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井伊直政ゆかりの彦根

[ 滋賀 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

今年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台は浜松市ですが、彦根市もまた井伊家ゆかりの地です。

 

彦根駅前に建つ「井伊直政公像」

 

 

井伊氏は平安時代以来の名族とされ、遠江(静岡県西部)に自らの領地を持つ有力な「国人領主」でした。

しかし戦国時代には過酷な今川氏の支配によって次々と跡継ぎである男たちが殺され、あるいは戦死して、一家断絶の危機に陥りました。

そんな中、女でありながら井伊家の家督を継いだ直虎は、一家を束ねて領地を守り、ただ一人の男子である幼い虎松(後の直政)の養母になり、彼に家督を引き渡すために尽力しました。

やがて徳川家康に仕官した虎松は名を直政と変え、戦国の世を勇猛果敢に戦って徳川四天王のひとりと数えられるまで出世しました。

直政は関ケ原の合戦でも功をあげ、佐和山18万石の大名となって近江へと移りました。


その後直政は、城を現在地の彦根山へ移そうとしましたが、1602年、関ケ原の合戦で受けた傷がもとで41歳で病没しました。

しかし子らが直政の遺志を受け継ぎ、20年の歳月を費やして元和8年(1622)彦根城を完成させました。


こうして井伊直政は彦根35万石初代藩主とされ、今日の彦根市発展の礎を築いた偉人として今も讃えられています。

 

 

彦根城の佐和口

 

桜の季節の彦根城

 

玄宮園から見る彦根城

 

 

 

 

ところで、彦根と言えば今や超有名人「ひこにゃん」

 

 

ひこにゃん人気と相まって、今年は「井伊直政」、そして彼を育てた「井伊直虎」の人気も上がって欲しいものですね。

 

 

 

 

 

 


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2017.01.13 Friday 00:00 | comments(8) | - | 

大谷吉継の首塚(米原)

[ 滋賀 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

ラメールさんの書かれた記事 http://kazutoyochiyo.jugem.jp/?eid=1849

 

を見て、米原にある大谷吉継の首塚を訪ねてみたくなり、先月行って来ました。

JR米原駅から徒歩約15分。

米原郵便局を目印に進み、下多良神社の脇の道を通り過ぎて行くと、

 


 



畑の真ん中に祠が見えてきます。

 

 

大谷吉継は、豊臣秀吉の小姓として信任を得、奉行となって越前敦賀で5万石を拝領。

朝鮮の役に石田三成らとともに参加。

秀吉没後、慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いで西軍石田方として参戦。


関ヶ原での小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯で自刃。
家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の僧・祐玄に持たせ、敦賀の逃亡の途中に、この地に埋め隠したといわれています。
吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にしました。

 


 



吉継の首については、諸説あり、自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかったとも。

 

祠の中を覗いてみました。
 



吉継の首塚は、綺麗に整備されていて、今も地元の人に大切に祀られているのがわかりました。

 


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2016.09.22 Thursday 00:00 | comments(6) | - | 

石田三成物語6/6 長浜城

[ 滋賀 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

1570(元亀元)年の浅井・朝倉軍との信長との決戦:姉川の戦いに勝利した信長は、浅井氏の居城:小谷城を秀吉に与えました。秀吉は、1575(天正3)年、交通の便のよい琵琶湖の近く今浜に城を完成させ、長浜と命名しました。

 

