浜松市西区庄内町にある宿蘆寺
寺の西側には浜名湖があり、以前は深く入り込んで、芦(蘆)が多く宿っていたため、宿蘆寺という寺号がつけられたといいます。
室町初期の1466(文正元)年に普済寺(浜松市中区広沢)の命天慶受(めいてんけいじゅ)和尚によって開かれました。
かつては38カ寺にものぼる末寺を擁していたそうです。
宿蘆寺の開基はこの地にあった佐田城の城主・堀江下野守久実(ひさざね)とされています。
堀江氏の先祖は越前国(福井県)の豪族藤原時国。
時国は越前国堀江庄に住んでいたことから堀江氏を名乗るようになり、更にその4代後の光真が初めて遠江に来住し、佐田の城を構えました。この佐田城が堀江城の前身になったといわれています。
現在ある本堂は、安永5年(1776)に完成したもので、桁行10間半、梁間8間、寄棟造り桟瓦葺きの建物です。
山門に掲げられている「藤谷山(とうこくざん)」の額は、徳川光圀(水戸黄門)の師匠である東皐心越(とうこんしんねつ)禅師の書。
藤谷山という山号は昔、寺の背後の山に藤が自生しており、満開の頃には浜名湖を行き交う舟からも藤が見えたほどというところからつけられたとされています。
宿蘆寺には三方原合戦の際、徳川家康が逃げ込んだという伝説も残されているそうです。
戦いに負けた徳川家康が数人の家来を連れて、浜名湖のほとりまで逃げて来たときのこと。
日が暮れて辺りが暗くなってくると、その前の夜から寝ていなかった家康は、ようやく敵の目を逃れたのに安堵し、眠くなってきた。家来にどこかいい場所がないか探させるが、浜名湖のほとりには蘆(あし)が深く茂っており、とても眠れる場所ではなかった。
近くにお寺があることに気付き、家来が山門の戸をたたいたり、中に向かって叫んだりしたが、何も返事はなかった。
そのお寺の名前が宿蘆寺(しゅくろじ)だと知った家康は、蘆の中で眠ることを思いついた。一人の家来が湖畔から小舟を一隻見つけ出し、蘆の中のあまり見えないところにその小舟を持って行き、その中でゆっくりと寝た。
翌朝、起きてきた宿蘆寺の和尚たちは、小舟の中で眠る家康の姿を見つけると驚き、そしてもてなした。(浜松情報BOOKより)
庭園
大沢家は、江戸時代に現在の庄内地区を治めた旗本で、明治元年(1868)には堀江藩(庄内地区の藩主となり、代々、江戸幕府の高家(こうけ)という要職をつとめた高い家柄として知られています。
高家の役職は、慶長8年(1603)、徳川家康が 将軍職を拝任する際に、大沢基宿が儀礼をつかさどったことに始まり、主として朝廷関係の儀礼をつかさどる役職で、朝廷からの使いを江戸で接待したり、京都への使者をつとめたりしました。
大永2(1522年)佐田城が落城。
寛永17年(1640)大沢基宿が死去し、領地内の宿蘆寺に葬られ、これより堀江城主・大沢氏の菩薩寺となりました。
大沢家の墓所は、本堂の西側にある丘にあります。
境内の墓所には、10代基宿(ともいえ)から19代基暢(とものぶ)までの10人の城主と、城主・基之の長男・基栄の11基の墓碑があります。
堀江藩主となった大澤基寿(大政奉還の際に徳川慶喜の使者として参内し、その表を奏した)は神道に改宗したため、ここにには葬られていません。
一部墓石が崩れていました。(現在修復中とのことです。)
(浜松情報BOOK、はままつの文化財参照)
※この宿蘆寺で、おんな城主直虎のロケが行われたそうです。
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