京都市伏見区に、真言宗の寺院「大黒寺」があります。
もとは「長福寺」という寺名でしたが、江戸時代の初めこの近くに伏見薩摩藩邸が置かれ、島津家の守り本尊「出生大黒天」が縁で薩摩藩の祈願所となりました。
瓦には島津氏の家紋もあり、別名「薩摩寺」と呼ばれています。
普段は非公開のお寺なのですが、今年(2018年)は「西郷どん」ゆかりの寺として特別公開がありました。
本堂に入ると、そこには煌びやかな須弥壇がありました。・・が、写真はNG
中央の厨子には、弘法大師作と伝わる秘仏「大黒天」が安置されていますが、公開されるのは60年に1回。
次回公開されるのは2044年だそうです。
隣の書院には、幕末「西郷隆盛」と「大久保利通」が国事を論じたという部屋がありました。
これも写真NG
特別公開の看板に、その部屋の写真があったので拡大します。
こんな感じの部屋です。
部屋には、その当時からあるという一枚板の大きな座敷机と硯などがありました。
この机を挟んで、西郷と大久保はどんな激論を戦わせたのでしょう?
また隣の部屋との間には「龍」を彫刻した欄間があり、それを西郷が気に入り眺めていたとか、そんな話を伺いました。
境内の表の庭には「金運清水」
その横には「薩摩義士碑」と・・・
「壬戌伏見義擧殉難士之墓地」の碑があります。
文久2年(1862年・壬戌の年)に、伏見寺田屋で、尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士9名が、薩摩藩士の同士討ちに遭うという寺田屋騒動が起こりました。
境内の奥には、そのお墓があります。
有馬新七ら9名は、寺田屋から近いこの地に埋葬されたのですが、当初は主君の命令に背いたための上意討ちとされ、粗末な土まんじゅうで埋められていたそうです。
のち、西郷どんはその死を悼み、仲間のために自ら揮毫してお墓を建立しました。
お墓の前には、西郷どんのお手植えと伝わるクスノキが大きく育っていました。
が・・・写真撮り忘れ((+_+))
九烈士のお墓の前には、木曽三川工事の総奉行であった平田靱負のお墓もあります。
木曽川という、遠く離れた他藩の工事でありながらも、幕府の命に抗う事も出来ず、莫大な費用と多大な殉職者を出しながら、平田靱負は工事を完成させました。
しかし工事の完了後すぐに平田靱負は亡くなりました。
切腹したと伝わります。
昭和62年本堂改築の際、南側の地下4mの場所に埋葬されている石棺が発見され、ここに移転して手厚く埋葬されました。
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