三成は、秀吉に才能を見出され、長浜城に登城しました。



 
豊(ほう)公園の場所に長浜城があります。
ここから東(右)へ約5k行くと三成の家があります。


 
長浜城
城

 
天守閣から見た景色

浅井長政の居城:小谷城はすぐちかくです。

賤ヶ岳
上の写真の左側の景色
景色


 
城下町長浜

長浜城の城下町の中を北国街道が通っています

北国街道

 
北国街道には、武者隠れが造られていて戦時に備えた対策がとられてます。家がギザギザ状に建てられています。
武者隠れ通り

 
武者が隠れるように家が引っ込んでいます。
武者
武者板

 
秀吉は10名の町衆に町を治めさせました。
その中の筆頭格の安藤家
安藤家
安藤家板

 
街中には、古い建物が残っています
通り


 
大通寺山門
長浜城にあった大通寺を1649年にこの地に移されました。この山門は、1808年に建築が始まり1840年に完成しました。
大通寺
大通板

 
本堂
本堂

 
広間付玄関
この建物は、1760年に建てられました。
玄関
玄関板

 
門前通り
大通寺門前


 
行列のできる有名な親子丼ぶりの店:鳥喜多
鳥喜多

 
うまそう!!!  ¥580円
鳥丼

 
石田三成物語も今回が最終です。
三成を表す言葉に
「三成には過ぎた物が二つある
それは、島左近と佐和山城」です。

 
島左近
石高4万石の三成がその半分を与えて召し抱えた武将です
島

 
佐和山城
1591年、三成は19万石の佐和山城主となり、天守閣を建てました。関ヶ原後、徳川軍が入りましたが、内装は質素で財宝などほとんどありませんでした。
佐和山城

 
三成に過ぎた二つの話は、三成を軽んじたようにみえますが金銭に執着せず、真心をもって豊臣家に仕えた義に熱い武将であったことを表しています。司馬遼太郎は、徳川家康に、「三成は素晴らしい武将である。豊臣恩顧の大名供が恩賞につられ、どんどん裏切るなか、ただ一人亡き豊太閤の大恩に報じんとワシに向かって来た。三成こそ真の武士である」と言わせています。

 

ランキング1位、 応援クリックありがとうございました。 今後ともよろしくお願いもうしあげます。

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2016.08.12 Friday 00:01 | comments(5) | - | 

石田三成物語4/6 観音寺

[ 滋賀 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

石田三成物語3で、三成は修業していた観音寺で、秀吉に会って、三献の茶でその才能を認められた話を書きましたが、今回は、その観音寺についての記事です。

 

その前に、大河真田丸で石田三成役を演じている山本耕史(こうじ)さんは、演じる心構えを次のように言っておられます。

『三成のイメージは、豊臣政権を支えるために、聡明で冷静に仕事を進めていくイメージですので、端明、明閣で、余計なことは言わず、余計な仕草をしない感情のないロボットのような感じを出すようにしていますが、実は、自分の才能を見つけてくれた秀吉のために、そして、秀吉の死後は、豊臣政権の復権のために最後まで生き抜いていく熱い男を演じ切って行きたい』と言っておられます。

これからの山本三成のそんな熱い心のある演技を楽しみにしています。

三成ポスター
佐和山城

1591年、三成31歳の時、佐和山城19万石(近江北部)の大名となった。

 

観音寺地図

地図

 

 

板

寺は、770年ころ、伊吹山で創立されました。1347(貞和3)年に現在地に移されました。

鎌倉、室町時代は、この地の領主であった佐々木氏、戦国期には、浅井家、長浜城主時代の羽柴秀吉、江戸時代には、彦根藩井伊氏の所領として、保護されてきました。

 

惣門

惣門

 

 

惣門を入ると本堂まで一本道です。

入口

 
道路

 
階段

 
本堂
本堂

 

 

薬師堂

 
薬師堂
薬師堂

 
鐘楼
鐘楼

 

 


 
惣門の前から、伊吹山が見えます。
伊吹山

 

 


 
紫陽花

 

 
いつも応援ありがとうございます。
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2016.08.06 Saturday 03:04 | comments(6) | - | 

大谷吉嗣首塚(米原市)

[ 滋賀 ]

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大谷吉嗣は、三成の盟友で、秀吉が「100万の兵を与えて戦わせてみたい」といわしめた武将です。

 

大谷吉嗣首塚(滋賀県米原市下多良)

首塚

 

田んぼの中にぽつんと塚があるだけです。

全景

 

 

 

関ヶ原の戦いで、敗戦を悟った吉継は「自分の首を敵に渡すな」と言って自害しました。家臣はその言葉に従って主の首を地中に隠しました。その場所がここではないかと思われます。 (享年41歳)

