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鳥取城址

[ 鳥取 ]



天正9年(1581)6月、羽柴秀吉は2万の軍勢で因幡国鳥取城を攻めました。

この時、因幡国を支配していた山名豊国が秀吉に投降していたにもかかわらず、その家臣たちが城の明け渡しを拒否し、毛利家の一族である吉川経家を大将に迎えて籠城していました。

吉川経家の像



当時の城は久松山(きゅうしょうざん)に築かれた山城で、たいへん堅固な備えとなっていたため、秀吉はここでも兵糧攻めをしました。
それも長期化した三木城攻めの反省を踏まえ、3つの手を打ったといいます。
●因幡の米を高値で買い占める
●河川や海からの兵糧の搬入を完全に阻止する。
●領民に乱暴狼藉を加えて城に逃げ込ませ、城内の兵糧米を早く消費させる。
これは一説に官兵衛の案であったと言われています。




これにより「鳥取城の渇殺し」と呼ばれる非情の籠城戦が始まり、城内では人馬にも手をつけるというまさに地獄絵図のような有り様が展開されました。

同年10月、吉川経家らの命と引き換えに鳥取城は開城しました。
ただし、官兵衛は開城の前に淡路に進軍したため、この惨劇は見てなかったようです。


当時の鳥取城は、久松山の山頂に城郭が築かれていた山城だったのですが、江戸時代になると鳥取藩主・池田氏によって山麓に近世城郭が整備されました。
現在の鳥取城址は、その池田氏時代のものです。

復元された「中仕切門」。


石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で多くが崩れたそうですが、今は見事に整備されています。


二の丸跡
江戸時代の前期には池田氏の御殿がありました。



二の丸南西隅にある「三階櫓跡」



二の丸南東隅にある「菱櫓」



ここを上がると山の上丸があるそうですが・・



やめておきます(-_-;)



珍しい円球型の石垣



そして堀



堀の近くに「鳥取城址附太閤ケ平」と書いた石標がありました。



この時は意味が分からなくて、取りあえず写真には撮ったのですが、後で調べてみたら・・

「太閤ケ平(たいこうがなる)」とは、鳥取攻めで秀吉が鳥取城の東方ににある帝釈山(
標高251m)に置いた本陣跡だそうです。

ということは、ここからその山が見えていたのでしょうね。

そんな事とはつゆ知らず、この石標だけを写真に撮って帰った「めりい」でした(^_^;)






 
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2014.06.27 Friday 00:00 | comments(10) | - | 
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