大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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幕末四賢公 11日紀行

 

JUGEMテーマ:大河ドラマ

11月11日大河ドラマ「両雄激突」の紀行で西郷どんの屋敷跡が紹介されていました。このブログでは、11月10日に紹介しています。

西郷どんがストレス解消のために元将軍家のお狩場(目黒区駒場野)で狩りをしていました。その時の服装が上野にある犬を連れた西郷さんの銅像の姿です。

上野公園にある西郷さん



 
今回は、幕末の四賢公(しけんこう)について書きます。

福井藩主(松平春嶽)、宇和島藩主(伊達宗城)、薩摩藩主(島津斉彬後に久光)、土佐藩主(山内容堂)をいいます。

幕府の政治に参画し、有力大名を政治に参加させる改革をしようとしましたが、老中:阿部正弘が1857(安政4)年に死亡し、井伊直弼が老中となり安政の大獄が始まると4名は、謹慎させられ活動はできなくなりました。
1860(安政7)年、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されて以後、1863(文久3)年にかけて、謹慎が逐次解かれた。自由の身となった彼らは、隠居の身ながら幕政・藩政に影響を与えた。

 

山内 容堂 (やまうち ようどう)を紹介します。

1827(文政10)年、土佐藩15代藩主として生まれる。名前は豊信、容堂は、隠居後の呼び名。

当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。政敵の西郷からは、「単純な佐幕派の方が始末がいいと言われた」。

※佐幕とは、幕府を補佐するの意

 

龍馬がたてた政権を朝廷に返す案「船中八策」を理解しており、容堂はこれを妙案と思い、15代将軍・慶喜に建白。1867(慶応3年1)年11月9日に、大政奉還が成立した。



関ヶ原の戦いで功績があったため、家康から土佐藩を拝領したのが「功名が辻の山内一豊」です。それから15代続き、江戸時代の最後の藩主が山内容堂です。


山内容堂公

 
誕生碑
お城の東側にあります

 
高知城

 
道路の右:容堂公屋敷跡 左:下屋敷

 
山内神社

 
杯を片手に持った山内容堂公

酒と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。

維新後は、東京で妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。1872(明治5)年、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳で生涯を閉じた。

(参考資料:Wikipedia)
| 高知 | 00:01 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP