官兵衛とかかわりのあった跡がしっかりと
根づいていますね。
河童の墓、これは本気で造ったのでしょうか。
| ラメール | 2014/09/10 2:25 AM |
きゅうりをお供えしましょう!(笑)
| シネマ大好き娘 | 2014/09/10 3:23 AM |
>黒田24騎のひとり・野村太郎兵衛祐勝(すけかつ)の墓とされる「河童の墓」!
黒田24騎のお墓と言われるところ、以前も
面白い名がついていましたね!
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willy_tsuguo_shikata | 2014/09/10 5:50 AM |
やはり気になる河童の墓!
なぜ河童なのでしょうね(^_^;)
官兵衛の末の弟のことは知りませんでした。
出家したのですね。
| しずか | 2014/09/10 10:14 AM |
確かに黒田24騎には黒田姓が4名いますね!
黒田一成 - 1571年(元亀2年)〜1656年12月28日(明暦2年11月13日):三左衛門、黒田孝高の養子、黒田八虎の一人
黒田利高 - 1554年(天文23年)〜1596年6月13日(文禄5年5月18日):兵庫助、黒田職隆の次男、黒田孝高の実弟。黒田八虎の筆頭
黒田利則 - 1561年(永禄4年)〜1612年4月5日(慶長17年3月5日):修理亮、黒田職隆の三男、黒田孝高の異母弟。黒田八虎の一人
黒田直之 - 1564年(永禄7年)〜1609年3月8日(慶長14年2月3日):図書助、黒田職隆の四男、黒田孝高の異母弟。黒田八虎の一
>末弟の黒田市右衛門については小生も初めて知りました。ありがとうございました!
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willy_tsuguo_shikata | 2014/09/10 12:54 PM |
考えてみると末弟の黒田市右衛門のことを知っている方が不思議でした。
戦国時代は特に一族の安寧と繁栄を図るため必ず一族の誰かを仏門に入れておりました。
尼子勝久も山中鹿助等に依頼され仏門から還俗して尼子家の再興を図っていますね!
黒田家にあってもそういう仏門に入った人名は中々わからないですね!
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willy_tsuguo_shikata | 2014/09/10 1:31 PM |
ラ・メールさん。
河童の墓は江戸中期から伝わる伝説の墓ですが、元は野村太郎兵衛祐勝のお墓ではないかとされています。
江戸の初期に、黒田家は中津から福岡に国替えになっているので、この地に残ったお墓が伝説と結びついたのでしょうね。
| めりい | 2014/09/10 9:30 PM |
シネマさん。
今、きゅうりが一本80円くらいします。
高くて、お供えできない〜(笑)
| めりい | 2014/09/10 9:32 PM |
しずかさん。
官兵衛の末弟なら、異母兄弟ですね。
早くから仏門に入ったようです。
武士よりいいかも(笑)
| めりい | 2014/09/10 9:35 PM |
四方さん。
官兵衛には、実弟、異母弟そして養子など大勢の家族がいて、皆が団結して黒田家を支えたようです。
きっと妻の光がしっかり者だったのでしょうね。
| めりい | 2014/09/10 9:45 PM |
私は中津の城から駅まであるいたのに、全然町のことまで知りませんでした。官兵衛がまだ話題になってなかったからですね、私も中津の城でなんで官兵衛が城主とはしりませんでした。福岡の城とおもっていたので。
| そば打ちおじさん | 2014/09/11 12:45 AM |
そば打ちおじさん。
私も黒田官兵衛といえば、福岡城と思ってました。
中津という地名も知りませんでした。
だからそば打ちおじさんが中津に行ったと聞いた時、驚きました。
福沢諭吉ゆかりの地だったのですね。
歴史めぐりをしていると、今まで知らなかった土地を歩く事が多く、見聞が広がります。
今更ながら、地理・歴史を勉強しています。
| めりい | 2014/09/12 12:56 PM |