板

 

絵

 

大谷吉嗣の墓は、関ヶ原にあります。

 

 

下多良神社の裏手にあります。(滋賀県米原市下多良)

下多良

 

 

 

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2016.07.27 Wednesday 03:00 | comments(6) | - | 

石田三成物語3 秀吉との出会い

[ 滋賀 ]

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三成の少年期は、近くで織田信長と浅井長政が激突した姉川合戦〔1570(元亀元)年】の戦場の近くに住んでいたため、多感な少年佐吉(三成幼年期名)に大きな影響を与えたと思われます。三成は、家から東へ1.5Kいったところの観音寺へ学問修行のために預けられていました。

そして、ここで三成の人生を決定づけた秀吉と出会います。

 

 

観音寺(三成屋敷:石田会館は左へすぐ)

 

観音寺門(三成が秀吉に出会ったお寺)

観音寺

 

お茶板

 

 

三成展(観音寺境内)

資料館

 

水の文字を描くことで火災から建物を守るおまじないです。

水

 

三成の三碗三温のお茶
鷹狩の途中、観音寺に立ち寄った
秀吉は「長浜の秀吉じゃ、お茶を一服所望したい」
居合わせた三成は、ぬるめのお茶を大茶椀になみなみと入れて差し出した。
二杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を、
三杯目は、先にお菓子を出し、茶は小さい茶碗に熱いお茶を入れて差し出しました。
秀吉は、三成のその対応に感嘆して、小姓として召し抱えました。

三椀

 

 

観音寺境内に水汲みの井戸があります。

井戸案内

 

お茶を献じた水汲みの井戸

お茶井戸

 

お茶板

 

井戸の横にある池

池

 

 

三成展会場

資料室

 

 

三成と大谷吉嗣

三成チョット格好よすぎですが。

顔だし

 

長浜駅前の三献の茶の銅像

長浜駅

 

 

 

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2016.07.24 Sunday 03:31 | comments(5) | - | 

石田三成物語2 石田会館 三成像

[ 滋賀 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

三成の屋敷跡に、三成の資料を展示、保存した「石田会館」があります。

41_r

 

会館内の庭に銅像と碑がたっています

40_r


Photo

 

顔

石田治部出生地碑
Photo_2

 

 

愛民孤忠の政将石田三成の冤を惜みかたりあふて

 冶部どのも    今日

 瞑すらむ 蝉しぐ禮

  於石田徳明寺    吉川英治
4

 

西郷隆盛の七言絶句
2_r


Photo_4

※水藩の先哲とは水戸光圀

三成公顕彰歌
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石田会館内では、三成展が開かれています。
Photo_5


37_r

 

豊家第一の忠臣:三成着用の鎧か
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三成肖像画
Photo_6

京都大徳寺所蔵の石田三成頭蓋骨
Photo_7

関ヶ原の戦いで敗れた三成は、京都六条河原で打ち首となり、大徳寺に埋葬されました。
1907(明治40)年、大徳寺の墓地改装のために掘り起こされました。
推定される様相は、身長156cm、骨格は女性的で優男タイプ、反っ歯(出っ歯)であったようです。

 

京都大学で復元された石田三成像

目や口の辺りチョットマンガっぽい顔です。

Photo_8

こちらはキリット引き締まった顔です。

ポスター
 

三成が真田昌幸に送った書状

真田家とは親交があったようです。
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真田家と三成の縁
4_3

 

 

三成の佐和山城

秀吉が天下をとった1590年に佐和山19万石城主になりました。

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関ヶ原で敗れ、佐和山城に入った徳川方は、5奉行の一人であった三成の城だから相当豪華なものだろうと思っていましたが、まったく質素な造りで、金銀もほとんどありませんでした。関ヶ原の戦いにほとんど使いきっていたのだろうと想像されます。

三成が豊臣復権にかけて、全てを投げ出して戦った心意気が伝わってきます。



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2016.07.22 Friday 03:45 | comments(6) | - | 

石田三成物語1/6 生誕地

[ 滋賀 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

7月17日大河ドラマ「受難」の紀行の紹介場所は、妙慶寺(秋田県)で信繁の娘:お田の方ゆかりのお寺でした。

さすがにこのお寺えは、3人のライター誰も行ったことがないので紹介できません。
そこで、今回は、ストーリーの中で重要な役を務めている石田三成について紹介します。
三成役の山本耕史さんなかなかの好演で一度も笑顔を見せたことが無く、三成は頭が切れただけにこうだったんだろうと想像します。

 

石田三成は、1560(永禄3)年、長浜市石田町(坂田郡石田村)で石田正継の次男として 生まれた。 幼名は佐吉。父正継は浅井の家臣でした。

 

 

石田家屋敷跡(石田会館)

地図拡大をクリックしてください

三成屋敷跡
Photo

石田家は、この辺りの豪族で屋敷も石田会館〜産湯の井戸辺りの約1町4反(約東京ドームグラウンド部分と同じくらい 約14000屐砲阿蕕い△辰燭噺世錣譴討い泙后この地域の小字名は、三成の官命をとって「治部」と言って、俗称「ごいで」とも言われています。

小字名治部、通称は「ごいで」と呼ばれています。(石田会館内)

地名治部

 

屋敷の北側に、産湯の井戸が残っています。

交差点から北へ行き左に曲がるとあります。
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現在は、石田会館になっていますが、石田三成屋敷跡で、このあたりが屋敷の南にあたるようです。
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Photo




屋敷跡の一画に治部池があり、奥に治部清水が湧き出ています。(石田会館内)

Photo_2


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現在の石田町の中心の交差点は、石田家の屋敷の区画内で、その碑が建っています。
石田のバス停は、「出会いの広場」になっています。
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三成街燈
三成旗印とお茶を献じるところが描かれています。
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三成の旗印
「大一大万大吉」は、源平合戦の時代に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久が使ったものを、三成が気に入って旗印にしました。

これは、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という三成の考えを表しています。

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交差点は、石田家の屋敷内にあって、東に向かって行き、山を越えると三成が秀吉に会った観音寺があります。
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交差点から西を向いて行くと、この先には長浜城があります。
Photo_4


町の中には三成に関する史跡の案内板が建っていますので分かりやすいです。
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ここを左折すると駐車場があります。
歩いて史跡を廻るには、十分な距離です。

 
2016.07.21 Thursday 12:55 | comments(6) | - | 

石田三成と豊臣秀吉の出逢いの像〜三成生誕の地

[ 滋賀 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ

長浜駅を降りると、駅前に「石田三成と豊臣秀吉の出逢いの像」があります。
 

長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
三成公は、ここから5キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。
また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。(案内板より)



この「三献の茶」は、「武将感状記に載っている逸話です。
「武将感状記」は、熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳6年(1716年)に刊行された、戦国時代から徳川時代初期までの武人について著された行状記です。
ただし、この逸話が載っている史料が、江戸時代のものであること、三成の息子が記した寿聖院「霊牌日鑑」によると、「三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてである。」と記されていることから、創作であるとする説もあります。

この逸話の真偽のほどはわかりませんが、三成の機転と知恵を象徴する逸話は、他にもあります。

ある時、三成は、秀吉に伏見城の井戸の掘削を命じられました。しかし、城は丘陵地に建っているため、よほど深く掘らないと水は出てきません。
工事が一向に進まない状況を見た三成は、家臣に、貫差しにした銭を持って来させ、井戸に投げ込みました。そして、「井戸を見事に掘ったものに、この銭をあげよう。」と言います。
人夫たちは、先を争うようにして、井戸に入り、工事はすぐに終了したと。

「名将語録」によると、秀吉は、三成のことを「天下を狙えるほどの知恵者」と評価していたといいます。
(Wikipedia、日本の100人参照)

長浜駅から、湖国バスで約20分、石田で下車。

石田三成生誕の地・石田町を歩いてみました。

バスを降りたところで、「三献の茶」の三成さまを発見!





ここから南へ50mほど行くと、右手に石田三成出生地があります。



三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館には、三成の生涯を描いた絵巻パネルが展示されています。



「石田治部少輔出生地」と刻まれた石碑や三成の銅像、史料室もあります。









当時の三成の官位「治部少鋪」の名をとった治部池は、三成屋敷の堀の一部ではないかといわれています。







石田氏は、もともと当地に屋敷を構え、京極氏や浅井氏に仕えた土豪であったそうで、この周辺には、治部池をはじめ、的場、番場、御畑などの三成や、中世土豪に関連した小字名が残っています。

石田会館に向かう道を、左に曲がると、八幡神社があります。





石田神社とも呼ばれ、本殿の裏に石田三成一族と家臣の供養塔があります。


 
本殿








 
三成の辞世の歌


 
「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり」



 
「残紅葉 散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりとぞ」

墓石出土跡





昭和16年まで、石田家に関係があると思われる墓石(関ヶ原の後、この地の人が、徳川方の追及を逃れるために隠した)が埋められていたそうです。


 
この神社は、近隣の人々によって管理されているそうで、今でも三成がこの土地の人に愛されていることがうかがえます。

by shizuka



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2016.04.20 Wednesday 00:00 | comments(6) | - | 

三雲城〜滋賀県湖南市

[ 滋賀 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ


滋賀県湖南市に「三雲城址」があります。

長享2年(1488)、三雲典膳が、観音城主・六角高頼の命によって築いた城で、東西約300m、南北200mの広大な城域を有する山城でしたが、元亀元年(1570)織田軍の攻撃により落城しました。

猿飛佐助は、この三雲城主・三雲賢持の子、三雲佐助賢春であるという説があります。


猿飛佐助は、架空の人物であるという説と、実在したという説がありますが、小説家司馬遼太郎氏は、小説「風神の門」において、猿飛佐助は三雲城がふるさとであると実在説を支持しているそうです。


もしかして、佐助はここで剣術や忍者の修行をしながら成長したのでしょうか・・
そんな事を考えながら三雲城址を歩いてみました。


階段を上った先には「桝形虎口の穴太積み石垣」があります。


そして古井戸


土塁


三雲城址の案内図がありました。




案内に沿って、さらに階段を上ると・・・


主郭に到着


主郭からの展望。
近江富士の向こうに、比良山系が見えます。


主郭を下から見ると、石垣で支えられているのが見えます。




三雲典膳の子行定の代には、眼下に見える下甲賀・野洲郡・栗東郡を支配し、甲賀六家と称される有力国人に成長したそうです。
城もその時代に整備拡張されました。

行定⇒定持⇒賢持⇒佐助賢春という系図になっていますが、賢持は浅井氏との戦いで討ち死にしたため、賢持の弟・成持が家督を継いで三雲城主となりました。




主郭から、さらに南奥の郭に進み、そして来た道を戻りました。
途中、崩れた石垣が多く見られました。


また矢穴が残る石垣もありました。
矢穴とは、大きな石を分割する際、クサビを矢穴に差し、ハンマーで打ち割りする技法で、中世城郭の石垣によく見られます。





さらに北東尾根筋に進むと巨岩が見えてきました。


この岩には佐々木六角家の家紋が刻まれています。



そのすぐ後ろに、この山のシンボルと言うべき巨大な「八丈岩」があります。
この岩がいかに大きいか、写真では分からないでしょうが・・・

この矢印のブロックの大きさから、岩の大きさを想像して下さい。
一枚の写真では収まらないので、3回に分けて写して合成しています。


八丈岩の向こうには平野が広がり、伊吹山まで見渡せます。
当時は、ここが見張り台でした。


この八丈岩は、とても不安定な形で立っています。
・・・が、「落ちそうで絶対落ちない巨岩」という事で、今では合格祈願の場所となっています(笑)






DATA
所在地:滋賀県湖南市吉永251
標高:314m 
三雲城址入り口(一番上の写真)まで道が舗装されているので、車で行けます。
駐車スペースもあります。
トイレはありません。


         by  めりい 






 
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2016.04.04 Monday 00:00 | comments(8) | - | 
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