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井伊亀之丞ゆかりの地(3)松岡城址

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

下市田の中央にある段丘上に位置する松岡城は、松岡氏一族の築城と伝えられ、主郭・二の郭〜五の郭からなる連郭式の城です。

築城時期は定かではありませんが、南北朝の戦乱の頃ともいわれ、その後戦国時代に大きな修築が加えられたと考えられています。

500年間にわたって、松岡氏の本拠地となりましたが、1588(天正16)年、同氏の改易により、廃城となりました。

現在、城址は畑になっていますが、堀の遺構は残されています。


 




松源寺本堂見学後、四の堀から本丸までを見学しました。

四の堀

 



三の堀

 



ぶどう畑


二の堀

 





一の堀


本丸跡

 



本丸からの眺め



亀之丞もこの景色を眺めていたのでしょう。

 



松岡家の断絶と井伊直政
1585(天正13年)松岡貞利(17代)は、徳川方でしたが、豊臣方の小笠原貞慶の誘いになり、高遠城攻めに向かいました。
途中で引き返しましたが、家臣の座光寺為真が伊那郡司・菅沼定利に密告し、それにより貞利は知久平城に監禁されてしまいます。
駿府の家康の面前で、裁判が行われ、改易・切腹が決定しましたが、井伊直政の嘆願により、命は救われました。これにより松岡家は断絶となりました。
(南信州新聞社パンフレット参照)

直政にとっては、父・亀之丞(直親)を匿ってくれた松岡氏に恩を返したことになりますね。

松源寺へと引き返します。

 

 

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2017.04.19 Wednesday 08:00 | comments(2) | - | 

井伊亀之丞ゆかりの地(2)松源寺

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

松源寺の本堂



本堂では、ご住職による説明があり、亀之丞が松源寺に落ち延びてきた経緯、龍潭寺との縁などを詳しく説明してくださいました。

 



こちらのご住職さん、浜北出身ということで、親近感が湧きましたo(^▽^)o

文叔瑞郁禅師の像

 




井伊直親の御位牌



伝・井伊家から賜った水差し



本堂から見た庭園



鐘楼



松源寺の鐘楼が、吊るし柿簾で覆われる光景は有名で、カレンダーになったり、TVや新聞でも紹介されているそうです。

 



そして、山門前のエドヒガンザクラもまた有名だそうですが、残念ながらこの日はまだ開花していませんでした。

 



 

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2017.04.18 Tuesday 14:30 | comments(0) | - | 

井伊亀之丞ゆかりの地(1)松源寺

[ 長野 ]

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井伊亀之丞ゆかりの地と桜守の旅のバスツアーに参加してきました。

 



遠鉄観光のバスで、浜松から飯田へ。

 


浜松を7時15分に出発し、11時に松源寺に到着。

 



松源寺は、井伊直虎の許婚である亀之丞(井伊直親)が今川氏から命を狙われ、松岡氏の庇護のもと匿われた寺です。

松源寺が創立されたのは、永正8年〜10年頃(1511〜1513)とされ、開基は松岡城主・松岡貞正、開山は貞正の実弟・文叔瑞郁禅師。
当時の寺は、牛牧村の寺山に建てられました。
その後、消失、移転、再建を繰り返し、現在の本堂は明治33年(1900)に再建されたものです。

山門は、江戸時代中ごろ大風で倒壊しましたが、残った部材を使い再建され、現在、高森町有形文化財に指定されています。

 




本堂



ここから中に入ります。

 



本堂に入ると、亀之丞の肖像が飾られています。

 

 



今川義元に命を狙われていた亀之丞は、渋川の東光院に身を潜めましたが、そこでも命を狙われ、南渓和尚が自浄院(龍潭寺の前身)の住職を務めた文叔瑞郁禅師が開山した伊那谷高森町の松源寺に逃げるように指示しました。
亀之丞は、松源寺で、9歳〜20歳までの12年間を過ごしました。そこで、亀之丞は、松源寺の住職から学問を教わり、松岡城の侍たちから武術や弓馬の稽古をつけられて育ちました。

亀之丞は「青葉の笛」を手にすることも多くなり、故郷を偲んで笛を吹いていたといいます。また、笛を教えてもらったお千代とは深い仲になり、子どもを儲けたとのお話も伝えられています。
20歳になった亀之丞は井伊谷に戻り、井伊直親を名乗り、虎松(後の井伊直政)を儲けますが、27歳で今川に謀殺されてしまいました。

 

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2017.04.17 Monday 01:35 | comments(2) | - | 

掛川古城と龍華院

[ 静岡 ]

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掛川城より東に500mほどのところにあった掛川古城は、山内一豐が現在の位置に掛川城を築城する以前、戦国時代の明応6年から文亀元年の間に、今川氏が遠江支配の拠点として重臣・朝比奈泰煕に築かせたと言われています。

その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正9年から10年頃に現在の地に掛川城が築かれました。

龍華院は、掛川古城があったところで、東側には空堀が残っています。







古城跡から見た掛川の街



境内には、徳川家光を祀るお霊屋があります。







龍華院大猷院霊屋

明暦2年(1656年)、嗣子のない掛川城主・北条氏重が三代将軍家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方型造りの霊廟です。文政5年(1822年)に掛川城主太田資始により再建され、現在、県の有形文化財に指定されています。

この霊屋は、明暦二年(1656)掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍家光(諡号大猷院)の霊牌を祀るために建てたものである。
当時の建物は、文化十五年(1818)三月火災により失われ、文政五年(1822)当時の藩主太田資始により再建された。現在屋根は瓦葺であるが、再建時は柿葺であった。内部には春日厨子があり、霊牌を祀る。昭和二十九年(1954)一月三十日、春日厨子を含め、静岡県文化財に指定された。
霊屋は嗣子のない氏重が断絶の打開策として建立したといわれるが、万治元年(1658)十月、氏重の死去に伴い、家は断絶、領地は没収しなった。
霊屋が建つ地には、戦国時代の明応六年(1497)から文亀元年(1501)ごろ駿河の守護大名今川氏親が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰熙に命じて築かせた掛川古城の本曲輪があった。

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2017.04.13 Thursday 01:15 | comments(4) | - | 

蜂前神社

[ 静岡 ]

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蜂前神社( はちさきじんじゃ)は、井伊直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」を所蔵している神社です。

応神天皇の時代、八田毛止恵が勅命によって遠江国に下向して開墾し、八ヶ前の地に本社勧請したのが始まりだといわれています。





蜂前神社

神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。
この一帯をかつては刑部郷といい、これは奈良時代からつづく古い地名です。
井伊直盛の代に今川義元に謀反を疑われた一族の直満・直義が殺害され、
直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許嫁だった直盛の娘も出家してしまいます。
弘治元年(1555)に帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある祝田村(ほうだ)に
住みました。
桶狭間で主君・義元とともし直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、
今川家から徳川家への謀反を疑われて謀殺されます。
存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。
女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対して、永禄9年(1566)、
今川氏真は井伊谷及び祝田・都田の地域に徳政令(貸借関係の破棄)を命じました。
直虎は独自の判断で、徳政令の実施を2年間押しとどめています。
蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。
                  
               平成28年3月 非宅まちづくり推進課




蜂前神社の由来

祭神 本社  熯速日命
   左脇宮 甕速日命
   右脇宮 武甕槌命

由緒
十五代應神天皇十一年庚子三月八日(西暦二七〇年) に八田毛止惠と云う人が勅命によって遠江國に 下向して 八田(祝田村の古名)四十五町 廣田(刑部村の古名)七十町 岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反  合計百二十三町余りを開墾して本社を八ケ前に 勧請して蜂前神社と斎き奉り子孫代々 祝部として奉仕しました
脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請され  その頃から社号は鳥飼神社、羽鳥大明神と 稱へられ延長五年(西暦九二七年)蜂前神社と 改め古名に復しました 延喜式神名帳に記載されている式内社で あり旧社格は郷社であります(駒札より)


なお、現在、直虎書状は浜松市博物館に保管されています。
当時、花押は身分のある男性が用いるものであったことから、直虎が男性として振舞っていた事がわかる貴重な史料となっています。

 

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2017.04.11 Tuesday 11:47 | comments(4) | - | 

新城の満光寺(2)徳川家康を助けたニワトリ

[ 愛知 ]

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宝永3年(1706)第9世住職・禅柱和尚の時、満光寺は拡張され、庭園も現在の景観に造られたとされています。

庭園は、小堀遠州流で、書院庭園(北庭)と庫裡庭園(東庭)の二庭から成り立ち、愛知県の指定文化財に選ばれています。


このお寺には徳川家康にまつわる有名な逸話も残されています。

元亀年間、徳川家康がまだ若かりし頃、武田信玄との戦いに敗れて落ち延びてきた時、満光寺を見つけ、住職に一夜の宿を頼むと、気の毒に思った住職が快く受け入れてくれました。そして、真夜中に鳴いたの声に、武田軍から命を助けられたと伝えられています。家康はその恩に報いるため、寺領三石の扶持を与え、その後の家光の時代には20石を与えたと言います。


満光寺では、今も小国という平安時代に遣唐使が中国から持ち帰った鶏の子孫であるという鶏を見ることができるそうです。
そういえば、鳴き声がしたのですが・・・
確認すれば良かったorz

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2017.04.06 Thursday 22:21 | comments(4) | - | 

新城の満光寺(1)鈴木重勝が再興した満光寺

[ 愛知 ]

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愛知県新城市にある満光寺は、奥三河七観音霊場の五番寺です。



山門は新城市の指定文化財に登録されています。

 


元々は天台宗のお寺として建立されましたが、戦火に焼かれ、天文2年(1533)今川義元の家臣・柿本城主鈴木長門守重勝により曹洞宗の寺として再興されました。

重勝は、井伊谷三人衆のひとり、鈴木重時の父であり、重時の嫡子・重好がわずか12歳で後を継ぎました。
また、重勝の娘が、井伊直満に嫁ぎ、井伊直親を生みました。

 



本堂には、十一面観世音菩薩が祀られています。



本堂の裏側に、鈴木重勝らの墓が祀られています。 

開基堂




右から、鈴木重勝と妻、鈴木重好(鈴木重時の嫡男)と妻の墓

 

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2017.04.05 Wednesday 07:00 | comments(2) | - | 

井伊直平を祀る渓雲寺

[ 静岡 ]

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引佐町川名にある渓雲寺は、永禄6年(1563)、今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めに行く途中に急死した井伊直虎の曽祖父・井伊直平を祀る菩提寺です。





直平は、1489年(諸説あり)に井伊谷城主、直氏の嫡男として生まれました。



『井伊家伝記』では今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、直平は氏真と共に出陣するも白須賀で陣を敷いていた直平の軍勢から南からの強風が原因で出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われ、その件で軍中では直平が井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で怨んでいたので白須賀を焼いて軍の最後尾に被害を与えたのではないかという悪い評価がなされ、直平は火事のことに関して不慮の事故だと説明するも、過失の埋め合わせとして今川の家臣だった天野左衛門尉が武田方に従ったことを知った氏真がに曳馬城の城主だった直平に鎮圧を命じ、直平が出陣の支度をしている時に、家老の飯尾連竜の妻のお田鶴の方に毒茶を勧められ、有玉旗屋の宿にて落馬し服毒死した。『井伊家伝記』の別の章には連竜が直平に毒薬を進め直平は服毒死したとある。これ以外にも敵の急襲を受け討死、服毒死(病死とも表現可能)など直平の死は諸説存在する。また直平の死後、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運ぶと殉死した(Wikipediaより)



庚申塔と経王堂

 

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2017.04.02 Sunday 08:00 | comments(2) | - | 

井伊直平の墓

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

井伊直平の死には諸説あり、『井伊家伝記』によると、永禄6年(1563年)今川氏真が父・義元の弔い合戦をしかけ、直平に三河への出陣を命じました。氏真より遅れて井伊谷を出た直平は、浜名湖の西岸を南下し、白須賀で陣を敷いていました。そのとき、遠州灘の強風が災いし、直平の軍勢から出火。火はたちまち燃え広がり、白須賀のあちこちの集落が焼き払われてしまいました。
これを氏真は、井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で恨みを抱き、直平が謀反を企てていると疑いました。三河吉田まで出陣していた氏真は陣をたたみ、掛川城まで撤退しました。

氏真は直平に今川の家臣だった社山城の城主・天野左衛門尉を攻めるように命じ、直平が出陣の支度を整え、引馬城主の飯尾連竜の妻のお田鶴の方の接待を受け、毒茶を勧められた挙げ句、有玉旗屋の宿にて落馬し服毒死しました。

そのほかに、連竜が直平に毒薬を進め直平は服毒死したとか、敵の急襲を受け討死したとか直平の死は諸説あります。
また直平の死後、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運び、橋の上で、鎧を脱がせ、そのすぐ山に葬り、小さな祠を建て、作左衛門は殉死しました。
鎧を脱がせたことから、その橋は鎧橋を呼ばれ、現在も残っています。

 

 

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鎧橋からすぐのところに、直平の廟所入り口を見つけたのですが

 



入り口が恐すぎます(..;)

この先に、民家があることを聞いていたので、勇気を出して進みました。

 



お〜あった〜(^^ゞ

 

 

花も備えられており、きちんと管理されています。

 

 

2017.04.01 Saturday 08:00 | comments(3) | - | 

龍潭寺井伊直親〜家臣の墓

[ 静岡 ]

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龍潭寺は、井伊家歴代当主の御霊が眠る菩提寺であり、井伊直親や、家臣らの墓もあります。

 





手前から、24代・井伊直政 井伊直親夫人 井伊直親 井伊直虎(次郎法師) 井伊直盛夫人


直虎と直親は隣同士です。

左が直親 右が直虎(次郎法師)


中野由直


中野氏は井伊氏当主・井伊直氏の弟・直房に始まる分流で、直由は直房の孫にあたります。妻(あるいは息子・中野直之の妻)と井伊直親の妻・奥山ひよは姉妹。
直由は井伊直盛の重臣であり、桶狭間の戦いで、直盛が討ち死にする際、遺言として、直親の後見役として直由を指名しました。
井伊直親の死後、新野左馬助とともに、井伊谷の城代を務めていましたが、今川氏真の命で、引馬城を攻めますが、天間橋で新野親矩と共に討死しました。

新野左馬助(親矩)


今川氏の一族で、直虎の母(祐椿尼)の兄。
直親が今川氏に謀殺された際、直親の子・虎松の助命嘆願をし、井伊家の城代になりました。
永禄7年(1564年)今川氏に謀反を起こした飯尾連龍の引馬城を攻め討ち死にしました。

奥山孫一郎



奥山朝利の息子。父とともに桶狭間の戦いに参戦し、井伊直盛が切腹を覚悟すると、その首が敵方に渡らぬよう井伊家に首を持ち帰り、中野を城代にするようにと遺言を託されます。その後、直親に近侍し、最期をともにしました。

 

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2017.03.30 Thursday 11:47 | comments(3) | - | 
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