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小倉口の戦い

[ 福岡 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ


慶応元年(1865)4月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、翌2年6月、周防大島を皮切りに、芸州口(広島県)、石州口(島根県)、小倉口(福岡県)の4ヶ所から長州を攻撃しました。

この四境戦争の中でも一番激戦だったのが、高杉晋作率いる小倉口の戦いでした。

小倉城




奇兵隊・報国隊らおよそ1,000人の長州軍は、小倉に陣を構える20,000人という圧倒的多数の幕府軍に戦いを挑み、高杉の戦略と奇兵隊などの活躍により小倉城下を制圧しました。




幕府軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出すると、小倉藩は自ら城に火を放って敗走し、幼少の藩主は熊本藩へと退避しました。




この戦いで幕府の権威は地に落ち、時代は一気に倒幕へと加速しました。
 

 

 


 


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2015.08.31 Monday 00:00 | comments(6) | - | 

延寿王院

[ 福岡 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ

太宰府天満宮の参道を進むと、突き当たったところに延寿王院があります。



延寿王院は、太宰府天満宮が安楽寺天満宮と呼ばれていたときの宿坊で、現在は太宰府天満宮の社家・西高辻家の邸宅となっています。



1865年(慶応元年)2月には三条実美、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、壬生基修の五卿が3年に渡って滞在しました。三条実美の滞在時には、西郷隆盛、高杉晋作、中岡慎太郎、田中光顕、土方久元、佐々木高行、大山巌、村田新八、伊藤博文、木戸孝允、僧月照、江藤新平、坂本龍馬らが訪ねてきたといいます。



延寿王院
 安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、宝暦4年(1754)桃園天皇より院号を賜った。
 慶応元年(1865)から約3年間、朝廷を追われた三条実美ら尊王攘夷派の五卿がこの延寿王院に滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬、ら大勢の勤皇の志士達が去来して明治維新の策源地となった。


by shizuka



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2015.06.18 Thursday 02:05 | comments(5) | - | 

承天寺と博多織

[ 福岡 ]
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」

2014年3月28日、博多の承天寺通りの一角に新たな博多のシンボルとなる博多千年門が完成しました。



木造瓦ぶきの四脚門で、高さ、幅ともに約8メートル。
博多の街の未来千年の繁栄を願って命名されました。



この門が、寺町エリアの玄関口となっています。



江戸時代、博多には「辻堂口門」という門が存在していて、大宰府政庁へ延びる宮道の博多側にあったそうです。



欄間には博多織の献上柄が彫刻されています。

承天寺は、仁治2年(1241年)、大宰少弐・武藤資頼が円爾弁円(聖一国師を招聘して創建。



円爾(弁円)といえば、京都の東福寺を開山した方ですね。

境内は、博多駅移転に伴う区画整理事業市道によって北東と南西に分かれ、山門や仏殿は南西側、本堂や墓地などは北東側に分断されています。





墓地には、新派俳優の川上音二郎や、博多織を始めた満田弥三右衛門らの墓があります。



そして、こちらには、現代の私たちの食生活に欠かさないものの発祥の地の石碑があります。



(左から「饂飩蕎麦発祥之地」「御饅頭所」「満田彌三右衛門之碑」の石碑)

「饂飩蕎麦発祥之地」の碑



仁治2年(1241年)に円爾が宋から帰国した際に技術を持ち帰りました。

「御饅頭所」の碑
IMG_8116 饅頭

円爾が宋から持ち帰った饅頭の製法を茶店に伝えました。

「満田彌三右衛門」の碑


円爾とともに宋に渡り、織物の技術を学び、博多織の基礎を築きました。

博多織とは、福岡県福岡市の主に博多地区で特産とされる絹織物。
その歴史は今から約770年前に遡り、博多出身の満田弥三右衛門が中国(宋)からその技術を持ち帰ったのを起源とします。その後、弥三右衛門の子孫である満田彦三郎が品質改良を行い、博多独自の織物を実現。
江戸時代、当時の領主・黒田長政が徳川幕府への献上したことから、高級織物の地位を確立しました。
明治時代以降の産業の発達に伴う織物需要の急増や機械化を経て、現在の博多織の素地が出来上がりました。

博多織の歴史

鎌倉時代の1241年に円爾(弁円)と共に宋から帰国した博多商人の満田弥三右衛門(1202年-1282年)が持ち帰った唐織の技術が博多織の始まりとなる。弥三右衛門はこれを「広東織」と称し、この技法を家伝とした。
16世紀、弥三右衛門の子孫である満田彦三郎が明の広州に渡って織物技法を研究。帰国後、家伝の技法と学んだ新技術を以て、竹若伊右衛門(藤兵衛)と共に工法の改良を重ねて厚地の織物を作ったとされる。
江戸時代になり、筑前国福岡藩初代藩主黒田長政によって博多織の反物と帯が幕府に献上されるようになる。これにより博多織が献上博多、博多献上、献上柄とも呼ばれることとなる。
福岡藩は献上品の品質保持を理由に織屋株制度を敷いて12戸に限定したため、江戸時代を通して品質を維持することができた。しかし明治時代に株制度が廃止され自由競争となると業者が乱立。品質低下を防止するため1880年に博多織会社が設立、6年後に博多織同業組合となり、変遷を経て、出資組合である現在の博多織工業組合となった。1885年にはジャカード機やドビー機が導入され、本格的な機械織生産を開始。(Wikipediaより抜粋)

この時代に、日本に伝えられ、日本で発展したものが多いということがわかりました。

博多織の発展に、長政くんが貢献していたとは!

今では当然のものとして使ったり、毎日口にしているものも、たまにはその起源をさかのぼることも必要ですね。

by shizuka



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2014.12.29 Monday 00:00 | comments(6) | - | 

空誉(くうよ)上人ゆかりの浄念寺

[ 福岡 ]

地下鉄大濠公園駅 から徒歩8分のところにある浄念寺



参道を入って突き当たりが本堂です。



本堂に向かって右側に、後藤又兵衛の身代わりになって、2代藩主・黒田忠之によって処刑されたという
空誉(くうよ)上人を祀る空誉堂があります。



空誉上人は播州明石出身で、仏道、儒学、武術に優れ、黒田家が帰依した人でした。
黒田官兵衛が、姫路から豊前中津入りした際に、空誉上人も同行し、合元寺を再興、開基。

朝鮮出兵の際も黒田家に同行し、秘書役を務め、黒田家が筑前を任されたときも空誉上人は同行し、福岡城の橋口(旧橋口町)に寺地を賜り、地福寺を建立。

黒田家にはなくてはならない存在の人だったはずなのに・・・
その後とんでもない事態に。

黒田家家臣の後藤又兵衛が、黒田長政との確執から黒田家を出て、慶長16年に大阪城に入城。これにより、黒田家は江戸幕府に疑われることとなります。
黒田家は又兵衛と親交のあった空誉上人を大阪城に派遣し、 福岡に戻るよう又兵衛を説得しますが、又兵衛はこれを拒否。福岡に戻った空誉上人に、筑前福岡藩の第2代藩主・黒田忠之(黒田長政と正室・栄姫の長男として福岡で生まれる)は大激怒。空誉上人は、豊臣方と内通しているとの疑いをかけられ、即日地福寺で逮捕され、須崎の浜で釜に入れられ、背中を割られた上、 熱く煮えたぎった鉛を流し込まれ、惨殺されました。
遺体はその場に捨てられ、再三の懇願にもかかわらず、引き取りは許されませんでした。仕方なく空誉上人の弟子が、深夜に忍び込んで、亡骸を背負い、浄念寺に持ち帰り埋葬したと伝えられています。埋葬した所に立っていた松の木に鳥が止まると立ちどころに落ちたといわれています。



