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源義朝ゆかりの野間を歩いて(6)野間大坊

[ 愛知 ]

密蔵院から野間大坊へ向かう道です。 



 野間大坊は、本堂に着く前に、この血の池が目にと飛び込んできます。 

 

長田親子に殺された源義朝の首を洗ったとされる池で、国に変事が起こると、池の水が赤くなるといわれています。  



池といっても、ほとんど水がありませんした。



地元の人もあまり寄り付かない心霊スポットというのを読みましたが、たしかに名前だけでも不気味なものですよね。(;O;)

ここまで来たら、ようやく人に出会いました(#^.^#)

野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院で、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、源義朝ゆかりの寺として有名です。 

 

白河天皇の勅願によって承暦年間(1077〜1081)に建立したと伝えられていますが、義朝を弔うために平康頼が小堂を建てたことに始まるという説が有力で、源頼朝が墓参に訪れた際に堂塔伽藍を再建したともいわれています。 大門はその時建立されたものです。



大門  



以後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて発展しました。

本堂







 野間大坊(由来) 天武天皇(673〜686)の時、役の行者が草創、聖武天皇(723〜749)の時行基菩薩が再び開基し、弥陀三尊を守置し阿弥陀寺と称した。弘法大師は当寺に留錫、一千座の護摩供養を修し庶民の幸福を祈った。白河天皇の承暦年間(1077〜1081)一山を再建して勅願寺とし大御堂寺と命名された。親筆の金字の妙典八軸を納められた。源義朝公憤死の地で境内に墓地がある。又、縁結びの弁財天が良縁を授ける。建久元年(1190)源頼朝公により、守本尊開運延命地蔵菩薩が奉安された。守本尊は定期佛師作ではじめ平清盛の母の池の禅尼念持仏であった。頼朝十三の時平治の乱に敗れてとらえられたが、池の禅尼の命乞いによって助けられ、後天下を治めることが出来た。その時禅尼地蔵尊を頼朝公に与え、公は父の廟参の時当寺に納めた。尚、頼朝公相伝の延寿の秘法が当寺に伝わっている。(案内板より)  

本堂向かって左側には、鎌倉幕府五代将軍・藤原頼嗣寄進の梵鐘がある鐘楼堂があります。



鐘楼堂



平康頼の墓   





 
伊勢湾の方にある旅館で、源義朝御膳が味わえるそうですよ!

 

平治の乱に敗れた源義朝は、野間内海荘の荘司で、政清の舅である長田忠至の館にたどり着きましたが、恩賞目当ての忠致・景至父子の裏切りに遭い、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、殺されてしまいました。(「平治物語」)
 
しかし、「愚管抄」によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が、政清に自らの首を打つよう命じ、斬首した後に政清は自害したとされています。
 
義朝の墓には、義朝の最期の言葉「木太刀一本でもあらばかかる不覚はとらじ」と悔やんだという故事にちなみ、今でも多くの木太刀が奉納されています。
 
源義朝の墓




 
これは前に来た時になかったような・・・



同じ絵の絵馬を買いました!(^^)!



この墓の周りには、源義朝や頼朝にゆかりのある人物またこの地で自害した織田信孝の墓があります。
 
鎌田正清夫妻の供養塔(政家、政清、正家とも)


 
正清は、政清の母が義朝の乳母だったことから乳兄弟として最も信頼された郎党であったといいます。
 
鎌田政清

父は源為義の家人・鎌田通清。 義朝の東国修行に同行し、帰京後も側近として義朝に尽くしました。 平治元年(1159年)12月の平治の乱では、内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。
待賢門の戦いでは義朝の長男・義平とともに平清盛の長男・重盛と戦い活躍。
六条河原の戦いで源氏が敗れ、義朝が討死しようとするのを引き止めて共に東国を目指して落ちた。
 途中、落ち武者狩りの苦難に遭いながら義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館にたどり着く。だが忠致の裏切りにあい義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子・景致の手にかかって殺された(『平治物語』)。享年38。
『愚管抄』によると、罠を察知した義朝は政清に自らの殺害を命じたという。
文治元年(1185年)9月3日、政清の首は義朝の遺児・頼朝によって義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。
建久5年(1194年)10月25日、政清の娘が勝長寿院で父・政清と義朝の追善供養を行っている。政清に男子が無かった事から、頼朝はこの娘に尾張国篠木庄、丹波国名部庄の地頭職を与えている(『吾妻鏡』)。 (Wikipediaより)

織田信孝の墓


 
織田信長の三男・信孝は、豊臣秀吉に敗れてこの地で自害しました。

自刃の間があるのは安用養院です。

野間大坊(大御堂寺)は、池禅尼ゆかりの寺としても知られ、建久元年(1191年)に頼朝によって池禅尼の念持仏が奉安されたと伝えられています。 

池禅尼の墓



池禅尼は、平家に捉えられた頼朝の助命嘆願をした平清盛の継母に当たります。 藤原宗兼の娘として誕生。 平忠盛との間に家盛、頼盛を産む。
仁平3年(1153年)、忠盛の死後、出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と称され、後に頼盛は池大納言と呼ばれた。
平治元年(1159年)の平治の乱において捕えられた13歳の頼朝が、若くして亡くなった家盛に似ていることにより、池禅尼が清盛に対して頼朝の助命を嘆願したと言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。しかし、実際には頼朝が仕えていた、後白河の姉・上西門院や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものではないかという説もある。
頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も、彼女の息子である頼盛を平家滅亡後も鎌倉で庇護した。





続いて本殿へ







本殿に、大河のポスターが貼ってありました!



merryさんの記事はこちらをごらんください。

http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?eid=1038





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2012.09.04 Tuesday 00:00 | comments(8) | - | 
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2017.04.18 Tuesday 00:00 | - | - | 
ラメール (2012/09/04 3:26 AM)
義朝の史跡は、多くありますね。
なかなか立派なお寺です。
頼朝から家康まで、多くの武将が参拝にきたような
雰囲気のあるところに見えます。

やっぱり、平家清盛より源氏義朝の方が
後の世では、いいように扱われたようですね。
やっぱり清盛は、悪人か。
清盛ファンとしては、残念です。
しずか (2012/09/04 9:28 AM)
ラメールさん、コメントありがとうございます。

今年清盛のことを調べてみて、決して悪い人ではなかったのではないかと思いましたよ。
家来に優しかったという話も聞きましたし、なんといっても、頼朝を助けたのですから・・・
merry (2012/09/04 3:53 PM)
再び野間大坊を訪れられたのですね。

一度ならず、二度三度、足を運ぶごとに見る視点も変わってくると思います。

案内板が新しくなっていますね。
以前の織田信孝の看板は剥げてましたよ(笑)

前回も、今回も、私の記事のリンクをありがとうございます。
しずか (2012/09/04 6:14 PM)
merryさん、野間大坊の近くまで行ったので、寄ってみました。

大河イヤーで注目されるところは、看板、案内板が新しくなるのですね(*^_^*)

この絵の源氏はイケメンですねww


willy_tsuguo_shikata (2012/09/04 6:20 PM)
いや!凄い!
野間大坊の総括偏ですね!
今年12月は無理かも知れませんが、来年には車でいきます!
一人で車で走るときは高速料金が高いので地道を走ります!
 知多半島や尾張、三河、駿河の残りは来年になりそうです!
 ありがとうございました!
しずか (2012/09/04 11:36 PM)
四方さん、コメントありがとうございます!

ここは車で行くなら、冬よりも春〜夏が良いと思いますよ!

四方さんなら、うまく計画を立てて回られることでしょう。
ご縁結び (2012/09/05 1:19 AM)
行ってみたいです
しずか (2012/09/05 10:35 AM)
ご縁結びさま、訪問ありがとうございました!