大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
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井伊直弼史跡4 大老歌碑 

JUGEMテーマ:大河ドラマ

●3月4月日号週刊西郷どんの「井伊さんぽ」で佐野史郎さんが直弼の彦根史跡を訪ね歩いた記事が載っていましたので、歩いてきました。NO2「大老歌碑」です。

 

井伊大老歌碑地図




歌碑
「あふみの海 磯うつ波の いく度か 
  御世にこころを くだきぬるかな」 
(琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、何回も繰り返しているように、難問が何回も押し寄せてくる。しかし、全身全霊心を砕いて国政を行っているので悔いは残りません)国の政治を命をかけて行っている決意が読めます。



  






| 滋賀 | 00:01 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直弼の史跡3 清涼寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

●3月4月日号週刊西郷どんの「井伊さんぽ」で佐野史郎さんが直弼の彦根史跡を訪ね歩いた記事が載っていましたので、歩いてきました。NO3「清凉寺」です。

井伊直政が関ケ原合戦の傷で亡くなったときに創建された井伊家代々の菩提寺です。創建時は、石田三成の家臣:島左近の屋敷跡と言われています。

 

清凉寺地図



 

清凉寺本堂

 
 


 
井伊家代々の墓

 
歴代7藩主の墓石とその奥には、正室、側室、子息、子女等一族の58基の墓石が建立されています。

 

 

| 滋賀 | 04:16 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直弼史跡2 天寧寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

やっと録画していた大河ドラマ4月8日「変わらない友」を見ました。今回は、篤姫の輿入れと大久保正助(瑛太さん)の結婚、そして、太陽の吉之助と月の正助が二人そろって、江戸へ旅立つシーンで終わりました。

「4月8日号週刊西郷ごん」(NHK西郷どんの中の一つのコーナー)は、360度ギャラリー「江戸薩摩藩邸」です、ぐるっと藩邸内が見れます。

過去には、3月11日号「品川宿 磯田屋」、2月4日号「御前相撲 磯御殿の土俵」、1月21日号「西郷家と大久保家」の4つの360度ギャラリーがあります。


 
●3月4月日号週刊西郷どんの「井伊さんぽ」で佐野史郎さんが直弼の彦根史跡を訪ね歩いた記事が載っていましたので、歩いてきました。NO2「天寧寺」です。

1860(安政7)年3月3日、桜田門外の変で、直弼が駕籠の中で敷いていた座布団や流した血が染みこんだ土は暗殺を隠すために彦根に運ばれ、直弼最期の衣装類と共にここ天寧寺の境内に埋められました。そして直弼の供養塔が建てられています。

かごの中に敷いていた座布団はこのお寺に保存されています。(座布団は未公開ですが、「井伊さんぽ」では、取材されています)

また、井伊直弼と関係のある長野主膳と村山たか女の墓もあります。

五百羅漢も有名です。

 

 

 

天寧寺地図

 

 

天寧寺


 

腰元の不義の相手が自分の息子であったため、自分の過ちであることが分かります。



 
井伊直弼供養塔
桜田門外の変で、直弼が流した血が染みこんだ土は、暗殺されたことを隠すため、直弼最期の衣装類と共にこのお寺の境内に埋められました。

 

 


 
長野主膳の墓(義言よしとき)
直弼の師で国学、和歌を教えた。直弼の死後、直弼を陰で操ったと見られ、斬首の刑に処せられる。(享年48歳)


 
村山たかの墓
直弼とお忍びでこのお寺で会っていたようです。また、長野主膳とも関係をもっていて、安政の大獄の情報を江戸に送った女スパイでした。捕らえられて晒しものの刑に処せられました。尼となって余生をおくりました。


 
五百羅漢像
京都の仏師駒井朝が刻んだ木造五百羅漢は、お釈迦様を囲むように三方に安置されています。探している人の顔がかならずあると言われています。

 

 

 

 

| 滋賀 | 01:53 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直弼の史跡1 埋木舎

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3月4日大河ドラマ「江戸のヒー様」に島津斉彬の対抗勢力として井伊直弼(いいなおすけ)が登場しました。演ずるのは佐野史郎さんでメイクも直弼似にしてニクニクさを出しています。

 

井伊直弼が登場すると悪役のイメージが強く描かれることが多いですが、開国に反対の多かった時代にこのままでは、清国のように欧米列強によって占領されてしまう危機感を感じ、強硬に開国を断行した直弼の実行力が後の日本の発展につながっています。

 

1815(文化12)年10月 誕生 

1858(安政5)年4月 大老に就任(44歳)

        6月 日米修好通商条約調印

        9月 安政の大獄(橋本左内 

                          吉田松陰などが処刑される)

1860(安政7)年3月3日 桜田門外の変

                              で暗殺される(46歳)

 

●井伊直弼は、1963(昭和38)年の大河ドラマ第1作「花の生涯」(船橋聖一作)で放映されました。主演は尾上松緑(井伊直弼)、淡島千景(村山たか)

 

●3月4月日号週刊西郷どんの「井伊さんぽ」で佐野史郎さんが直弼の彦根史跡を訪ね歩いた記事が載っていましたので、歩いてきました。

 

 

直弼肖像画

 

直弼史跡地図

 

 

埋木舎(うもれぎのしゃ)

17歳〜32歳までをここで過ごし、一日4時間寝るだけで足りると文武両道に励みました。

 

 

 

 

居間

 

国学、和歌などの師として長野義言(よしとき)に仕える

 

直弼と女性

 

 

絵の右;里和(りわ) 側室

絵の左:千田静江(志津) 側室

村山たか  直弼の愛人であり女スパイでした
 捕まった後、尼となる 天寧寺に墓があります

 

正室は、松平昌子 亀山藩主の娘

 

 

案内板彦根城前に埋木舎の案内板があります

 

 

 

 

 

 

| 滋賀 | 02:21 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高瀬姫のお墓がある「長純寺」〜彦根市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

井伊直政の姉・高瀬姫は、父直親(亀之丞)が信州の松源寺で匿われていた時期に、地元の代官・塩沢氏の娘を妻とし、その間に授かった子どもであるとされています。
もう一人男の子がいたという説もあるようですが、井伊家に残る記録には直親の子どもは直政と女子の二人となっているそうです。

 

 

その高瀬姫のお墓が、彦根市佐和町の長純寺にあります。

 

 

この五輪塔が高瀬姫のお墓です。

案内板によると・・

 

高瀬姫五輪塔


戒名 春光院殿家應宗傳大姉
寛永11年(1634)8月11日歿


高瀬姫は彦根藩井伊家初代藩主(井伊家第24世)直政の姉。
慶長5年(1600)河手主水良則の室となる。
始祖河手重忠は延元元年(1366)井伊家第12世井伊介道政と共に、宗良親王の共をして遠州に下った家柄で後、徳川家康に召され、歴戦の巧者として識られ、三河遠州地区の地頭職となった。
天正10年(1582)初代河手良則(高瀬姫の夫)は、家康の命により井伊直政に付けられ家老役(2500石)となる。
後、戦功により4000石となり、関ケ原戦の時には、直政の後見役として高崎城代を務めた。

 

 

生まれた年がハッキリと分からないのですが、だいたい80歳前後で亡くなったと推定できます。

当時としては、ずいぶん長寿だったのですね。

井伊直政が慶長7年(1602)に亡くなっているので、その後32年も生きたことになります。

 

 

 

 

長純寺には、芭蕉の高弟であり、狩野派の画人でもあった彦根藩士・森川許六のお墓もありました。

 

 

 

 

 


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| 滋賀 | 17:04 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直孝の生母ゆかりの「圓常寺」〜彦根市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

井伊直政には、2人の男の子がいました。

嫡男は、正室「花(東梅院)」の産んだ「直継」

もう一人は、正室の侍女「阿こ(養賢院)」の産んだ「直孝」です。

 

「阿こ」の父は、正室の父・松平康親に仕える下級武士「印具徳右衛門高重」だとされています。

 

しかも「直継」と「直孝」はほぼ同時期に出生。

正室が激しく怒ったと伝わります。

 

「阿こ」は実家に戻され、駿河国中里(焼津市)で直孝を出産。

その後正室をはばかって、母子は苦労をしたようです。

 

 

 

彦根市城町にある「圓常寺」は、彦根3代藩主となった井伊直孝が生母「阿こ(養賢院)」を祀るために建立したお寺です。

 

 

自分が立派な武将になることが出来たのは母君のお陰であるとして、直孝が開基となり薫誉路寛上人が開山となって建立されました。

この薫誉路寛上人というのは、井伊直政の三女北條直子の孫だそうです。

 

 

本堂は元禄17年(1701)と寛保3年(1747)の二度の火災の後、豊郷町四十九院から移築されたと伝わります。

それから270年の月日が経過しています。

内部には煌びやかな内陣があり、鎌倉時代の快慶の作と伝わる阿弥陀如来立像が安置されていました。

また「養賢院」の位牌も見せて頂きました。

 

僧侶の方(住職さん?)が詳しく案内して説明して下さったのですが、写真はNG

 

 

お庭だけ写真を撮らせて頂きました。

 

大正時代のガラス越しに見るお庭もまたステキです。

 

拝観料は200円。こんな可愛いお土産をもらいました。

 

 

 

 

お庭の観世音菩薩と鐘楼

 

 

 

道が狭いので、車を停められるかと心配していたのですが、こんな広い駐車場がありました。

 

 

 

 

 


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| 滋賀 | 16:53 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
東梅院ゆかりの「宗安寺」〜彦根市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

井伊直政は、天正11年(1584)1月、松平康親の娘「花」を家康の養女として正室に迎えました。

直政と花の間には一女一男が生まれ、長女政子は家康の四男・松平忠吉の正室に、嫡男直継は直政の跡を継いで彦根藩2代藩主となりました。

 

しかし、直継は病弱のため、異母弟・直孝が彦根藩3代藩主となり、直継は分家して安中藩主となりました。

おそらく「花(東梅院)」も、直継について安中藩は行ったのでしょう

 

 

 

彦根夢京橋キャッスルロードの真ん中に立つ「宗安寺」は、直政の正室「花(東梅院)」ゆかりの寺です。

 

宗安寺の赤門は佐和山城門を移築したと伝わりますが、朱塗りであるのは、開基である東梅院が徳川家康の養女であり、家康公の尊牌を祀る寺だからとされています。

 

 

宗安寺の歴史は古く、上野国(群馬県)「安国寺」に由来します。

 

「安国寺」は南北朝から戦国時代の動乱で荒廃しましたが、天正18年(1590)井伊直政が上野国箕輪の城主となった時、直政の正室「東梅院」が両親の菩提を弔うために復興しました。

 

そして直政が高崎城を築城すると安国寺もその城下に移り、関ケ原の合戦のあと佐和山城へ移封となるとその麓へと移ってきました。

 

この時、敵方西軍毛利家の将が「安国寺恵瓊」だったので、「安国寺」を改名して、東梅院の父松平康親の戒名「無月宗九居士」の「宗」と、母「心誉理安大姉」の「安」をとって「宗安寺」としました。

 

慶長8年(1603)彦根城下町の形成に伴い、宗安寺は現在地に移築され、現在に至っています。

 

 

本堂は長浜御殿を移築したものです。

 

その横にある玄関は江戸時代の建物で、彦根藩主もここを通って書院奥に向かったそうです。

 

 

板襖に描かれているのは「司馬光甕割図」と「虎図」

これも長浜御殿にあったものと伝わります。

 

 

 

 

本堂に安置されている「木造阿弥陀如来立像(滋賀県指定文化財)」は、慶長20年(1615)大阪夏の陣で徳川方の軍勢が大阪城に攻め入った際、井伊家家臣 所藤内(ところとうない)が仏間より拝持したもので、淀殿の稔持仏と伝えられています。

 

 

その横には、埋木舎時代の井伊直弼と静江の方が使用した座布団がありました。

 

 

書院には、石田三成公念持仏とされる「千体仏」と「地蔵尊」が祀られています。

 

 

江戸時代、宗安寺は朝鮮通信使の宿館であったことから、「朝鮮高官像」と伝わる絵が伝わっています。

これはパネル展示ですが、実物の「絹本著色朝鮮高官像」は彦根市指定文化財となっています。

 

 

東梅院ゆかりの物はないと思っていたのですが、後になって東梅院の遺品「紙本金地著色秋草図屏風」(彦根市指定文化財)が宗安寺にあることを知りました。

 

見落としました(>_<)

東梅院ゆかりの唯一のものだったのに・・・

 

いやもしかして、寺宝なので展示されてなかったかも知れません・・(*^^)v

 

 

 

 

さて、素敵なお庭の向こうには・・

 

 

渡り廊下があって・・

 

 

徳川家康の位牌堂がありました。(ガラスに映っている影は私です(笑)

 

 

 

 

境内のお墓には、大坂夏の陣で井伊家の軍勢と戦い、壮烈な戦死を遂げた豊臣方の勇将「木村重成」公の首塚があります。

 

その首は井伊家の家臣安藤長三郎がもらい受け、安藤家の墓の隣に五輪塔を建てて埋葬されました。

 

 

また地蔵堂の前には、木村重成ゆかりの「血染めのすすき」があります。

 

 

 

 

 

「赤門」と並んで、道路に沿った西に「黒門」もあります。

 

宗安寺が朝鮮通信使の宿泊所となっていた時、御馳走搬入など、勝手口として使われていたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 滋賀 | 13:39 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊直政の生母ゆかりの「天寧寺」〜彦根市

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彦根駅東口から歩く事15分。

山手に向かって急な坂道を登りきると、彦根11代藩主井伊直中が建立した「天寧寺」があります。

 

 

 

 

 

天寧寺は、京の名工駒井朝運を中心とした仏師が刻んだ五百羅漢の寺として有名です。

 

 

・・が、実は天寧寺は、元々は井伊直政の生母(奥山朝利の娘「しの」とも「おひよ」とも)の菩提を弔う「崇徳寺」というお寺でした。

 

「崇徳寺」は、直政の生母の戒名「永護院殿蘭庭崇徳大姉」からつけられた寺号で、彦根城下の上藪下(京町3丁目)に建立されました。

 

直政が建立したとも、3代藩主井伊直孝が明暦年間(1655〜1658)に建立したとも伝わります。

 

直孝から見れば、直政の生母は祖母にあたります。

 

 

そして160年余りの月日は過ぎ、文政2年(1819)彦根城下にあった「崇徳寺」は、井伊直中によって、彦根城をのぞむ風光明媚なこの地に移され、「天寧寺」となりました。

 

 

法堂(本堂)と、その前にある「羅漢石庭」

 

 

境内には「井伊直弼公供養塔」をはじめ、「長野主膳の墓」「村山たかの碑」「井伊文子夫人顕彰歌碑」など、井伊家の歴史を語る多くの石碑がありました。

 

 

 

 

 


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| 滋賀 | 12:49 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
昊天和尚ゆかりの「龍潭寺」〜彦根市

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清凉寺の隣に「龍潭寺」があります。

 

 

 

彦根の龍潭寺は、井伊直政が佐和山城主となったのを機に、井伊谷の龍潭寺5世・昊天崇建(こうてんそうけん)を迎えて創建された、臨済宗妙心寺派の名刹です。

 

 

元和3年(1617)諸堂が完成すると、龍潭寺は近江随一の禅刹となり、近郊に十余りの末寺を有する巨大な寺院へと発展しました。

 

また全国有数の禅宗大学寮として、多くの修行僧をかかえました。

 

 

特に「園頭科(おんずか)」は日本の造園専門学の発祥とされ、ここで多く僧侶たちが造園を学び、全国の禅寺庭園を手掛けたと言われています。

 

