大河ドラマ「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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躑躅ケ埼館跡〜甲府市
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真田昌幸の父・真田幸綱(幸隆)は、甲斐国の武田信玄の家臣であったため、昌幸は7歳で人質として甲斐国へ下り、武田信玄の奥小姓として仕えました。

信玄は昌幸の優れた才能を早くから見抜き、「我が眼」と称して重用したといいます。

甲府駅南口の信玄銅像


長じて昌幸は信玄の母方の武藤姓を与えられ、その才覚と武勇で頭角をあらわして、信幸・信繁が生まれた頃には足軽大将となっていました。

しかし天正3年(1575)の長篠合戦において、真田信綱と昌輝の兄2人が戦死したため、3男であった昌幸が真田に復姓して家督を継ぐ事になりました。
この時昌幸は、29歳になっていました。

昌幸は上田に帰るにあたり、嫡男信幸(10歳・当時は源三郎)を人質として甲府に残しました。
後、源三郎は甲府で元服して信幸を名乗りましたが、信幸の「信」は信玄の一字を賜ったとされています。(諸説あり)



甲府駅前からまっすぐ続く「武田通り」
当時は、格子状に整備された道路に沿って城下町が開けていました。


武田通りの先には「武田神社」があります。



武田神社は大正8年(1919)、武田信玄を祭神として創建されました。





この辺り一帯には、武田信虎・信玄・勝頼の3代60余年にわたる武田氏館がありました。
武田氏館は「躑躅ケ埼館」とも呼ばれ、武田信玄の父・信虎が永正16年(1519)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。
一辺が200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭があり、館の回りには、家臣の屋敷がありました。


拝殿の右には、武具や軍旗など、武田家ゆかりの品々が保存・展示されている宝物館があったのですが、写真はありません。

拝殿の左には、信玄の息女が誕生した時に産湯として使われたという井戸がありました。
「姫の井戸」


また「武田水琴窟」もありましたが、これは江戸時代のものです。



堀と土塁の一部が残っているそうですが、これ?なのでしょうか(-_-;)




武田神社から10分余り歩くと、武田信玄のお墓があります。



信玄は元亀3年(1573)4月12日、三河攻めから甲斐に戻る途上で病没しました。
信玄の死は遺言により3年間秘められ、遺体はひそかにこの地に運び込まれて仮埋葬され、3年後に菩提寺である恵林寺に葬られたとされています。


しかし信玄亡き後の武田氏は衰退の一途をたどり、天正10年、織田信長の甲斐侵攻によって武田氏は滅亡に追い込まれました。
武田勝頼とともに甲府から新府城に移っていた真田信幸の人質生活も、これにより解放されました。

しかし、大河ドラマ「真田丸」では、信幸・信繁はもとより家族全員が新府で人質生活を送っていた事になっていましたが・・
はて?史実はどうだったのでしょうね?




     by  めりい




 




 

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| 山梨 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
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コメント
人質生活も三谷さんにかかれば、楽しそう!
| シネマ大好き娘 | 2016/03/07 4:08 AM |
>甲府の武田氏館は「躑躅ケ埼館」とも呼ばれ、武田信玄の父・信虎が永正16年(1519)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。
この城塞は館と呼ばれていますね!「人は石垣、人は城」と言い武田信玄は全て敵地で戦ったのですよね。
| willy_tsuguo_shikata | 2016/03/07 4:56 AM |
シネマさん。
そうそう、三谷さんの作品はホント面白いね。
昨夜の大河ドラマもいくつか笑いの場面がありました。
| めりい | 2016/03/07 10:29 AM |
四方さん。

そうそう、信玄の名言に「人は石垣、人は城」という言葉がありますね。
立派な城をつくることより、部下を大切に育成することに力を入れた・・ゆえに武田軍団は強かったのですね。
| めりい | 2016/03/07 10:37 AM |
甲府までは行けないので、めりいさんの記事で行ったつもりになります!

武田神社も、信玄のお墓も立派ですね。

>大河ドラマ「真田丸」では、信幸・信繁はもとより家族全員が新府で人質生活を送っていた事になっていましたが・・

ドラマと史実は必ずしも一緒でないので、真実はどうだったのだろう?と考えながら見ています。
それもまた楽しいですね。

| しずか | 2016/03/07 1:08 PM |
しずかさん。

>甲府から新府城に移っていた真田信幸の人質生活も、これにより解放されました。

ここまで書いて、はっとしました。
ドラマと矛盾する・・・(*^▽^*)

その時、真田信繁は何処にいたのでしょうね〜

あまり深刻に考えない方がいいようです(笑)
| めりい | 2016/03/07 8:06 PM |
昌幸が人質として武田に仕えたようですが、
囚われの身とゆうより、信玄に仕えて教育をしてもらったと
言った方が当たったいるようです。

信玄公を見て、昌幸は多くを学んだのでしょう。
| ラメール | 2016/03/10 12:48 PM |
ラメールさん。

おっしゃる通り、戦国時代の「人質」というのは、私たちが持っているイメージとはだいぶ違うようです。

戦国大名たちは、人質も将来の家臣として育てたのでしょうね。

家臣として臣従していれば、人質は安泰なのですが、謀反を起こせば木曽氏のように悲惨な事になります。

昌幸の妻・薫が頑固に人質を拒むのも分かります。

| めりい | 2016/03/12 9:15 PM |
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