました。この年、薩摩藩の名義を借りた、長州藩のための軍艦・武器購入の計画が起ると、中心的役割を果たしました。しかし、慶応2年(1866)英国への単独渡航が露見し、盟約違反に問われて、長崎の小曾根邸内で切腹しました。のちに、それを知らされた龍馬は、「おれがいたら殺しはせぬのじゃった」と、妻・お龍に語っています。近藤の墓は、現在でも長崎市寺町の皓台寺に残されています。
いつの時代もみんな、知らない世界を見たい、行ってみたいと思う気持ちを持っていますが、この時代は特に異国へのあこがれと好奇心・探究心が強かったのでしょう。
切腹にまで追い込まれた近藤長次郎が哀れです。
陸奥宗光
明治の外交官・政治家。文久3年(1863)勝海舟に入門。神戸海軍操練所に学び、坂本龍馬と交友を深めました。その後、亀山社中・海援隊と、終始龍馬と行動を共にしました。龍馬は陸奥宗光の才能を高く評価し、「大小の刀を取り上げても路頭に迷わないのは、僕と君のみ」と語っています。また、陸奥宗光は長崎で外国人の家庭に住み込み、英語を学んだとも伝わっています。明治以後は政府に入り、農商務大臣・枢密顧問官をつとめ、明治25年(1892)外務大臣となり条約改正と日清戦争の外交指導に尽力しました。
陸奥宗光は日本史で習った記憶がありますが、坂本龍馬と深い交流があったとは、今回の大河ドラマを見て、初めて知りました。
それにしても、この覆面と下駄・・なんなのでしょう?
まるで、鞍馬天狗みたい(笑)
他にも沢村惣之丞、長岡謙吉、中島信行・・などなどありましたが、足を休めながら読み進んで行くと、いつの間にか亀山社中に到着です。
あ〜疲れた。
「亀山社中」の記事は、次回に詳しく書きます。
By merry
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