大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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天龍寺(1)山門〜本堂

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

明智城跡から天龍寺へ。

IMG_1433 天龍寺

天龍寺は、明智城の麓にあります。

IMG_1436 天龍寺

IMG_1434 天龍寺

寛永2年(1625)龍雲和尚が武儀郡下有知村の龍泰寺27世正雪大和尚を招請し開山。
大正12年の焼失以前は本堂、開山堂、明王堂、鐘楼堂、禅堂などの建物がありました。

現在の建物は、昭和45年以後に再建されたもので、寺伝によると伝龍寺といわれる廃寺の跡に建立されました。


当寺には明智光秀の日本一大きい(6尺1寸3分)位牌、木像が祀られています。

画像はコチラ

戒名は「長存寺殿明窓玄智禅定門(ちょうぞんじでんみょうそうげんちぜんじょうもん)」

IMG_1437 天龍寺

IMG_1435 天龍寺
 


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| 岐阜 | 11:40 | comments(1) | - |- pookmark↑PAGE TOP
可児市の明智城跡(3)本丸跡

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

本丸跡
IMG_1429 明智城

IMG_1428 明智城

IMG_1419 明智城跡

IMG_1418 明智城

IMG_1427 明智城

明智城址記
IMG_1421 明智城址記

馬防柵が作られています。

IMG_1426 明智城

展望台からは可児市を一望できます。

IMG_1422 明智城

IMG_1423 明智城

IMG_1425 明智城

この一帯は、のちに信長に仕えた光秀が先祖代々の土地を拝領したともいわれています。

 


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| 岐阜 | 09:01 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
可児市の明智城跡(2) 二の丸〜七ッ塚

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

薄暗い木々の茂る中、上り坂をひたすら歩いて行きます。

IMG_1432 明智城

普通、城内の道といえば、くねくねと曲がりくねったところが多いですが、この道は直線的な道が続いています。

しばらくすると、化石発見地の碑がΣ(・ω・ノ)ノ!

IMG_1413 化石発見地

大手道を登りきると、二の丸跡が見えてきます。

二の丸跡
IMG_1414 二の丸跡

「明智光秀公生誕の地」の幟
IMG_1415 明智城

七ッ塚
IMG_1430 七ッ塚

弘治2年の落城で戦死した明智軍の七武将を祀った塚です。

IMG_1431 七ッ塚

ここまで誰にも出会っていません(;´∀`)

 


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| 岐阜 | 12:40 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
可児市の明智城跡(1)大手門

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

名鉄広見線明智駅から早歩きで約20分で明智城大手口に到着。

IMG_1407 明智城

土岐明智氏の出自の地であり、明智光秀を生んだ地との伝承を持つ明智城は、別名長山城または明智長山城とも呼ばれています。

この辺りには、石清水八幡宮(京都府八幡市)の荘園・明智荘が置かれ、『美濃国諸旧記』によると、康永元年(1342)3月、美濃国可児郡明智庄長山に、美濃守護・土岐頼康の弟・土岐明智次郎長山下野守頼兼(しもつけのかみよりかね)がこの地に城を築き、弘治2年(1556)に光秀の叔父光安・光久が城主の時、稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとしています。

光秀の代まで居城したとあり、光秀出生の地とされていますが、明智城は、恵那市明智町城山にもあり、どちらが明智光秀出生の城なのか、それを裏付ける資料は今のところないそうです。

明智城址公園散策路マップ
IMG_1412 明智城

ここから桔梗坂と呼ばれる上り坂を上がっていきます。

IMG_1408 明智城

IMG_1409 明智城

 可児市は、戦国時代の悲運の武将「明智光秀」の生誕の地である。康永元年(1345年)に美濃源氏、土岐市下野守頼兼が名字を「明智」と改めて初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田の当地に明智城を築城した。
 以来、およそ215年間、ここに山城を構えていたが、弘治2年(1565年)に当時の美濃国の支配者、斉藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に追い込まれて落城。最後の城主であった光秀は、城の脱出に成功して明智家を再興したが、ここへは戻らず、彼の死後も、再びここに築城されることなく明治維新を迎えた。
 城は自然の地形をうまく利用した典型的な中世の山城で、この山の中央主峰、標高175米の頂上に本丸を築き、ここを中心として、いくつかの別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設等を配置させてあったと考えられる。
 居館跡には「光秀産湯の井戸」と伝承されている井戸があり、当時使用されていた土器破片が出土している。また、出丸付近には落城の際の戦没者を葬った「七ッ塚」がある。 
 昭和48年には一族の供養等「六親眷属幽魂塔」が発見されている。
   可児市

IMG_1410 明智城

大手門に到着。

大手門
IMG_1411 明智城

誰もいなそうな予感(;・∀・)

 

 

 


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| 岐阜 | 10:14 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大谷吉継の墓(関ケ原)

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

関ケ原の大谷吉継陣跡の近くに、大谷吉継の墓があります。

 

大谷吉継は、今でいうハンセン病を罹っていたため、目はほとんど見えず、歩行もままならない状態でしたが、輿に乗って隊を指揮し、東軍の藤堂・京極隊を相手に奮戦しました。
しかし小早川の裏切りによって西軍が敗北した事を悟ると、家臣の湯浅五助に介錯させて切腹しました。享年42歳。

 

大谷吉継の墓


吉継の首は首級にされないように、五助によって地中に深く埋められたが、そこを敵方の藤堂高刑(たかのり)に見つけられてしまいました。
五助は「私の首を差し上げる代わりに、ここに主君の首を埋めた事を言わないで欲しい」と頼んだら、高刑は「武士の面目にかけて言わない」と誓い、五助の首を取ったといいます。

 

大谷吉継の墓(真ん中)に、寄り添うように建つ湯浅五助の墓(左)


首実験で五助の首を見た家康は「五助ほどの者が主君・吉継の首の行方を知らないはずがない」と高刑につめ寄ったが、「言わないと五助に誓って首を取ったので、この事は誰にも言えない」と突っぱねたそうです。
家康はむしろその律儀さに感心して高刑に褒美を与えたと云います。
ゆえに、吉継の首は家康の手に渡ることはありませんでした。


大谷吉継顕彰碑


 

 

大谷吉継の墓、そして顕彰碑は、東軍であった藤堂家により建てられたものです。

敵でありながらも尊敬され慕われる・・

大谷吉継の人となりを表しています。

 

 

 

 

 


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| 岐阜 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
関ヶ原の戦い(2)




ここからは民家の間を通って行くます。



島津義弘陣跡




しばらく歩くと、突然ヤギが出現!



のどかな光景に癒されるわ〜

クマ出没看板の恐怖が一気に消えました!



関ヶ原開戦地




小西行長陣跡






徳川家康最後陣跡








歴史民俗資料館


ここからゴールの東首塚へ

東首塚


あっ、ご苦労で様ですラッキー











松平忠吉・井伊直政陣跡








ここから駅に戻って・・・

全9.3Km、9時半にスタートして12時半にゴール\(^o^)/

初めは、9Kmなんて歩けるかな〜?と心配していましたが、

何か所か目的地を経由してのことなら歩けるものですね。



受付でスタンプカードをもらい、今日のスタンプを1個押してもらいました。

スタンプカードは一年間有効とのこと。

また近いうちにウォーキングに挑戦しようっと!



by shizuka



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| 岐阜 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
関ヶ原の戦い(1)

めりいさんに付き合ってもらい、関ヶ原に行って来ました!

朝6時台の東海道線でいざ関ヶ原へでんしゃ



駅からすでに合戦がスタートしているようです上向き



秋晴れの土曜に当たったこの日のウォーキングの参加者は予想以上にたくさんでした。



受付で、ウォーキングマップをもらってそれぞれ自分のペースで歩いて行きます。

最初の陣跡は、駅から0.7kmの

本多忠勝陣跡






ここから1.8km先には

徳川家康最初陣地




ここから2km先の丸山へ



上り坂が続きます汗



クマ出没注意の看板が唖然びっくり冷や汗

噂には聞いていたけど、やっぱり関ヶ原には出るのね・・・



竹林の中を進みます。



まだまだ続く山道



どこからクマが出てくるかわからない不安に駆られながら

黙々と歩きます。

良かった〜一人で来なくて・・・

歩いて切る途中にクマ出没注意なんてのを見たら、その先を進んでいいのか

戻るべきかためらっちゃうわ。

そうこうしているうちに視界が開けてきました。

すると見えて来たのは・・・



お〜〜やっと着いた!

今回の目的地に\(^o^)/(まだまだゴールではないですが)



ここが黒田長政・竹中重門陣跡です。




竹中重門といえば、あの竹中半兵衛の嫡子です。

ともに秀吉の軍師であった黒田官兵衛と竹中半兵衛の息子達が同じ場所に陣を構えるとは!

しかも徳川方として・・・

黒田長政にとって竹中半兵衛は命の恩人。その息子である重門とは幼馴染でもあり、よきライバルでもあったのでしょう。

竹中重門

父・重治の死後、従父(父の従弟)の竹中重利の後見を受けて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍する。天正16年(1588年)に従五位下丹後守、翌天正17年(1589年)には美濃国不破郡に5000石を授けられた。文禄の役では名護屋城に駐屯し、慶長の役では軍目付として朝鮮へ渡海した。戦後、戦功によって河内国内に1000石を加増される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属して犬山城主・石川貞清を援助するが、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替えする。そして他の主たる東軍の武将同様、みずからの居城である菩提山城を徳川家康に提供している。本戦では、幼なじみでもある黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日(10月25日)、伊吹山山中で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けた。
また、関ヶ原は竹中氏の所領であったことから、戦没者に対する供養料1000石を下賜されるなど、幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山6000石を安堵され代々継承した(のちに分家を輩出し5000石となる)。庶子の一人は長政との縁により福岡藩黒田家に重臣として仕えた。(Wikipediaより)







ちょっと休憩して、また山道を歩いて行きます。



山道を抜けると、エコフィールド関ヶ原という気持ち良い道に出ます。


しか〜し、少し進むとこんなものが(@_@;)

これはクマ捕獲用の檻ですよね?びっくり



入ってなくて良かった〜たらーっ



池に沿って歩くと



また竹藪が



これを抜けると、広い道に出て、いよいよ関ヶ原の決戦地へ!



雲一つない秋晴れです晴れ



次は、笹尾山の石田三成陣跡



島左近陣跡


ここから笹尾山に上ります。



わずか5分ほどで山頂へ。



三成さん、好きなのだけど、「軍師官兵衛」では官兵衛憎しの嫌〜な三成ですねがく〜





見晴の良いところで、休憩ニコニコは良いのですが、撮影スポットである
石碑の前に荷物を置いたり、座り込むのはちょっと・・・ちっ



三成の兜のモニュメント




ここから次の目的地まで1.1km歩きます!

by shizuka



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| 岐阜 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
五明稲荷神社



昨夜の大河ドラマの紀行で五明稲荷神社が紹介されたので、4月2日に掲載した記事を再度アップします。




竹中陣屋跡の東南方向約1kmの所に、黒田官兵衛の嫡男・松寿丸が匿われていたと伝わる地があります。
現在は五明稲荷神社が建っています。
 
五明稲荷神社(不破郡垂井町岩手2290



三木城攻めの最中に突然信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、黒田官兵衛は単身で有岡城に乗り込みましたが、逆に幽閉されます。
戻ってこない官兵衛に謀反の嫌疑をかけた信長は、長浜城の秀吉の元に人質として預かっている官兵衛の嫡男・松寿丸を殺すように命じました。
しかし竹中半兵衛は「官兵衛二心無い」と信じ、密かに自分の居城・菩提山城から近いこの場所に松寿丸を匿いました。

その後、有岡城から官兵衛が救出されると、松寿丸も開放されました。

 

このイチョウの樹(右)は、天正8年(1580)閏3月、松寿丸がここを去る時に植えたと伝わります。

 


 


秀吉の出世を支えた2人の軍師「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」のふたりは、戦国時代にありながら、このようにお互いを信頼し、深い友情と絆で結ばれていました。

このふたりを合わせて「二兵衛」と呼びます。




           by めりい   



 

 
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| 岐阜 | 00:00 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
竹中半兵衛の生誕地・大野町を訪ねて(2)竹中重元の墓
八幡神社より数百mほど北上すると、右手に↓の案内板と月真寺があります。 





月真寺の西側に大御堂城があったとされ、境内には竹中重元、加藤平内の墓があります。
 
月真寺本堂
 


この辺りは、大御堂城の搦手曲輪跡だとされています。

竹中重元の墓



竹中氏の先祖は、大野郡大御堂の出身で、土岐氏に仕えていました。

半兵衛の父・竹中重元は、明応6年(1497年)に誕生。

土岐氏の滅亡後は、斎藤氏の家臣として仕えました。 斉藤道三に重用され、大御堂城も道三から与えられました。

道三が、息子の義龍と戦った時、道三に従ったため、道三が敗北し、亡くなると、義龍勢に攻められ、大御堂城を手放すことに。

1558年(永禄元年)、子の半兵衛と共に菩提山の岩手弾正道高を攻めて破り、新たに菩提山城を築いて居城とし、6千貫を知行しました。
 
1559年(永禄2年)には近隣の不破光治の襲撃を受けますが、家臣の竹中善左衛門の活躍によって退けました。
 
1560年(永禄3年)近江に出陣、浅井氏と戦い、戦功を挙げました。
 
永禄3年(1560年)〜永禄5年(1562年)死去したとされています。
 
江戸時代にこの地を治めた旗本・加藤平内の墓



大野町史跡「牧村家土塁」は、大御堂城の西曲輪の位置にあたり、当時の土塁が残っています。




by shizuka


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竹中半兵衛の生誕地・大野町を訪ねて(1)大御堂城跡・竹中半兵衛生誕の地の碑

青春18切符を使って、竹中半兵衛ゆかりの地、岐阜県の大野町を訪ねてみました。



養老鉄道の揖斐駅で下車。



春らしく菜の花が満開!


 


駅でレンタサイクルを借り出発進行



 
大野町は、濃尾平野の北部に位置し、揖斐川と根尾川の合流地域に位置する自然豊かな町で、現在バラの生産量が全国一なのだとか。

大野町バラ公園というのもあるそうです。

揖斐川にかかる三町大橋を通ります。





大きな橋ですが、歩道があるので、自転車でも安心して走れました。



大きな川に向こうには、こんもりとした山が見えます。



揖斐駅から自転車で走ること約20分。

この幟が見えてきます。



半兵衛の出生地には、近郷の片山、稲葉山城下など諸説ありますが、垂井町明泉寺の古文書「過現二世牒」によると、半兵衛は、天文13年(1544)、竹中重元の長子として、大御堂城に生まれたと記されています。

初名は重虎という名で、後に重治、通称が半兵衛となります。

弘治4年(1556年)斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川の戦いで、道三方に味方しましたが、道三は敗北。 戦の後、重元の留守中の大御堂の屋敷に義龍勢が押し寄せる事態に、半兵衛は、弟の久作、母らとともにこれを退けました。
 
現在、八幡神社の北東一帯が大御堂城跡となっており、城の遺構はありませんが、神社の境内には、竹中半兵衛生誕の地の碑、城要図碑などが建っています。

八幡神社の鳥居






竹中半兵衛生誕の地の碑



 

 
竹中半兵衛の由緒の碑

 竹中半兵衛重治公の由緒
 竹中半兵衛重治公は、天文十三年九月(1544)大御堂城主竹中遠江守重元公の長男としてこの地で誕生 幼少の頃より学問を好み、特に兵法を学ぶ。
 永禄元年(1558)父に従い岩手氏を襲い、岩手に移住し、斉藤龍興に仕える 同七年二月六日家臣十六人を率いて稲葉山城へ登城し、城外の安藤守就軍と呼応して城を占拠す
信長公の城譲渡話を断わり、同年八月龍興に返し、近江の浅井氏の食客となる。  翌年栗原山に蟄居中、木下藤吉郎の再三の説得に応じ、藤吉郎の客将分で信長公に仕えることになる。  
 元亀元年(1570)姉川の前哨戦長亭軒城の説得降伏、後戦の横山城守備、翌年の小谷山城攻略、 天正三年長篠合戦、同五年からの中国攻めで明石親景の帰順、三木城攻撃の兵糧攻め戦法等々、 秀吉公の軍師として活躍し、天下人へと育てた。 天正七年三木城攻撃中病に倒れ、六月十三日平井山の陣中で没す。 享年三十六歳
 郷土の生んだ英傑として永く顕彰せんとこの碑を建てるものなり。

 
城要図碑


実際の城は、現在の神社の位置より北東にあったそうですが、現在は、住宅地と田んぼになっています。





by shizuka


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| 岐阜 | 11:28 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP