川越の喜多院は、平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立したものです。
慶長4年(1599年)、天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改め、川越藩主となった老中・酒井忠利が喜多院の再興に当たりました。
慶長18年には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜りますが、寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失。 翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築しました。これが今に残る客殿、書院、庫裏です。
4代将軍・徳川家綱は200石を加増し、750石・寺域48,000坪の大寺となり、歴代徳川家に厚く保護されました。 客殿は、書院、庫裏とあわせ江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したものです。
客殿には「
徳川家光誕生の間」、書院には、「
春日局化粧の間」がありますが、写真撮影は不可です。 家光誕生の間は、この建物が江戸城にあった頃、上段の間で家光が生まれたことから、また「春日局化粧の間」は、家光の乳母である春日局が使用していた部屋ということからこのように呼ばれています。
多宝塔
多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。
慈眼堂 慈眼大師天海を祀る慈眼堂には厨子に入った天海僧正の木像が安置されています。
大黒天
鐘楼門
番所
山門は、天海僧正により建立された喜多院で現存する最古の建物。
天海僧正(慈眼大師)の像
五百羅漢
日本三大羅漢に数えられる五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座しています。 深夜、羅漢の頭を撫でると一つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ているという伝承が残っているそうです。
自分と似たお顔を探してみたけれど見つからず
by shizuka
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