徳川政権下において長く政治の中心から遠ざけられていた京都が、幕末、討幕の機運に燃え上がる勤皇志士たちの入洛によって、にわかに歴史の舞台となりました。
鴨川の西を流れる高瀬川、その川に接する木屋町通りには、当時、諸藩の藩邸が建ち並び、また志士たちも集まってきました。
今もその地を歩くと、数多くの石碑が幕末動乱の歴史を雄弁に語ってくれます。
佐久間象山・大村益次郎遭難の地
松代藩士・佐久間象山は西洋兵学者。
幕命で上京し、諸家に出入し開国を論じていたため、過激な志士に狙われ、1861年7月馬上で斬殺されました。
大村益次郎は周防出身。鳥羽伏見の戦いや江戸での彰義隊との戦いなど数々の戦功があり、明治政府では兵部太輔となりました。
しかし徴兵制を提案し武士の帯刀廃止を主張したため、士族の反感をかい、明治2年9月浪士に襲われ負傷し大阪で死去しました。
桂小五郎・幾松寓居跡
後の木戸孝允「桂小五郎」を命がけで助けた「幾松」の家です。
今も料理旅館を営み、「幾松の部屋」も保存されています。
佐久間象山寓居跡
「佐久間象山遭難の地」の近くにあり、自宅近くで暗殺の刃に倒れたことが分かります。
吉村寅太郎寓居の地
吉村寅太郎は土佐勤王党。寺田屋事件で捕らえられ、高知の獄中にあったが、許されて上京。
国事に奔走したという。
土佐藩邸跡
江戸時代初期から明治4年まで、土佐藩山内氏の京都藩邸でした。
幕末には「天誅」と称する刺客が暗躍しました。
本間精一郎遭難の地
本間精一郎は越後の郷士。
薩長土の志士を罵倒するなど、目に余る行動をしたため斬殺されました。
死骸は高瀬川に捨てられ、首は四条河原に梟された・・とか。
木屋町通りには、まだまだ史跡があります。
また一歩他の通りに足を踏み入れると坂本龍馬遭難地の「近江屋跡」や寓居跡の「酢屋」、新選組の「池田屋騒動之址」など数多くの史蹟があります。
この辺りは、幕末歴史を物語る宝庫です。
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