大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
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空誉(くうよ)上人ゆかりの浄念寺

地下鉄大濠公園駅 から徒歩8分のところにある浄念寺



参道を入って突き当たりが本堂です。



本堂に向かって右側に、後藤又兵衛の身代わりになって、2代藩主・黒田忠之によって処刑されたという
空誉(くうよ)上人を祀る空誉堂があります。



空誉上人は播州明石出身で、仏道、儒学、武術に優れ、黒田家が帰依した人でした。
黒田官兵衛が、姫路から豊前中津入りした際に、空誉上人も同行し、合元寺を再興、開基。

朝鮮出兵の際も黒田家に同行し、秘書役を務め、黒田家が筑前を任されたときも空誉上人は同行し、福岡城の橋口(旧橋口町)に寺地を賜り、地福寺を建立。

黒田家にはなくてはならない存在の人だったはずなのに・・・
その後とんでもない事態に。

黒田家家臣の後藤又兵衛が、黒田長政との確執から黒田家を出て、慶長16年に大阪城に入城。これにより、黒田家は江戸幕府に疑われることとなります。
黒田家は又兵衛と親交のあった空誉上人を大阪城に派遣し、 福岡に戻るよう又兵衛を説得しますが、又兵衛はこれを拒否。福岡に戻った空誉上人に、筑前福岡藩の第2代藩主・黒田忠之(黒田長政と正室・栄姫の長男として福岡で生まれる)は大激怒。空誉上人は、豊臣方と内通しているとの疑いをかけられ、即日地福寺で逮捕され、須崎の浜で釜に入れられ、背中を割られた上、 熱く煮えたぎった鉛を流し込まれ、惨殺されました。
遺体はその場に捨てられ、再三の懇願にもかかわらず、引き取りは許されませんでした。仕方なく空誉上人の弟子が、深夜に忍び込んで、亡骸を背負い、浄念寺に持ち帰り埋葬したと伝えられています。埋葬した所に立っていた松の木に鳥が止まると立ちどころに落ちたといわれています。



お堂の左側に書かれた空誉上人の縁起によると

空誉上人縁起

仰せに名高き空誉上人と申すは播州明石の人にて仏道儒学且つ武術に勝れたる黒田家帰依の名僧なり。 黒田家中興の祖如水公が播州姫路より豊前中津に入国の際扈従し来り今の合元寺を再興し開基となる。 制韓の役に従軍し黒田公の秘書役を勤め関ヶ原戦後公の筑前に封ぜらるるや上人随従して福岡に来り今の橋口に寺地を賜り一寺を建立開基となり地福寺と称す。 又水鏡天満宮を勧請して鎮守をする今の県社水鏡天満宮是なり。 又公より寺領200石を賜り慶長14年には如水公御父君心光院殿満興宗円大居士の法要を同寺に於いて営み阿弥陀経千部を修せらるるにあたり絵師に画像を画せ上人に其賛を命ぜられたり。
是より先黒田家の重臣にして上人と別懇の交り深き後藤又兵衛基次故ありて福岡を退散 慶長16年関東大阪手切の際大阪城に入る。 これが為関東の疑ふところとなり公大いに憂い窃ひそかにに基次を召還して害せんとし屢しばしば密使を派し甘言を以って百方帰国を勧むるも基次言を左右して帰らず。 公の煩悶益甚し折柄め倭奸の徒基次の帰らざるは全く 空誉上人の国情を内通せるによるとざん言を為す。 公之を信じ大に憤り直に捕吏を地福寺にむけ上人を逮捕。 即日洲崎の浜にて背部を割き熱鉛を鋳込みて残死せしめ死体はその場に捨置かれたり。 これ実に慶長16年辛亥8月6日の出来事にて沙門の身に極めて重き刑罰なり。
当山の開基桂空舞上人は師弟たる縁故を以って死屍の下賜を願いたれど公の怒り解けず 許しなきのみならず之か為地福寺の法牌画像並寺領等は同寺の法脈たる浄念寺に下附さるべきものも没収せられたり。 舜道上人は師匠の死を決し弟子舜沢と共に10日の夜月の落ちるのを待ち浜辺伝いに忍び行き 夜明け窃ひそかに死体を背負い帰り来て心ばかりの土葬をいとなみ師の高恩に報じたる。
此後は事もなく公より何の詮議なく又世に知る人もなく打過ぎたり。 只墓の傍に一本の松ありけるが鳥類之に止れば忽ち落ちて死す。 それより誰言ふとなく其松の下に空誉上人の墓ありと追々流布し又信心の者立願すれば其験ありとて此事次第に云い伝へて今の世に宿願の人絶えす。 後小祠堂を建立し毎年8月朔月より6日まで祭典を行い参詣の人群集す。
因に空誉上人の刑罰に処せられたる場所として口牌に伝りたるは県庁の裏手葦沼の内にありて其個所には未だ曾て葦草の生じたることなしと伝へり。 明治43年九州沖縄八県連合共進会々場として埋立てられ現在県庁舎裏官舎の敷地なり。 昭和2年官舎に数度霊夢を感じたる人ありたりとて其個所に一小祠堂を建立祭典を執行せらる。
本年は恰あたかも空誉上人刑死より348年回忌に相当す。 毎年8月5日より2日間当山に於て祭典を執行し大いに慰霊の誠意を表し茲ここにいささか其縁起を述べ御同情を希ふ所以なり。

空誉上人の処刑については諸説あります。

安養院に伝わるのは、黒田忠之が鷹狩りの帰りに立ち寄って休息した際に、接待に出た寺小姓を忠之が気に入り、小姓として差し出させようとしたが、住職の空誉上人が断ったことから空誉上人を釜ゆでにして、処刑したという話。

黒田忠之


これらの説は、どちらも黒田忠之がやったことになっていますが、ここに来る前に立ち寄った圓応寺のご住職のお話によると、もしかしたら、本当はやったのは黒田長政で、黒田騒動に引っかけて、忠之のせいにしてしまったのかもというお話でした。
どちらにして惨すぎる話です。

そして、空誉上人は、宇都宮鎮房の子であったという説もあります。

天神中央公園南側の噴水広場そばには「福岡藩刑場跡」の碑があります。




これは後藤基次が、黒田長政から出奔したことにより、空誉上人が黒田忠之(黒田長政とも)によって背中を裂かれ溶けた鉛を注がれ処刑されたことを供養するためのものです。



処刑場はいつしか葦の生えた沼となりましたが、 空誉上人が処刑された場所だけは釜の形に葦が生えなかったといいます。



明治43年、沼は埋立てられ、県庁が建てられたのですが、その後僧侶の幽霊を見た人がいたり、県知事が官舎にはいると、夜中にうなされすることがあったそうです。
そこで、官舎の庭に祠が建てられ、中津の合元寺の住職による供養が行われ、 以来、県知事はこの祠にて毎年供養祭を行ったとか。

福岡市中央区役所のHPによると

天神中央公園の一角に、福岡藩の刑場がその昔あったことを示す碑がひっそりと立っています。那珂川が近くに流れ、血などを洗い流すのに便利な場所だったため、この地に刑場があったといわれています。
 昭和の初め、この地に福岡県知事公舎があったころ、僧侶の幽霊が出るとの噂が広がりました。時の大塚惟精(いせい)知事が調べてみたところ、江戸時代に空誉上人が処刑されていたことが分かりました。
 早速、大塚知事は公舎の庭の隅に小祠を建て、手厚く供養しました。その名残がこの跡碑だと思われます。
 その後、県庁が現在地の東公園に移転するまで、代々の知事は空誉上人が祭られている堂がある浄念寺にお参りをし、公舎を撤去する際には魂抜き(お祓い)をしました。(福岡市中央区役所のHPより)

現在は、西側に市役所、周りはオフィス街、商店街、歓楽街に囲まれた公園になっていますが、そんな公園の片隅に悲しい歴史を物語る史跡が残されています。



何だか平将門の怨霊伝説に似たものを感じませんか?

by shizuka



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コメント
黒田家の墓は、沢山ありますね。

いわくつきのお墓もあるようですが、
今まで残っているのが、子孫がよく
管理されたからでしょう。
| ラメール | 2014/12/27 2:52 AM |
釜ゆでは、うどんだけにしてくれ〜
| シネマ大好き娘 | 2014/12/27 3:40 AM |
淨念寺と空誉(くうよ)上人と黒田忠之と後藤又兵衛の関係はこれまた、面白いというか酷い話ですね!
福岡探索凄いですね!
| willy_tsuguo_shkikata | 2014/12/27 7:15 AM |
福岡藩刑場跡・・
ここ、行ってます。

でも、そんないわくつきの場所とは知らなかったので、写真を1枚撮っただけで通り過ぎました。

官兵衛の息子も孫も・・問題がありすぎ(笑)
| めりい | 2014/12/27 8:24 PM |
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