お堂の左側に書かれた空誉上人の縁起によると

空誉上人縁起

仰せに名高き空誉上人と申すは播州明石の人にて仏道儒学且つ武術に勝れたる黒田家帰依の名僧なり。 黒田家中興の祖如水公が播州姫路より豊前中津に入国の際扈従し来り今の合元寺を再興し開基となる。 制韓の役に従軍し黒田公の秘書役を勤め関ヶ原戦後公の筑前に封ぜらるるや上人随従して福岡に来り今の橋口に寺地を賜り一寺を建立開基となり地福寺と称す。 又水鏡天満宮を勧請して鎮守をする今の県社水鏡天満宮是なり。 又公より寺領200石を賜り慶長14年には如水公御父君心光院殿満興宗円大居士の法要を同寺に於いて営み阿弥陀経千部を修せらるるにあたり絵師に画像を画せ上人に其賛を命ぜられたり。
是より先黒田家の重臣にして上人と別懇の交り深き後藤又兵衛基次故ありて福岡を退散 慶長16年関東大阪手切の際大阪城に入る。 これが為関東の疑ふところとなり公大いに憂い窃ひそかにに基次を召還して害せんとし屢しばしば密使を派し甘言を以って百方帰国を勧むるも基次言を左右して帰らず。 公の煩悶益甚し折柄め倭奸の徒基次の帰らざるは全く 空誉上人の国情を内通せるによるとざん言を為す。 公之を信じ大に憤り直に捕吏を地福寺にむけ上人を逮捕。 即日洲崎の浜にて背部を割き熱鉛を鋳込みて残死せしめ死体はその場に捨置かれたり。 これ実に慶長16年辛亥8月6日の出来事にて沙門の身に極めて重き刑罰なり。
当山の開基桂空舞上人は師弟たる縁故を以って死屍の下賜を願いたれど公の怒り解けず 許しなきのみならず之か為地福寺の法牌画像並寺領等は同寺の法脈たる浄念寺に下附さるべきものも没収せられたり。 舜道上人は師匠の死を決し弟子舜沢と共に10日の夜月の落ちるのを待ち浜辺伝いに忍び行き 夜明け窃ひそかに死体を背負い帰り来て心ばかりの土葬をいとなみ師の高恩に報じたる。
此後は事もなく公より何の詮議なく又世に知る人もなく打過ぎたり。 只墓の傍に一本の松ありけるが鳥類之に止れば忽ち落ちて死す。 それより誰言ふとなく其松の下に空誉上人の墓ありと追々流布し又信心の者立願すれば其験ありとて此事次第に云い伝へて今の世に宿願の人絶えす。 後小祠堂を建立し毎年8月朔月より6日まで祭典を行い参詣の人群集す。
因に空誉上人の刑罰に処せられたる場所として口牌に伝りたるは県庁の裏手葦沼の内にありて其個所には未だ曾て葦草の生じたることなしと伝へり。 明治43年九州沖縄八県連合共進会々場として埋立てられ現在県庁舎裏官舎の敷地なり。 昭和2年官舎に数度霊夢を感じたる人ありたりとて其個所に一小祠堂を建立祭典を執行せらる。
本年は恰あたかも空誉上人刑死より348年回忌に相当す。 毎年8月5日より2日間当山に於て祭典を執行し大いに慰霊の誠意を表し茲ここにいささか其縁起を述べ御同情を希ふ所以なり。

空誉上人の処刑については諸説あります。

安養院に伝わるのは、黒田忠之が鷹狩りの帰りに立ち寄って休息した際に、接待に出た寺小姓を忠之が気に入り、小姓として差し出させようとしたが、住職の空誉上人が断ったことから空誉上人を釜ゆでにして、処刑したという話。

黒田忠之


これらの説は、どちらも黒田忠之がやったことになっていますが、ここに来る前に立ち寄った圓応寺のご住職のお話によると、もしかしたら、本当はやったのは黒田長政で、黒田騒動に引っかけて、忠之のせいにしてしまったのかもというお話でした。
どちらにして惨すぎる話です。

そして、空誉上人は、宇都宮鎮房の子であったという説もあります。

天神中央公園南側の噴水広場そばには「福岡藩刑場跡」の碑があります。




これは後藤基次が、黒田長政から出奔したことにより、空誉上人が黒田忠之(黒田長政とも)によって背中を裂かれ溶けた鉛を注がれ処刑されたことを供養するためのものです。



処刑場はいつしか葦の生えた沼となりましたが、 空誉上人が処刑された場所だけは釜の形に葦が生えなかったといいます。



明治43年、沼は埋立てられ、県庁が建てられたのですが、その後僧侶の幽霊を見た人がいたり、県知事が官舎にはいると、夜中にうなされすることがあったそうです。
そこで、官舎の庭に祠が建てられ、中津の合元寺の住職による供養が行われ、 以来、県知事はこの祠にて毎年供養祭を行ったとか。

福岡市中央区役所のHPによると

天神中央公園の一角に、福岡藩の刑場がその昔あったことを示す碑がひっそりと立っています。那珂川が近くに流れ、血などを洗い流すのに便利な場所だったため、この地に刑場があったといわれています。
 昭和の初め、この地に福岡県知事公舎があったころ、僧侶の幽霊が出るとの噂が広がりました。時の大塚惟精(いせい)知事が調べてみたところ、江戸時代に空誉上人が処刑されていたことが分かりました。
 早速、大塚知事は公舎の庭の隅に小祠を建て、手厚く供養しました。その名残がこの跡碑だと思われます。
 その後、県庁が現在地の東公園に移転するまで、代々の知事は空誉上人が祭られている堂がある浄念寺にお参りをし、公舎を撤去する際には魂抜き(お祓い)をしました。(福岡市中央区役所のHPより)

現在は、西側に市役所、周りはオフィス街、商店街、歓楽街に囲まれた公園になっていますが、そんな公園の片隅に悲しい歴史を物語る史跡が残されています。



何だか平将門の怨霊伝説に似たものを感じませんか?

by shizuka



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2014.12.27 Saturday 00:00 | comments(4) | - | 

黒田家の菩提寺・崇福寺

[ 福岡 ]

崇福寺(そうふくじ)は、福岡県福岡市博多区にある黒田家の菩提寺で、かつては寺域も広大で海岸の千代の松原まで続く壮麗な伽藍でしたが、福岡大空襲によりほぼ灰燼に帰してしまいました。

山門
IMG_8179 崇福寺

元々は福岡城の表門でしたが、陸軍の払い下げにより1918年(大正7年)崇福寺境内に移築されました。

地蔵堂
IMG_8180 崇福寺

心宗庵
IMG_8184 心崇庵

IMG_8183 心崇庵

IMG_8185 心崇庵

IMG_8186 心崇庵

唐門
IMG_8211 崇福寺

この唐門は名島城から移築されたと伝えられています。

IMG_8187 崇福寺

藤水門
IMG_8190 由来

IMG_8188 崇福寺

黒田家歴代墓所

IMG_8191 kurodake

黒田官兵衛(如水)をはじめ、夫人の光、長政、熊之助をはじめ、4代藩主・綱政、6代藩主・継高、7代藩主・治之、9代藩主・斉隆の墓碑があります。

当初の墓所は現在の5倍以上あったそうですが、戦災で焼失、戦後に改葬、合祀され縮小されました。

IMG_8189 崇福寺2

平成17年の地震で倒壊した灯篭

IMG_8210 灯篭

ずらりと並ぶ黒田家の墓

IMG_8206 墓所

IMG_8202 墓所

IMG_8208 如水

黒田如水(官兵衛)の墓IMG_8192 黒田如水墓碑

IMG_8194 如水墓碑

IMG_8193 如水墓碑

IMG_8209 長政

黒田長政の墓
IMG_8195 興雲院

IMG_8197 長政

IMG_8196 興雲院

黒田熊之助の墓
IMG_8198 熊之助

幼くして亡くなった黒田長政の弟・熊之助の墓です。

光姫(照福院)の墓
IMG_8199 照福院

如水(官兵衛)の正室・光(照福院)の墓です。

4代綱政、5代宣政、6代継高、7代治之、9代斉蓮10代斉清の合葬墓
IMG_8204 綱政の墓

なお、2代藩主・忠之、3代藩主・光之、8代藩主・治高の墓所は東長寺にあります。
by shizuka



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2014.12.25 Thursday 00:00 | comments(5) | - | 

福岡城(2)

[ 福岡 ]



記念櫓


二の丸跡






三の丸
IMG_8579 三の丸2

松ノ木坂


三の丸跡に牡丹・芍薬園があります。



牡丹・芍薬園の真ん中に、「黒田如水御鷹屋敷跡」の碑があります。





『黒田官兵衛孝高(如水)「1546-1604」は、戦国時代の武将で、筑前福岡藩の藩祖とされる。はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国・四国及び九州の平定後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、同地に中津城を築いた。長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。如水の隠居後、関ガ原の役の効により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前福岡藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。
 福岡黒田家に仕え、儒者・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高さ山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述がある「三ノ丸御鷹屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった。』福岡市教育委員会

名島門






母里太兵衛邸長屋門




潮見櫓




IMG_8313 潮見櫓

下之橋御門


大手門は2箇所あり、ここは下之橋御門(下の橋大手門)といいます。

by shizuka



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2014.12.23 Tuesday 00:00 | comments(4) | - | 

福岡城(1)

[ 福岡 ]

慶長5年(1600年) の関ヶ原の戦いで、黒田長政が勝利に貢献し、その論功行賞として、黒田官兵衛(如水)・長政父子は豊前国中津16万石から、一躍筑前一国52万3千石を得て名島城に入城。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵(現在の舞鶴公園・福岡城跡)を新城候補地に選定。慶長6年(1601年)に築城が開始、7年後の慶長12年(1607年)に竣工。
しかし、残念ながら、官兵衛は福岡城の完成を目にすることなく亡くなってしまいました。

IMG_8544 福岡城

IMG_8543 福岡城

IMG_8541 案内図2

多聞櫓
IMG_8545 福岡城

旧福岡城の47にもおよぶ櫓のうち、南丸にある多聞櫓は、唯一現存する遺構で、国の重要文化財に指定されています。

構造は、南西角にある二重二階建切妻造の角櫓と桁行30間の西平櫓とからなり、16の部屋に独立しており、石落しのみで城外を見る窓のない部屋もああります。現在のこの櫓は、昭和47年10月から50年3月までの2年半の歳月をかけて解体、復元が行われました。

IMG_8547 福岡城

IMG_8548 三の丸

IMG_8550 福岡城

IMG_8551 福岡城

冠木門
IMG_8552 福岡城

ここから多聞櫓が一望できます。

IMG_8553 福岡城

水ノ手御門跡
IMG_8555 水之手御門跡

IMG_8557 二の丸

本丸に向かって歩きます。

IMG_8559 福岡城

大天守台跡
IMG_8561 大天守台跡

天守台には東西25m、南北22.5mの礎石列がありますが、天守閣が実際に建てられていたかどうかは明らかではないそうです。

天守台からの眺め
IMG_8562 福岡城

IMG_8563 福岡城

ここから福岡タワーやヤフオクドームが見えます。

IMG_8564 福岡城

IMG_8565 大天守台跡

鉄御門跡
IMG_8567 鉄御門跡

本丸から天守台にあがる小さな門で、鉄板を打ち付けた扉が二重に配置されていたと伝えられています。大正4年6月に老朽化のため崩落したそうです。

IMG_8568 本丸

本丸跡
IMG_8569 本丸跡

本丸には20以上の部屋からなる本丸御殿がありました。

by shizuka



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2014.12.22 Monday 00:00 | comments(6) | - | 

大長寺(福岡)

[ 福岡 ]

少林寺から大長寺



天神から歩いて10分ほどのところにあります。

こちらには、黒田官兵衛の父・黒田職隆の位牌と書画が安置されているそうです。





今年は大河ドラマの放送に合わせて、特別公開があったのかもしれませんね。

境内を見渡したところ、駒札や案内板などはありませんでした。

by shizuka



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2014.12.04 Thursday 22:25 | comments(4) | - | 

少林寺(福岡)

[ 福岡 ]

安国寺から歩いて数分のところにある天神の少林寺

慶長9(1604)年に下総出身の僧・長誉が、初代藩主・黒田長政から土地を与えられ、開いた浄土宗の寺院です。



境内には、黒田長政夫人の栄姫(大涼院)の五輪塔、長政の二女の笠付角柱塔、三代藩主・黒田光之の長男の綱之の墓塔があります。

栄姫
天正13年(1585年)、信濃国高遠城主・保科正直の娘として誕生。
慶長5年(1600年)6月6日、伯父である徳川家康の意向により、先妻である糸姫と離縁になった黒田長政に嫁いだ。その際、家康の養女として嫁ぎ、化粧料として豊後国玖珠郡領内に1000石を賜った。関ヶ原の戦いで西軍による妻女人質計画があった際、大坂を脱して長政の領国である豊前国まで逃れた。
長政との間には嫡子、忠之(福岡藩2代藩主)・長興(秋月藩藩祖)・高政(東蓮寺藩藩祖)・徳姫(榊原忠次正室)・亀子姫(池田輝興正室)の三男二女を儲けた。(Wikipediaより)


慶長9年1604福岡藩主黒田長政公によって約3000坪の広大な寺地に本堂・開山堂・観音堂・霊堂・子院として性雲院 を建立、長誉恵順和尚を開山の僧とし、永長山昌林寺と号した。
徳川家康の養女、長政公夫人(栄姫)が江戸で没され、遺髪を当寺に埋葬し菩提所となり、 山号も夫人の法名の大凉院からとって大凉山と改め、後に昌林寺も少林寺となる。
中興開山興誉上人の頃、福岡藩上席寺院として、 触頭しょくとうという寺格を持っていた。
しかし昭和5年の火災、昭和19年の福岡大空襲で共に建物一切の寺宝は焼失した。
さらに戦後の区画整理によって寺地縮小・墓地改葬、昭和28年から4ヵ年かけて本堂・ 山門・納骨堂・総檀家の墓を建立、平成14年には、信徒会館・納骨堂を増改築した。
山内には、長政夫人の五輪塔・長政の二女の笠付角柱塔・綱之等の墓塔がある。(案内板より)

長政夫人らの墓は一般の見学はできないので、案内板の画像をアップします。




 
by shizuka



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2014.12.03 Wednesday 00:00 | comments(6) | - | 

安国寺(福岡)

[ 福岡 ]

地下鉄天神駅から徒歩5分ほどのところにある安国寺

慶長5年(1600)、豊前から筑前国福岡藩初代藩主となった黒田長政が、豊前中津にあった安国寺の住持・天翁全補禅師(てんおうぜんぽぜんし)のために、 寺を移したものです。



寛永12年(1635)火災で焼失しましたが、2代藩主・黒田忠之の援助で再興されました。



平成2年に境内を拡張し、平成5年はに高さ18.5mの山門が建設されました。



山門の仁王像は、高さ4.2mの見事な阿吽の像です。





本堂


境内には、筑前の刀工信国一家、伝説「飴買い幽霊」の墓もあります。

境内でひときわ目を惹くのが、平成19年に建設された欅造りの鐘楼堂。





天井には「双龍」の天井画が描かれています。







後で知ったのですが、この鐘は一般の人も鳴らすことができるそうですよ。

ここは繁華街の真ん中にあり、まさに都会のオアシスといえます。

by shizuka



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2014.12.02 Tuesday 00:00 | comments(4) | - | 
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