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衣川合戦

[ 岩手 ]
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」

文治3年(1187)2月、奥州に逃亡した義経は、河越重頼の娘である北の方と、数え年2歳になる娘を伴っていました。
それから2年あまりの日々が過ぎ、文治5年(1189)閏4月30日、衣川館(岩手県平泉町高館)を藤原泰衡が差し向けた軍勢に襲われて、持仏堂に籠りました。
なぜ泰衡は、義経を追い詰めたのでしょうか?

義経をかくまってきた藤原秀衡が、文治3年死去。
義経が奥州に逃れてきて間もなくのことでした。
その際、秀衡は、遺言として、義経を大将に仰ぎ、みな一致団結して、頼朝に対抗するようにと残しました。

しかし、泰衡は、度重なる頼朝の圧力に屈し、ついに義経を襲撃することを決意。

「衣川の戦い」については、記録が残されていませんが、「義経記」には次のようにあります。

弁慶は、片岡八郎、伊勢三郎らと8騎で、2万騎を相手に奮戦。
次々と味方がやられていく中、弁慶は、持仏堂ぬ籠った義経が、自害する時間をかせぐため、自らの体に数十本の矢を受け、仁王立ちしたまま往生。

義経は、22歳の妻と4歳の娘を殺し、自害して果てました。享年31。
義経の首は、黒漆の櫃に納められ、腐敗を防ぐため、美酒に浸し鎌倉に運ばれ、腰越にて梶原景時、和田義盛により首実検が行われました。
その後、首は藤沢に葬られ、白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられています。

 源義経最期の地、岩手県平泉の高館

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高館は、北上川や束稲山(たばしねやま)、衣川を望むことが出来る眺望が素晴らしい所です。 

義経堂

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ここは頼朝に追われ、秀衡を頼って再び平泉に戻ってきた義経の居館があった所といわれ、泰衡に襲われ妻子とともに自害したのもこの地と伝えられています。

義経の死後、約500年後に、仙台藩主・伊達綱村が、義経を偲んで建立しました。

また衣川の流域は、弁慶立ち往生の故事でも知られています。

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この義経像は、堂創建時に製作されたもので、頭部と兜が別作りである、髻が付いている、鎧の上に衣を装っているなど古い技法を使っているそうです。

この横に小さな資料館があり、義経の兜が展示されています。



1689年、松尾芭蕉は、奥の細道の旅の途中、高館において義経公を思い次の俳句を詠みました。
      
夏草や 兵どもが 夢の跡 

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毎年8月のお盆には束稲山に大文字の灯が焚かれ、北上川には灯篭が流され、大文字祭りが行われます。

義経の首が眠る白幡神社(神奈川県藤沢市)



吾妻鏡によると、義経の首は奥州から鎌倉へ送られ、腰越において和田義盛、梶原景時らによって首実験が行われました。
伝承では同時に弁慶の首も送られ、首実験がなされ、夜の間に二つの首がこの神社に飛んできたといいます。このことを頼朝に伝えると、白旗明神としてこの神社に祀るようにとのことで、義経を祭神として後に白旗神社とよばれるようになりました。一方、弁慶の首は八王子社として祀られました。

義経の首は、首実験後、捨てられましたが、その首は金色の亀の背に乗って境川を上り、白旗神社の近くに流れ着き、藤沢の里人によって、この井戸で清められ葬られたといいます。
(この井戸は、白旗交差点近くにあります。)



義経没後810年を記念して建立された義経公鎮霊碑(白幡神社境内)





by shizuka



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2012.12.30 Sunday 00:00 | comments(4) | - | 
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