大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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能発祥の地・長昌寺(前橋)
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前橋市紅雲町の芳林山長昌寺



長昌寺は延徳元年(1489)に創建されました。
武蔵国(埼玉県)児玉郡骨波田村長泉寺の大洞禅師が開山で、厩橋城主の長野信濃守方業の開基とされています。

戦国期、上杉氏、北条氏、武田氏、北条氏らの攻防の中、厩橋城の支配者はめまぐるしく変遷。
天正9(1581)年には火災のため焼失し、城主の北条高広が現在地に再建。



天正10年(1582)、武田家滅亡に伴い、織田信長から派遣され新しい城主となった滝川一益は、近隣の土豪を召集して城中で能興行を催すとともに、長昌寺には町民を集め、能興行鑑賞の機会をもうけ、これが、上州における初めての能興行と伝えられています。



6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広の家臣らの間で流れるほどであったという。
本能寺の変の報に際し、沼須城主(北毛)の藤田信吉が反乱を起こし沼田城を攻めたが、城主・滝川益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)とともに駆けつけ鎮圧した(沼田城の戦い)。
旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こり18日に北信の森長可が海津城を捨て美濃へ去り、同様に南信濃の毛利長秀も伊奈を放棄し、甲斐の河尻秀隆は同18日に武田遺臣により殺害された。
6月16日、信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)、鉢形城主・北条氏邦(氏政の弟)、北条氏政、北条氏照、北条氏規ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた。
一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃ち、18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌19日の合戦では北条勢が勝利した。この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏み止まって討死し、上州衆では木部貞朝、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した(神流川の戦い)。
同夜、一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った。20日一益は人質であった北条高広の次男を返し、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという。一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。
(Wikipediaより)

長昌寺の本堂前には、本城氏一族の墓の三基の五輪塔があります。



本城氏は出羽・最上義光の家臣で、本城満茂の所領は4万5000石と最上家中における最高の禄高でした。
しかし元和8年(1622)家臣団の内紛から57万石を没収され、領主の義光のみかろうじて1万石を与えられて、近江国に改易に。

厩橋城主・酒井忠生は、本城満茂をはじめとする一族郎党を家臣として迎え、最上衆と呼びました。
長昌寺のある柿宮村(現・紅雲町)周辺が最上衆の居住区になっていたと見られ、本城氏の有力幹部たちは長昌寺を菩提寺としていました。厩橋藩でも高い地位を与えれた本城氏は、長昌寺の有力な檀家となります。

寛延元年(1748)、酒井氏が姫路に転封されると、最上衆も従ってすべて姫路に去ってしまいました。

文化8年(1811)藩主の参勤交代で江戸勤務中だった本城満主が、家臣を長昌寺に派遣して、祖先の墓を調べさせ、墓の荒廃を直し、絵図面をつくらせました。

五輪塔は、満茂の妻や次女、満茂の後の本条城主になるはずだった親茂の墓。
小塔は、満茂の子、満信の墓と考えられています。

また、長昌寺の墓地には、新島襄の愛弟子である堀貞一とその家族も眠っています。

(長昌寺HP参照)

by shizuka



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滝川一益と厩橋城(前橋城)
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前橋城は、群馬県の前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられました。

厩橋城は、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされると、織田方の滝川一益が城主となりました。



本能寺の変後の動き

滝川一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと伝わる(上毛古戦記)。
一方、一益は6月12日付けの書状で、信長の安否を聞いてきた小泉城(東毛)の富岡秀高(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」と書状を送っている。一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、北条高広などの主要な武将のみであったとも考えられる。また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた保科正俊、保科正直等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという。
(Wikipediaより)

現在、本丸跡地には、群馬県庁本庁舎、二の丸跡地には前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所、前橋公園となり、遺構として、土塁、車橋門跡などが残されています。











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前橋城跡の解説

前橋は古くは厩橋と称し、東山道の群馬の駅(うまや)が近く、それが地名の起こりであるという。厩橋城が築かれたのは、十五世紀のこと、初代城主は箕輪城主長野氏の一族前橋長野左衛門尉方業(法号固山宗賢)とされている。以後長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文二十一年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄三年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。
 このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の理由とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り返された。
 天正十年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の部将滝川一益が厩橋城に入り、関東管領を称した。しかし信長の急死によって、一益は本国に帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついには、天正十八年(1590)4月、小田原討伐軍の浅野長政に攻められて落城した。
 同8月に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城三万三千石に封した。親吉は慶長六年(1601)甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後九代の間、酒井氏の藩政が続いた。四代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。
 酒井氏治世時代の前橋城は城域十五万坪に及び、西に利根川の断崖を背とし、南東に延びる土塁と壕をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。慶安二年(1649)五代忠挙の時、城下町は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延二年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。代わって姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以降難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和四年(1767)川越に移城した。
 以後前橋城は廃され、領地は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。城主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の城主直候ならびに直克の決断により、文久三年(1863)12月、幕府から再築の許可を得、慶応三年(1867)帰城が実現した。
 この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかしわずか半年で大政奉還となった。廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、前橋の現在の繁栄をみている。碑文は、藩主松平直候ならびに直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。前橋城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当たる。
 碑の題額は、直克の長子松平直之氏、文は、修史局編修官のちの東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮であった。    群馬県


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前橋の清光寺
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前橋の清光寺は、楫取素彦寿子夫妻の発願により創設された本願寺説教所を発祥とするお寺です。





寿子は、吉田松陰の妹、文の姉に当たります。

寿子は、当時の群馬県が念仏不毛の地であることを憂い、この地に念仏の教えを広めようと、西本願寺の明如法主に請い、本願寺説教所として創設し教化活動を行いました。

その後、大正9年に正覺山清光寺という寺号になったそうです。



境内には、藤の花や



マツやイチョウの大木がありました。









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臨江閣(前橋)
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臨江閣は、迎賓館として楫取素彦の提言により地元の有志たちの協力、募金で建てられました。





近代和風の木造建築で本館、茶室は県指定重要文化財になっています。

本館は明治17(1884)年に迎賓館として建てられ、明治天皇の行幸の際に行在所として使われました。


明治43(1910)年に一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築の別館は、1階には西洋室1室、日本間8室、2階には舞台を備えた150畳もの広さの大広間があります。
詩人の萩原朔太郎の結婚式でも使われたそうです。



別館から入ります。

































明治天皇が使われた二階の部屋






二階からも見事な庭園が見渡せます。

楫取は、この臨江閣の近くの楽水園という屋敷を借り受け、寿や美和と暮らしていました。

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前橋東照宮(2)
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前橋東照宮の境内にある厩橋護国神社


明治11年(1877)11月24日の創建で、西南の役以来大東亜戦争に至るまでの
前橋市出身の英霊2346柱を奉祀しています。



拓魂碑


厩橋招魂祠記碑


明治10年(1877)の西南戦争で亡くなった人々を弔うため、明治12年(1879)に建立されました。
当時群馬県令であった楫取素彦が、碑の文章を撰しました。

傷痍之碑


我等は過ぐる大戦 事変に際し 戦場において傷痍を受け 或は疾病にかかるなど身をもって現実に戦争の悲惨さを体験しその後苦難の生涯を続けてきた 更に不幸にして戦没した戦友も多く 我等はその霊に対して心kら哀悼の意を表するとともに再び戦禍の起こらないことをこいねがい ひたすら世界恒久の平和を祈念するものである

慰霊碑


東照宮の境内から見た前橋公園


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前橋東照宮(1)
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前橋東照宮は、徳川家康を祭神として祀る前橋の東照宮で、寛永元年(1624)、当時の松平藩主が越前勝山(福井県)で創建されました。





江戸時代中期、前橋城へ入城しましたが、利根川の大洪水の被害を受け、川越に居住します。その時に造営したものが、松平家の前橋帰城に伴い、明治4年(1871)現在地に移築されました。



開運・厄除、安産祈願、車清祓い、学業成就などのご利益で知られています。





はらい川


罪穢れを移した紙の人形・車形を流し、罪穢れを洗い流して厄払いを祈願します。

営築稲荷神社




文久3年(1863年)、前橋城再築にあたり工事の安全を祈願するため松平家11代藩主・松平直克が勧請した神社。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、主な御神徳は商売繁盛、工事安全となっており信仰を集めています。


 
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前橋城跡
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前橋城は、群馬県の前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられました。

明治9年(1876)熊谷県から群馬県になった時、県庁は高崎に置かれましたが、旧高崎城に、陸軍省の兵営があり、手狭になったため、楫取素彦は、県庁を前橋に移しました。

本丸跡地には、群馬県庁本庁舎、二の丸跡地には前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所、前橋公園となり、遺構として、土塁、車橋門跡などが残されています。













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前橋城跡の解説

前橋は古くは厩橋と称し、東山道の群馬の駅(うまや)が近く、それが地名の起こりであるという。厩橋城が築かれたのは、十五世紀のこと、初代城主は箕輪城主長野氏の一族前橋長野左衛門尉方業(法号固山宗賢)とされている。以後長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文二十一年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄三年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。
 このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の理由とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り返された。
 天正十年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の部将滝川一益が厩橋城に入り、関東管領を称した。しかし信長の急死によって、一益は本国に帰り、城は北条氏の手中に帰した。ついには、天正十八年(1590)4月、小田原討伐軍の浅野長政に攻められて落城した。
 同8月に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城三万三千石に封した。親吉は慶長六年(1601)甲府に移り、代わって川越から酒井重忠が入封、以後九代の間、酒井氏の藩政が続いた。四代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。
 酒井氏治世時代の前橋城は城域十五万坪に及び、西に利根川の断崖を背とし、南東に延びる土塁と壕をめぐらしていた。本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。慶安二年(1649)五代忠挙の時、城下町は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延二年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。代わって姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以降難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和四年(1767)川越に移城した。
 以後前橋城は廃され、領地は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。城主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の城主直候ならびに直克の決断により、文久三年(1863)12月、幕府から再築の許可を得、慶応三年(1867)帰城が実現した。
 この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。しかしわずか半年で大政奉還となった。廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、前橋の現在の繁栄をみている。碑文は、藩主松平直候ならびに直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。前橋城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当たる。
 碑の題額は、直克の長子松平直之氏、文は、修史局編修官のちの東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮であった。    群馬県


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前橋二十五人衆
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前橋二十五人衆は、明治時代初期、群馬県令楫取素彦と協力して前橋市に県庁を誘致、師範学校の建設、衛生局の設立などに私財を投じるなど県政に尽力した下記の「前橋の有力者25名を指します。

下村善太郎(生糸商・初代前橋市長)・勝山源三郎・勝山宗三郎(質商・唐物商)・須田傳吉(紙・油・ろうそく商)・大島喜六(魚問屋)・市村良平(生糸業)・江原芳平(生糸業)・竹内勝蔵(生糸業・第8代前橋市長)・横川重七(河内屋呉服太物商)・松井林吉(糸繭商)・鈴木久太郎(荒物雑貨商)・荒井友七(金物商小松屋本店)・荒井久七(小松屋陶器店)・深町代五郎(味噌醤油醸造業)・八木原三代吉(大地主)・筒井勝次郎(油商)・中島政五郎(肥料商・糸繭商)・田部井惣助(生糸商)・武田友七郎(繭糸商)・横川吉次郎(呉服商・生糸商)・生方八郎・桑原壽平(薬種商)・太田利喜蔵(酒造業・生糸業)・久野幸人・串田宗三郎

熊谷県は、養蚕・製糸業が盛んで、狭山茶の産地でもありました。その熊谷県が、1876年(明治9年)に群馬県と埼玉県に分割され、楫取素彦は第2次群馬県の初代県令となりました。当初県庁は高崎に置かれることになったため、楫取は高崎町民に協力を得られませんでした。
そこで、下村善太郎を中心とした前橋の有力者25名は、師範学校の建設や衛生局の設立などに私財を投じ、楫取の県政を支える決意を示したため、楫取はその熱意に感動し、県庁を前橋に移す決心を固め、1881年(明治14年)に県庁が前橋に置かれることになりました。

中心人物の下村善太郎は、後に初代前橋市長となり、現在、前橋市役所前に、初代前橋市長の下村善太郎の銅像があります。

下村善太郎の銅像




初代前橋市長 下村善太郎翁

下村善太郎翁は、文政10年(1827)に、前橋本町の商家に生れました。
刻苦の末に生糸貿易で成功し、その余力を郷土前橋のために傾注、多大な貢献をされ、後に前橋市名誉市民に列せられています。
明治9年、下村翁は群馬県庁が高崎に置かれた時、同士と図り率先巨費を拠出され、前橋への県庁誘致を実現しました。
それは私たちのまち前橋の大きな礎でした。

下村翁の偉業はそれにとどまらず、前橋の度重なる天災、大火などの被災者の救援をはじめ、教育・産業・交通・防災・その他あらゆる都市基盤づくりに奔走、私財を投げ出し、よく公益に尽くされました。
それら郷土愛の発露のすべてが有形無形の遺産となって、現在に引き継がれています。

明治25年の市制施行に際して、前橋市民は初代市長の栄誉を下村翁に贈りましたが、市長在任1年余りで惜しくも翌26年(1893)66歳の生涯を閉じられました。

その後、市の発展に伴い、市民の下村翁への追慕はますます厚く、市史に一大転機をもたらした一府十四県連合共進会開催された明治43年、前橋公園の一角に立派な銅像が建立されました。
しかし、戦争が激化した昭和18年、資源供給のため供出しなければなりませんでした。

下村翁の偉大な精神と業績をたたえる市民の心を永く後世に伝え継ぐことは、今このまちに住み、さらに心豊かな明日を目指す私たちの大事な使命と考えます。
今年、下村翁没後90年。
そして、本市を主会場に「あかぎ国体」が開催される意義深い年にあたり、市民こぞってこの銅像を再建いたしました。
(碑文より)



(臨江閣に展示されているパネル)

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| 群馬 | 07:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
前群馬県令楫取君功徳碑
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県庁北側の前橋公園芝生広場に、第二次初代群馬県令を務めた楫取素彦の功績を讃えて建てられた
前群馬県令楫取君功徳碑があります。

前橋公園








初代前橋市長・下村善太郎他市内の有力者が発起人となり、前橋公園内に明治25年3月に完成し、同年4月に楫取を招き建碑式が行われました。




楫取が退任し、前橋を去る時、数千人の県民が沿道に足を運び、別れを惜しんだといいます。



碑の傍らに、楫取素彦ゆかりの防府天満宮から譲り受けた梅の木「至誠の梅」が植えられています。

楫取素彦撰文による初代群馬議会長・宮崎有敬の宮崎有敬翁紀功碑




 
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群馬県庁昭和庁舎 ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館
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「花燃ゆ」後半の舞台は、群馬へと移りました。

楫取素彦は、維新後もその能力を買われ、足柄県参事、熊谷県権令、熊谷県県令を経て、「難治の県」といわれた群馬県の初代県令となり、群馬の教育・産業の振興に尽力しました。



群馬県庁舎は前橋城の跡地にあり、県庁舎、昭和庁舎(旧本庁舎)、警察本部、県議会、群馬会館(旧公会堂)からなっています。
2016年1月31日までの期間、群馬県庁昭和庁舎の2階が「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」として公開されています。

昭和庁舎は1928年(昭和3年)に建設され、1999年(平成11年)まで県庁本庁舎として利用されてきました。
近代建築としての価値も高く、登録有形文化財として指定されています。

昭和庁舎(手前の建物)








館内には、出演者紹介、番組情報、シアター展示、衣装展示、松下村塾の再現ドラマセット、群馬県域の楫取素彦の功績紹介、富岡製糸場チャリティコーナーなどがあります。

そして、ここにも萩のドラマ館にあったような「志士との相性診断」コーナーがありました。

富岡製糸場のチャリティーコーナーでは、300円で「まゆ玉の絵付け」の体験ができます。その作品の写真が、寄付者のシールとして、パネルに貼られて、2016年以降に富岡製糸場に掲示されることで、富岡製糸場の保存と活用のために使われるという仕組みになっているとのことです。

明治5年に官営工場として設立された富岡製糸場は、しばらくすると、経営不振から操業停止の危機を迎えます。政府は、民間への払い下げを発表しますが、民間からの応募は無く、やむを得ず閉場する方針を打ち出しました。このことを聞いた楫取は、廃止に反対する意見書を政府に提出し、明治15年(1882年)楫取の意見は聞き入れられ、当分の間国営のままの存続が決まり、明治26年(1893年)に三井に払い下げら、稼働を続けます。今や世界遺産となった富岡製糸場の最初の危機は、楫取によって救われたといえるでしょう。

館内は基本的に撮影禁止となっていますが、当時の執務室を再現した部屋は撮影が許可されています。









執務室には衣裳の展示もされていて、実際に衣裳を着てみることもできますよ。

県庁の32階展望台は、無料で土日祝も解放されて、前橋の街が一望できます。

展望ホールからの眺め


明治時代の群馬県庁舎

(画像:Wikipediaより)

前橋城の本丸御殿を再利用したもので、昭和初期に老朽化で撤去されるまで使用されました。

現在の県庁舎は1999年6月に竣工した超高層ビルで、33階建てで高さは153メートル。都道府県庁舎としては東京都庁舎に次ぐ高さで、県庁舎に限れば日本一なのだそうです。

新県庁舎


群馬県警察本部


群馬県議会(左側の丸い建物)




群馬会館(旧公会堂)


県庁の道路を挟んで東側にある群馬会館は、昭和5年11月に昭和天皇即位の大典を記念し、建設された県内最初の公会堂です。昭和初期の洋風建造物として共に国の登録有形文化財に指定されています。

この場所には、楫取県令時代、群馬県衛生局・医学校がありました。

当時の建物は、群馬県女学校として使用された後、昭和3年9月山田郡相生村役場としていて移築され、現在は桐生明治館として公開されています。



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