昊天和尚も造園に深い知識や技術をもっていたようで、龍潭寺には昊天和尚の作庭と伝わるお庭が残っています。

 

方丈南庭「ふだらくの庭」

 

 

右側にある「栂」は、昊天和尚お手植えの木と伝わります。

 

 

奥の書院にある「鶴亀蓬莱庭園」 

昊天和尚と小堀遠州の合作と伝わります。

 

 

 

龍潭寺の中に昊天和尚の木像があったのですが、残念ながら写真撮影禁止。

なかなか端正で威厳のあるお顔でした。

 

 

 

 

さて彦根藩には、芭蕉の高弟であり、狩野派の画人でもあった森川許六という武士がいました。

方丈の襖絵56枚は森川許六の筆によるもので、彦根市指定文化財となっています。

 

獅子の間

 

鶴の間

 

 

 

 

 

また龍潭寺は佐和山の麓にあることから、佐和山城ゆかりの物も残されています。

 

石田三成の佐和山御殿で使われていたと伝わる板戸。

桃山時代のものです。

 

 

佐和山城にあった陣鐘を、昊天和尚が彦根藩3代目「井伊直孝」より拝領したという「龍潭晩鐘」

 

 

そして境内には「石田三成公像」や「石田三成群霊供養」もありました。

 

 

 

 

 

ところで、佐和山への登山道途中の墓地に、新野左馬之助親矩のお墓があります。

 

 

江戸時代後期に新野家は井伊直弼の兄親良によって再興され、親矩のお墓が建立されたという事です。

 

 

 

 

 

 


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| 滋賀 | 20:14 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
井伊家の菩提寺「清凉寺」〜彦根市

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彦根城下の東に、彦根藩主井伊家の菩提寺「祥壽山 清凉寺」があります。

 

清凉寺は、慶長7年(1602)彦根藩初代井伊直政の死去により、その墓所として創建された曹洞宗のお寺です。

 

「祥壽」の山号、「清凉」の寺号は、ともに初代藩主井伊直政の戒名「祥壽院殿清凉泰安大居士」に由来しています。

 

 

 

3代目藩主・井伊直孝が、上野国箕輪から高僧愚明正察(ぐみょうしょうさつ)を招いて住持とし、直政以降、彦根で亡くなった歴代藩主やその一族が埋葬されました。

 

 

 

境内は石田三成の家臣であった島左近の屋敷跡といわれ、背後には三成のお城があった佐和山があります。

 

本堂

 

 

客殿

 

 

禅堂

江戸時代にはもっと大規模な修行道場があり、埋木舎時代の井伊直弼も参禅したと伝わります。

今でも毎月座禅会が行われているそうです。

 

 

島左近の屋敷の頃からあるという樹齢五百年余りのタブの木。

娘に化けるという怪奇伝説が残ります。

 

 

 

本堂裏の高台を登ると、井伊家歴代の墓所があります。

前列に、歴代藩主の墓石7其が整然と並び、その奥と南側に一族のお墓があります。

 

 

前列の真ん中あたり、玉垣で囲われているのが井伊直政のお墓です。

 

藩主の墓石7其とも無縫塔形で見分けがつきませんが、唯一直政公のお墓だけ囲いがあるのが目印です。

 

井伊家歴代藩主とその一族は、国許である彦根の菩提寺「清凉寺」と、江戸の菩提寺「豪徳寺」の大きく分けて2カ所に埋葬されています。

唯一4代藩主直興だけは、永源寺の南嶺慧詢に深く帰依したため、側室とともに永源寺を墓所としました。

 

このように墓所が国許と江戸に2分されているのは、参勤交代の制度に下に、国許と江戸に居住するという幕藩体制下の大名のあり様を明瞭に示す貴重な資産として、平成20年、「清凉寺」「豪徳寺」「永源寺」の井伊家墓所3ヶ所が併せて国の史跡に指定されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 滋賀 | 14:43 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP