天正15年(1587)、官兵衛は九州平定の恩賞として秀吉より豊前6郡(京都(みやこ)・築城・中津・上毛・下毛・宇佐)を拝領しました。
その石高は12万石といわれ、それまでの倍以上の領地を得て有力大名の仲間入りを果たしました。
官兵衛42歳の時でした。
中津城
当初は豊前の北西部に位置する馬ヶ岳城を居城としましたが、翌年の正月には中津城の築城が開始され、官兵衛と長政親子は馬ヶ岳城から中津へと移りました。
当時の中津城の縄張りによると、築城の名手と呼ばれた官兵衛だけあって、川を天然の要害とし、周防灘より引き込んだ水路を堀として城下を取り込んでいます。
天守から見る周防灘
現在の中津城天守閣は、奥平家歴史資料館として昭和39年に建設されたもので、お城の中には、奥平氏関連の資料が展示されています。
官兵衛時代の城は残っていませんが、石垣だけは残っています。
お城の北側には、y字型の目地がくっきりと通っている石垣がありました。
左は後から積まれた細川氏時代の石垣。右が黒田氏時代の石垣です。
石垣の前には官兵衛様の像
川沿い(西側)の石垣も黒田氏時代のものです。
黒田氏の石垣は、意外にも四角に加工された石が使われています。
これは、川上にあった古代山城から四角に加工された神籠石(こうごいし)を持ち出し、石垣に使ったからです。
形が綺麗に揃っているので、新しい時代のように思ったのですが、官兵衛の時代のものでした。
そして南側の石垣。これこそ黒田氏時代の典型的な「穴太積み(あのうづみ)の石垣」です。
未加工の自然石を組み合わせた、崩れにくい石垣です。
角の石は長辺を右・左と交互に流す「算木積み」。反りはありません。
官兵衛の時代は、もう少し低い石垣であったそうですが、時代とともに増築されています。
中津城は、安土桃山時代の技法で積まれた石垣が良好に残る九州唯一の城です。
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