大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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篤姫誕生地 「島津本宗家の菩提寺・福昌寺」

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

福昌寺は、応永元年(1394年)、島津氏第7代当主島津元久が一族出身の僧・先に妙円寺 (日置市)を建てた石屋真梁を開山として招いて建立され、その後代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺となりました。

墓地には島津家第6代の師久(薩摩)、氏久(大隅)から、第28代斉彬までの墓があります。

 



天文15(1546)年、忍室和尚の時には、後奈良天皇の勅願寺となり、同18(1549)年にキリスト教を伝えたザビエルが鹿児島滞在中、忍室和尚と宗教上の問答を行ったところでもあります。住職の中には若い時の西郷隆盛大久保利通を指導した無参和尚もいました。

江戸時代の『三国名勝図会』によると、最盛期には1500人の僧侶がいたといいます。
明治の廃仏毀釈により薩摩国大隅国など旧薩摩藩領内にある寺はほとんどが破壊されましたが、福昌寺は島津氏の菩提寺ということで特別に残っていたのですが、島津忠義の妻・暐姫(島津斉彬の長女)が1869年に亡くなり葬儀を神式で行うことになった際に福昌寺も破壊されることが決定したそうです。

寺跡には昭和23(1948)に玉龍高等学校が建てられました。墓地の後背地の部分にはキリシタン墓地があります。
(かごしまデジタルミュージアムより)

本堂などはありませんが、島津家の墓所はこの案内図の通り残されています。



島津斉興の墓




島津斉興
幕末の第11代薩摩(鹿児島)藩主,第27代島津家当主。通称は豊後守,大隅守。官位は従三位参議。第10代藩主斉宣の長子として江戸で生まれたが,「近思録崩」(「文化朋党事件」)により文化6(1809)年に斉宣は隠退し斉興が19歳で襲封した。文政3(1820)年までは祖父重豪の後見を受け,そののちも天保4(1833)年に重豪が死ぬまで,重要事項についてはその指図の下にあったが,文政10年には調所広郷を起用して藩債500万両の整理に乗り出した。斉興の後継者をめぐっては嫡長子の斉彬と,斉興の愛妾お由羅の方の子久光とが競い,嘉永2(1849)年には藩内有識者や青年藩士らが斉彬を擁立すべく行動したことから「お由羅騒動」(「嘉永朋党事件」)と呼ばれる御家騒動に発展し,多くの処罰者を出した。しかし斉彬の襲封を期待する阿部正弘政権下の幕府の圧力によって,斉興は同4年に隠退に追い込まれた。隠居後は鹿児島の玉里御殿で余生を送った。(コトバンクより)

お由羅の方の墓



島津斉興の側室。
江戸の薩摩(さつま)鹿児島藩邸の奥女中であったが,藩主斉興の寵愛をうけ久光を生む。斉興の嫡男斉彬と久光とのあいだの継嗣問題が藩内の勢力争いとむすびつき,世にいうお由羅騒動がおきた。慶応2年死去。(コトバンクより)
法名「妙浄寛忍大禅定尼」

薩摩藩第11代藩主 島津家28代当主 島津斉彬(右)と夫人の英姫(左)の墓

 






島津斉彬
文化6年9月28日生まれ。島津斉興(なりおき)の長男。嘉永(かえい)4年(1851)薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家11代となる。藩営の工場集成館を設立し,殖産興業,富国強兵策をすすめる。養女篤姫(あつひめ)(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして,幕府への発言力をつよめる。将軍継嗣問題では西郷隆盛らをもちいて一橋慶喜(よしのぶ)擁立運動をすすめたが,安政5年7月16日急死。50歳。初名は忠方。通称は又三郎。号は惟敬,麟洲。

島津久光

 

 

島津久光
文化14年10月24日生まれ。島津斉興(なりおき)の5男。母はお由羅。薩摩(さつま)鹿児島藩重富領主。異母兄斉彬(なりあきら)の遺命で子の忠義が鹿児島藩主となると,本家に復帰して国父とよばれ藩政の実権をにぎる。文久2年(1862)兵をひきいて京都にはいり,藩の尊攘(そんじょう)過激派を弾圧(寺田屋事件)。また,勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど,公武合体運動をすすめる。帰途,生麦事件が発生し,薩英戦争をまねいた。維新後,内閣顧問・左大臣に就任したが,保守的意見がいれられず,明治8年隠退した。明治20年12月6日死去。71歳。初名は忠教。通称は又次郎。号は双松など。 (コトバンクより)

 


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| 鹿児島 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP