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龍飛崎の吉田松陰碑〜青森県

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嘉永4年(1851)12月14日、吉田松陰は北辺の守りをこの目で実地踏査したいという思いから、熊本藩士の宮部鼎蔵とともに東北地方へ向かいました。
当時の津軽海峡では、外国船が我が物顔で往来していたといい、松陰はそれを危惧していました。


水戸・会津・越後・大館を経て青森県の弘前城下に入った3月1日、二人は伊藤広之進を訪ねました。

伊藤広之進は弘前藩の儒学者であり、また兵学にも秀でた人で、松陰は津軽半島の海防について詳しく尋ねたといいます。


弘前城






そして3月3日に五所川原、4日には十三湖を見ながら北上し、小泊の港で津軽海峡を望みました。


松陰は龍飛崎までは行ってませんが、津軽海峡を望む龍飛崎展望台には「吉田松陰碑」があります。




松陰ファンの政治家が書いたという詩碑です。




「去年の今日巴城を発す」と書かれています。

松陰を讃えた詩なのでしょうね。






龍飛崎から帰り道、車の窓から「みちのく松陰道」の案内板を見かけました。

松陰が、3尺余りも積もる雪をかき分け、小泊から峠を越えて三厩まで歩いたという道です。


日本の海防を案じて、厳寒の津軽半島を一歩一歩雪を踏みしめながら歩いていたかと思うと、その熱意に心打たれます。








 
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2015.01.12 Monday 00:00 | comments(8) | - | 

斗南藩記念観光村〜斗南藩

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青森県三沢市に「斗南藩記念観光村」(道の駅みさわ)があります。

 

明治4年(1871)、新政府によって廃藩置県が行われ、斗南藩は斗南県となり、やがて青森県に合併しました。

翌年の明治5年(1872)、旧斗南藩士・廣澤安任(ひろさわやすとう)と旧八戸藩士・太田広城(おおたひろき)は、イギリス人のルセ−とマキノンを招いて開牧社という会社を作り、牧場を開きました。

これが日本初の近代洋式牧場の始まりで、我が国の畜産業界に大きく貢献しました。

「斗南藩記念観光村」のオープンフィールドには、当時の牧場の様子を再現した馬と人間の像があります。









また、近代洋式牧場を開設した廣澤安任(ひろさわやすとう)と、それを支えた斗南藩士らの偉業をたたえた「先人記念館」があります。










先人記念館の前には「開祖堂」もあります。






「斗南藩記念観光村」には「道の駅みさわ」が併設されていて、広い駐車場と休憩所、トイレなどがあります。

またパターゴルフ場、ちびっこ動物ランド、わんぱく広場など遊戯施設も多くあり、あまりに広すぎたため、目的の「開墾村」が何処なのかが分からず、結局タイムアウトとなってしましました(T_T)

開墾村の外側の写真だけ撮りました。



開墾村は、移住当時の旧藩士の暮らしぶりや当時の開墾の様子をリアルな人形で再現した施設です。



建物の中に入って説明を聞くことも出来たのに・・残念でした(T_T)






同じ斗南藩でも、このように成功した例もあったのですね。





        

                by merry




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2013.08.09 Friday 00:00 | comments(8) | - | 

旧斗南藩士の墓〜斗南藩

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斗南ヶ丘のすぐ近くの小高い丘に、旧斗南藩士のお墓があります。

 

明治元年9月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、太政官より家名再興の沙汰をいただき、同年11月、松平容大公(数え年2歳)をもって陸奥国禄高3万石の立藩が許されました。



しかし豊かな会津盆地で生まれ育った人々には、斗南の地はあまりに過酷で

みちのくの斗南のいかにと人問はば 神代のままの国と答えよ   斗南藩権大参事 山川浩

と言わしめたほどでした。




開拓に夢を託した藩士達もその過酷さに耐え切れず、志半ばにして命を失う人が続出したといいます。

斗南藩追悼之碑


今ではわずかに残っている「旧会津藩士」の墓碑を、斗南ヶ丘・唯一の生き残りの島影家や会津ゆかりの人々が、あたたかく見守っています。



結局、斗南藩によって建設された市街地「斗南ヶ丘」に住んで、生き残ったのは一軒だけだったのですね。
そのことが、斗南で生きることの過酷さを物語っています。



           by merry




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2013.08.07 Wednesday 00:00 | comments(8) | - | 

斗南藩史跡地〜斗南藩

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斗南藩が、領内開拓の拠点となることを夢見て市街地を建設し、「斗南ヶ丘」と名付けた場所があります。
いかし夢ははかなく消えて今はその姿を留めていませんが、その跡地が「斗南藩史跡地」として残っています。

同じ場所に「秩父宮両殿下御成記念碑」があるので、この地図には「秩父宮両殿下御成記念碑」と書かれています。




明治3年、斗南藩はこの地に斗南ヶ丘と名付けた市街地を計画し、一戸建て約30棟と二戸建約80棟を建てました。
東西には大門があり、18ヶ所の井戸も掘られました。



市街地は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割され、一屋敷を100坪単位として土塀をめぐらせて区画したといいます。


