大河ドラマ「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

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滝川一益と厩橋城(前橋城)
JUGEMテーマ:大河ドラマ

前橋城は、群馬県の前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられました。

厩橋城は、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされると、織田方の滝川一益が城主となりました。



本能寺の変後の動き

滝川一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと伝わる(上毛古戦記)。
一方、一益は6月12日付けの書状で、信長の安否を聞いてきた小泉城(東毛)の富岡秀高(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」と書状を送っている。一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、北条高広などの主要な武将のみであったとも考えられる。また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた保科正俊、保科正直等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという。
(Wikipediaより)

現在、本丸跡地には、群馬県庁本庁舎、二の丸跡地には前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所、前橋公園となり、遺構として、土塁、車橋門跡などが残されています。











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前橋城跡の解説

前橋は古くは厩橋と称し、東山道の群馬の駅(うまや)が近く、それが地名の起こりであるという。厩橋城が築かれたのは、十五世紀のこと、初代城主は箕輪城主長野氏の一族前橋長野左衛門尉方業(法号固山宗賢)とされている。以後長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文二十一年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄三年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。
 このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の理由とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り返された。
 天正十年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の部将滝川一益が厩橋城に入り、関東管領を称した。しかし信長の急死によって、一益は本国に帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついには、天正十八年(1590)4月、小田原討伐軍の浅野長政に攻められて落城した。
 同8月に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城三万三千石に封した。親吉は慶長六年(1601)甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後九代の間、酒井氏の藩政が続いた。四代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。
 酒井氏治世時代の前橋城は城域十五万坪に及び、西に利根川の断崖を背とし、南東に延びる土塁と壕をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。慶安二年(1649)五代忠挙の時、城下町は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延二年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。代わって姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以降難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和四年(1767)川越に移城した。
 以後前橋城は廃され、領地は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。城主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の城主直候ならびに直克の決断により、文久三年(1863)12月、幕府から再築の許可を得、慶応三年(1867)帰城が実現した。
 この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかしわずか半年で大政奉還となった。廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、前橋の現在の繁栄をみている。碑文は、藩主松平直候ならびに直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。前橋城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当たる。
 碑の題額は、直克の長子松平直之氏、文は、修史局編修官のちの東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮であった。    群馬県


by shizuka



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| 群馬 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
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コメント
>この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。

なかなか勇ましい滝川一益のセリフですね。

信長の死後、天下をとった秀吉と対照的に一益は失脚していったので、今まであまり知らずにいました。

今年の大河でそのあたりが勉強できそうです。
| めりい | 2016/02/10 10:03 AM |
めりいさん、コメントありがとうございます!

私も滝川一益についてはあまり知りませんでした。

「花燃ゆ」の記事がここで使えるとはラッキーです
!(^^)!

信長、秀吉、家康の時代は、角度を変えて何度でも楽しめますね。
| しずか | 2016/02/10 11:04 PM |
織田右府の死亡で一番ひどい目にあったのがこの滝川一益ですね!
武田勝頼滅亡後、その後に滝川一益が信長の命でこの前橋城に入り着々とこの地方の豪族達を治め始めた時、信長親子死亡!
尾張へ漸く帰国できた時には織田家重臣を外され、伊勢一国のみとなっていたのです。
| willy_tsuguo_shikata | 2016/02/11 6:54 AM |
四方さん、コメントありがとうございます!

本能寺の変、信長の死は、各地に多大な影響を与えたのがわかりますね。
| しずか | 2016/02/11 11:55 AM |
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