大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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吉弘統幸公の菩提寺「宝泉寺」



吉弘神社より歩いて10分の所に吉弘公の菩提寺「宝泉寺」があります。


宝泉寺








如水から吉弘公の埋葬と追善供養を申し受けた東嶽和尚は、村人たちと丁重に葬り、その位牌を祀りました。

そして今も受け継がれ、供養が続けられているそうです。





本堂






吉弘公は「大友能直」「大友宗麟」と並んで「豊州三偉人」と称されているそうです。

「大友能直」とは大友氏初代当主の事。

「吉弘統幸」は、大友家の家臣でありながらも、大友家当主たちと並んで讃えられているのです。

さぞかし豪傑で、その死を惜しまれたのでしょうね。








 

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| 大分 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
吉弘統幸公を祭る吉弘神社



実相寺山の麓には、石垣原で勇猛果敢に戦いそして戦死した大友方の家臣「吉弘統幸」を祭る神社があります。




吉弘神社のHPによると、石垣原の戦いの後、住民たちは、吉弘公を称え偲び、寛永9年〜10年頃、石祠を建てたそうです。

その祠に詣でると、猛将の威力で難病も平癒すると、参拝者が絶えなかったと言われています。

そして大正の時代、吉弘公の後裔や住民有志により本殿・拝殿が造営されました。

現在の拝殿は平成13年に造営されたものです。


拝殿




本殿の後ろに吉弘公のお墓があります。






境内にある「御石神」。触るとご利益があるそうです。









 

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激戦地七ツ石〜石垣原の戦い(2)


「石垣原の戦い」は、「西の関ヶ原」または「九州の関ヶ原」と言われ、関ヶ原の戦いに連動して九州の地で東西に別れて戦った合戦です。

西軍の支援を受けて挙兵した大友義統に、家臣であった吉弘統幸は西軍につくことの不利を説き、家康の東軍につくように進言しました。
しかし聞き入れられず、やむなく主君に従って旧領奪還を期して戦うことになります。


激戦地「七ツ石」(別府市荘園町)





吉弘統幸は、主君が朝鮮出兵で改易となった後、如水の招きで黒田家の食客となっていた時期がありました。

その旧知の間柄である井上九郎右衛門と死闘の戦いを展開したのが、この七ツ石であったと言われています。




吉弘統幸がこの大石の上に立ち、最後の力を振り絞って槍をふるったという伝説が残っています。




辞世の句
明日は誰が草むす屍や照らすらん
          石垣原の今日の月影




自分の信念を曲げた戦いで、しかも不利と分かっていても、吉弘統幸は最後まで勇猛果敢に戦いました。

その戦いぶりは、敵の黒田方からも賞賛されたといいます。








 
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実相寺山〜石垣原の戦い(1)


慶長5年(1600)9月10日、西軍・大友軍は、東軍・細川忠興の家臣・松井康之が守る杵築城を攻撃しましたが、黒田軍が細川家の援軍として杵築城に迫ってきたことを知ると、大友軍は立石の陣へ撤退しました。

そして9月13日、両軍は石垣原で激突しました。



黒田軍と細川軍が本陣を置いた「実相寺山」(標高169m)  



  車で頂上まで登れます。


黒田・細川連合軍は、わずか3kmの距離で大友義統軍と対峙しました。

この眼下に広がる扇状地が石垣原です。


晴れた日なら、大友義統が陣を置いた立石あたりが見えるはずなのですが、あいにくこの日は曇り。




戦いは、黒田軍の先鋒と松井勢が実相寺山周辺に布陣した9月13日昼ごろから始まりました。

黒田軍は大友軍の立石近くまで攻めこみますが、大友軍に反撃され、久野次左衛門など黒田軍の有力武将が討死しました。

久野次左衛門は19歳であったと言われています。

逃げる黒田軍を追いかけて、大友軍の大将・吉弘統幸が実相寺山の麓まで迫りました。



この戦況を見ていたのが、加来殿山に陣を置いた黒田二十四騎衆のひとり「井上九郎右衛門之房」でした。





井上九郎右衛門は、大友軍が緒戦からの戦闘で疲れている見てとると、大友軍に攻めかかりました。

この攻撃により形勢は逆転し、吉弘統幸ら大友軍の有力武将は討死して、戦いの勝敗は決しました。




加来殿山の南麓にある児童公園に「黒田如水本陣跡」の碑があります。






周囲は住宅地です。









如水は、杵築城と石垣原の中間に位置する「日出」にいて、戦いの報告を受けていましたが、その日の夕方には実相寺山に到着し、本陣を構えました。


そして9月15日、大友義統は降伏。

この日は、関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利した日でもありました。





 
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杵築(木付)城の攻防


木付城は、「九州の関ヶ原」といわれる「石垣原の戦い」の発端の地です。


大友吉統(義統)が旧領奪還を目指して、わずか9百の兵で豊後浜脇浦に上陸したところ、お家再興を願う大友家の旧臣たちが続々と結集し、その数は3千から4千にふくれ上がったといいます。

慶長5年9月10日、大友家の旧臣・吉弘統幸を大将に大友軍は木付城を包囲し、攻撃をかけてきました。



現在の杵築(木付)城は、昭和45年本丸の天守台跡に建てられた3層の模擬天守です。




木付城址の碑







碑には「木付城」と書かれていますが、現在は「杵築城」と書きます。

これには面白いエピソードがあります。

正徳2年(1712)松平藩主三代目の時、徳川幕府から届いた朱印文に「木付」の文字が間違って「杵築」と書かれていたため、それ以降「杵築」と書くようになったとか・・(笑)

城内には、その朱印文も展示されていたのですが・・・写真を撮り忘れました^^;



松平氏関連の展示品







淀殿の弟と伝わる「万菊丸」着用の具足






石田正澄(石田三成の兄)着用の兜



関ヶ原の合戦の後、石田三成の居城を攻めて三成の兄・正澄を討ち取ったのが宮部豊景という人だったそうです。

宮部家では、祖先伝来のものとして長く受け継がれていたのですが、子孫が杵築城主・松平家に仕えていた縁でここで展示されいます。




展望台からの眺め




当時この木付城は丹後宮津城主・細川忠興の飛び地で、家臣の松井康之・有吉立行が守っていました。

松井康之らは大友軍を迎え撃ち、果敢に戦いました。



しかし、黒田軍が細川家の援軍として杵築城に迫ってきたことを知ると、大友軍は立石の陣へ撤退しました。

そして両軍は、石垣原で激突することになります。





 
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富来城跡


慶長5年9月9日、関ヶ原合戦の不穏な情勢に乗じて、大友吉統(義統)が西軍の支援を受け、旧領奪還を目指して9百の兵と共に豊後に上陸しました。

大友吉統(義統)は、400年もの間、豊後を支配していた名門大友家の第22代当主。父は大友宗麟です。

秀吉の朝鮮出兵に参加した時、平壌の戦いで小西行長を支援することなく撤退したため改易となり、毛利輝元などに預けられていました。



同日、如水は私財を投じて集めた9千の兵を率いて中津を出発し、九州制覇に乗り出しました。

手始めに豊後・高田城を調略し、戦わずして味方を増やすと、次は富来城へ向けて進軍しました。

 

富来城跡






しかし、富来城へと進軍していた9月10日、大友軍が木付城の攻撃を始めたとの知らせが入りました。

如水は井上九郎右衛門らに3千の兵を授けて木付城に向かわせると、富来城には押さえの兵を残し、自らは南へと進軍して安岐城を討ち破りながら、木付城に向かって行軍を進めました。



富来城跡は城山子供公園になっています。












案内板によると、如水は石垣原の戦いで大友氏を破ったあと、その勢いで再び富来城へ攻め込んで来たそうです。

しかし城主・垣見家純が西軍・石田三成に与して美濃大垣にいたため、城代である垣見理右衛門がわずか五百の兵で10日にわたって激闘を繰り広げました。

垣見理右衛門が必死で城を死守していたにもかかわらず、城主・垣見家純が大垣城で討死したという知らせが届いたため、城は開城されました。



この時、18歳の宮本武蔵も黒田軍に参戦していたそうです。

しかも、堀を乗り越える時に足を竹槍で突かれ負傷したという逸話が残っているそうです。

意外な人物がここにいたのですね(笑)










 
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城井神社と扇城神社〜中津市(4)


中津城の城内には、立派な「奥平神社」や「中津大神宮」などが立ち並んでいますが、そこから奥に進むと、木々に囲まれた小さな神社が見えてきます。

それが「城井神社」と「扇城神社」です。







黒田長政は、宇都宮鎮房を中津城を守護する大明神としてここに祀りました。







この案内板では「長政と鎮房の息女鶴姫との婚を約し和睦した」と書かれています。

大河ドラマのストーリーとは違っていますが、このような伝承もあるようです。








城井神社の横には、宇都宮鎮房の家臣45柱を祀る「扇城神社」もあります。





案内板には、その時の従臣たちの哀れな最期が書き綴られています。







また伝承では、長政の室となって中津城にいた鶴姫も捕えられ、お付の女房たち13人とともに磔にされたといいます。

山国川の対岸にある宇賀神社にその石祠が祀られているそうですが、残念ながらどしゃ降りの雨のため断念しました。

史実はどうなのかは分かりませんが、ちょっと興味ある話です。








 
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赤壁の合元寺〜中津市(3)
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」


中津市の寺町に、ひときわ目を引くお寺があります。





赤い壁に囲まれた「合元寺」です。





案内板によると・・・

黒田氏の入国に反対した宇都宮鎮房が中津城内に誘殺された時、鎮房の従臣たちが待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が押しかけてきました。

鎮房の従臣は奮戦しましたが、ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうです。

その後、壁は何度白く塗っても血が染み出してくるので、ついに赤く塗ったといいます。

今は赤壁寺とも呼ばれています。






本堂





庫裏には、その時の刀傷が残る柱が保存されているそうです。





中に入ってすぐに分かりました。これです⇓





惨劇の跡が生々しく残っています。




この事件は秀吉の指示によるものとされていますが、宇都宮氏にとっても、黒田氏にとっても悲劇でした。



黒田長政も心が痛んだのでしょうね。

その後、中津城に宇都宮鎮房を祀る「城井神社」を創建しました。



それについては、次回の記事で。





 

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官兵衛ゆかりの中津城下〜中津市(2)



官兵衛が中津城を居城としたのはわずか2〜3年の間でしたが、中津城下を歩いていると、官兵衛ゆかりの地をいくつか見ることができます。



姫路町






姫路町辺りの町並み






京町




京町は、京からの移住者が住んだ町と考えられていますが、中津城築城の時に、京町に本陣をおいたという説があり、官兵衛が入府する以前からあったとも考えられるそうです。

京町辺りの町並み



他にも、博多商人が商いをした「博多町」もあるそうです。





また寺町にも、官兵衛の足跡を見ることができます。









円応寺






黒田24騎のひとり・野村太郎兵衛祐勝(すけかつ)の墓とされる「河童の墓」








そして官兵衛の弟が開基した西蓮寺。




西蓮寺を開基した「光心師」は俗名を「黒田市右衛門」といい、官兵衛の末の弟です。

父・黒田職隆の逝去に伴い、出家したと伝わります。

官兵衛を慕って中津に移り、天正16年(1588)西蓮寺を開山しました。








寺町といえば見過ごせないのが「合元寺」です。

中津城で宇都宮鎮房が謀殺された時に、従臣たちが合元寺に控えていました。


その記事は次回に。








 
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官兵衛ゆかりの中津城と石垣〜中津市(1)
 


天正15年(1587)、官兵衛は九州平定の恩賞として秀吉より豊前6郡(京都(みやこ)・築城・中津・上毛・下毛・宇佐)を拝領しました。
 

その石高は12万石といわれ、それまでの倍以上の領地を得て有力大名の仲間入りを果たしました。

官兵衛42歳の時でした。



中津城



 

当初は豊前の北西部に位置する馬ヶ岳城を居城としましたが、翌年の正月には中津城の築城が開始され、官兵衛と長政親子は馬ヶ岳城から中津へと移りました。

当時の中津城の縄張りによると、築城の名手と呼ばれた官兵衛だけあって、川を天然の要害とし、周防灘より引き込んだ水路を堀として城下を取り込んでいます。

 

 

天守から見る周防灘






現在の中津城天守閣は、奥平家歴史資料館として昭和39年に建設されたもので、お城の中には、奥平氏関連の資料が展示されています。






官兵衛時代の城は残っていませんが、石垣だけは残っています。






お城の北側には、y字型の目地がくっきりと通っている石垣がありました。
 
 左は後から積まれた細川氏時代の石垣。右が黒田氏時代の石垣です。 






石垣の前には官兵衛様の像





川沿い(西側)の石垣も黒田氏時代のものです。
 
黒田氏の石垣は、意外にも四角に加工された石が使われています。
 
これは、川上にあった古代山城から四角に加工された神籠石(こうごいし)を持ち出し、石垣に使ったからです。
 
 形が綺麗に揃っているので、新しい時代のように思ったのですが、官兵衛の時代のものでした。






そして南側の石垣。これこそ黒田氏時代の典型的な「穴太積み(あのうづみ)の石垣」です。
 
 未加工の自然石を組み合わせた、崩れにくい石垣です。

角の石は長辺を右・左と交互に流す「算木積み」。反りはありません。







官兵衛の時代は、もう少し低い石垣であったそうですが、時代とともに増築されています。





中津城は、安土桃山時代の技法で積まれた石垣が良好に残る九州唯一の城です。










 


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