[ 京都 ]
一豊が亡くなった後、千代は髪をおろして「見性院」という法号を名乗った。
そして土佐を去り京都に戻って隠棲したが、12年後(1617年)、奇しくも一豊と同じ61歳で生涯を終えた。
どこまでも仲の良い夫婦である。




墓所は妙心寺塔頭寺院のひとつである「大通院」にある。

大通院の門
一名は「額門」といい、門が額縁の役割をしていることから由来している。
額門から見える紅葉はことのほか美しく、さながら一枚の絵を見ているようである。




またこの門は他の寺院山門と比べると、高く造られており、参拝に来た殿様が馬から降りずにお参りできるように配慮されている。
そのため別名を「馬上門」という。
ここは、普段非公開であるが、今年(2006年)は10月7日より12月17日まで特別拝観できる。
(大通院パンフレットより引用)

霊屋
寛永10年(1633)、湘南国師が、養母である千代の17回忌に造ったお堂で「見性閣」という。
見性閣は、千代の法号である「見性院」より付けられた。
湘南国師は幼名を「拾」といい、千代に拾われた捨て子であるが、山内家で大切に養育された。
この逸話だけでも、千代の人柄が見えてくる。
「拾」はのち出家して妙心寺の南下元興の弟子となり、やがて山内家の菩提寺となる妙心寺塔頭大通院の中興の祖となった。

霊屋の内部には一豊・千代の無縫塔が並んでいる。
これは禅宗の僧侶のお墓に用いられる形で、夫妻が禅宗に帰依していたことによるものである。
この無縫塔が夫婦並び祀られてある形は大変珍しく、夫婦の仲睦まじさが今でも伝わってくる。

霊屋の周りには、山内家家臣団のお墓もある。
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そして土佐を去り京都に戻って隠棲したが、12年後(1617年)、奇しくも一豊と同じ61歳で生涯を終えた。
どこまでも仲の良い夫婦である。





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大通院の門

一名は「額門」といい、門が額縁の役割をしていることから由来している。
額門から見える紅葉はことのほか美しく、さながら一枚の絵を見ているようである。





またこの門は他の寺院山門と比べると、高く造られており、参拝に来た殿様が馬から降りずにお参りできるように配慮されている。
そのため別名を「馬上門」という。
ここは、普段非公開であるが、今年(2006年)は10月7日より12月17日まで特別拝観できる。
(大通院パンフレットより引用)
霊屋

寛永10年(1633)、湘南国師が、養母である千代の17回忌に造ったお堂で「見性閣」という。
見性閣は、千代の法号である「見性院」より付けられた。
湘南国師は幼名を「拾」といい、千代に拾われた捨て子であるが、山内家で大切に養育された。
この逸話だけでも、千代の人柄が見えてくる。
「拾」はのち出家して妙心寺の南下元興の弟子となり、やがて山内家の菩提寺となる妙心寺塔頭大通院の中興の祖となった。
霊屋の内部には一豊・千代の無縫塔が並んでいる。
これは禅宗の僧侶のお墓に用いられる形で、夫妻が禅宗に帰依していたことによるものである。
この無縫塔が夫婦並び祀られてある形は大変珍しく、夫婦の仲睦まじさが今でも伝わってくる。
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チョット、時間が遅く入れなかったのが残念ですが、
ここで一豊と千代が祭られているところが見れて
よかったです。
拾に見守られながら眠りについているのですね。