旧斗南藩屋敷土塀跡


そして粟・稗・蕎麦・馬鈴薯などを植え、養蚕なども試みて農業授産を軌道にのせようとしたのですが、しかしその生産量はごくわずか。
布団もなく、炉もなく暖をとる手段もない家庭もあったといい、病死者が続出しました。



食糧難に加えて、過酷な風雪により屋敷が倒壊したり野火に遭うなどの災害もあり、しだいに藩士たちの夢も破れ、この地を去っていきました。




斗南藩史跡地の奥には「秩父宮両殿下御成記念碑」があります。



秩父宮殿下の妃・勢津子様は、斗南藩主・松平容大の姪にあたります。
 

この碑は、昭和11年に秩父宮殿下とその妃・勢津子様が下北郡下を巡遊され、斗南ヶ丘に立ち寄られたこと記念して建てられたものです。
昭和3年に秩父宮殿下と、松平節子様(のち勢津子と改名)の御婚礼は、戊辰戦争以降、朝敵という汚名に押しつぶされながら生き続けてきた会津人にとって、再び天皇家と強い絆を結ぶことができるようになった大きな出来事でした。
やはり会津は逆賊ではなかったということが天下万民に知らしめられ、さらに最果てのこの地まで両殿下に足を運んでいただいたという感激が、斗南藩が農業授産を夢見て建設した斗南の地に立つこの碑に込められています。


明治・大正を経て昭和の時代になっても、まだ会津の人は「朝敵」という汚名に苦しんでいたのですね。
それだけにこの御成婚が大変な喜びであったというのがよく分かります。



                by merry




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2013.08.05 Monday 00:00 | comments(8) | - | 

徳玄寺〜斗南藩

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斗南藩の藩庁が置かれた「円通寺」のすぐ近くに、藩主・松平容大公の食事や遊びの場となったという「徳玄寺」があります。



徳玄寺山門




斗南開発の館
ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。
当時の容大公は数え年3歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。
またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての論議が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を残したのでした。(案内板より抜粋)




容大公は、この境内で無邪気に遊んだのでしょうか・・


しかしこの容大公。
あまりに周囲から期待をかけ過ぎたためか、長じては問題児となったそうです。
校則違反で学習院を退学処分となった後、山本覚馬らの斡旋により同志社英学校に入学したものの、ここでもまた問題行動を起こします。

多分ドラマには登場しないでしょうが、八重がどのように対処したのか、興味あるところです(笑)



            by merry






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2013.08.02 Friday 00:00 | comments(8) | - | 

円通寺〜斗南藩

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次に行ったのは、斗南藩の藩庁が置かれた「円通寺」です。


円通寺。むつ市新町4-11





斗南藩史蹟地 円通寺
明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、全国唯一の移封処分を受け最花の地へ挙藩、流罪となったのです。
ここ円通寺は明治4年2月18日、数え年3歳の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。
現在も容大公愛玩の布袋像などが保存されています。
また同時に田名部迎町大黒屋文左衛門方に開設中の藩学校日新館もここに移されました。
明治33年8月容大公揮ごうによる会津藩士の招魂碑が建てられました。
碑文は会津藩士族南摩綱紀博士の撰によります。



容大公揮ごうによる会津藩士の招魂碑
戊辰戦争の33回忌に建立されました。


裏側には碑文が書かれています。



これはこれは〜〜。癒されるキャラですね。


それにしても、藩主である容大公は3歳だったのですね。
その無邪気な藩主を心の支えとして、斗南藩士達は苦しい生活に耐えたのです。


               by merry





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2013.07.31 Wednesday 00:00 | comments(8) | - | 

斗南藩士上陸の地〜斗南藩

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会津若松城を開城して降伏した松平容保は、死一等を減じられたものの永禁錮となり、家名は断絶、領地も没収となりました。
しかし明治2年(1869)11月には容保の実子・容大(かたはる)のお家再興が許され、陸奥国(青森県)下北半島の斗南藩3万石に移封されました。


青森県下北半島には、今も斗南藩の史蹟が点在しています。



まず最初は「斗南藩士上陸の地」

青森県むつ市の陸奥湾沿いには、旧会津藩士の一団が斗南に上陸して第一歩を記したという場所に「斗南藩士上陸の地」の記念碑が建てられています。




記念碑
碑石は鶴ケ城の石垣にも使われている慶山石で、会津若松市より寄贈されたものです
また周りには、会津若松市の木「アカマツ」が植えられています。




斗南藩士上陸の地
明治2年斗南藩士として再興を許された旧会津藩士の一団が、新潟から海路をたどり見も知らぬ新天地の未来の生活に夢を抱きここに第一歩を記しました。
この史跡はむつ市市政施行30周年記念事業として会津人の心を偲んで設置されたものであります。<案内板より抜粋>






また記念碑は、遠い故郷を懐かしんだ人々の気持ちを慮って、会津若松市を望む方向に設置されています










             by merry




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2013.07.29 Monday 00:00 | comments(8) | - | 
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