大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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織田信長が足利義昭を迎えた立政寺 正法軒跡

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

JR東海道線の西岐阜駅から徒歩5分ほどのところにある立政寺は、東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えました。

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IMG_9455 立政寺

1891年(明治24年)の濃尾地震で被災したため、現在の本堂は近代的な建物です。

本堂
IMG_9459 立政寺

法然上人像
IMG_9460 法然上人像

立政寺は、明智光秀と細川藤孝の仲介により、織田信長が足利義昭を迎えた歴史上の重要な舞台にもなった寺です。

永禄11年(1568年)7月、信長は越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた足利義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣。
義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見しました。

境内の一角に正法軒跡の碑があります。

IMG_9470 立政寺

正法軒跡
IMG_9470 正法軒跡

正法軒は、足利義昭の御座所が置かれていた塔頭でした。

 


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| 岐阜 | 06:47 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
桶狭間の戦い(2)桶狭間古戦場跡(緑区)今川義元首洗いの泉〜義元の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

桶狭間古戦場跡は、名古屋市緑区桶狭間北3丁目にある史跡です。

この一帯は、桶狭間の戦いの中心地であり、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地といわれ、地元では、田楽坪とも呼ばれています。

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現在は合戦当時の地形、城、砦などをジオラマ化し、中央には織田信長と今川義元の銅像を配した桶狭間古戦場公園として、合戦から450年目の2010年に整備されました。

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桶狭間古戦場跡
永禄三年(一五六〇)五月十九日、織田信長二七歳のとき、わずか三千余の手勢を率いて折からの風雨に乗じ、二万五千余の今川勢の本陣を急襲し、義元を倒した。
信長が天下統一の第一歩を踏み出した、有名な桶狭間の戦いの主戦場はこの附近一帯である。 (駒札より)

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桶狭間古戦場の碑(この碑の画像はWikipediaよりお借りしました)

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昭和時代初期に鞍流瀬川の川底から引き上げられた石碑

桶狭間古戦場田楽坪の碑
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この碑は桶狭間合戦の折、今川軍の先陣松井左衛門 佐宗信(遠州二俣城主)子孫である松井石根氏が 昭和8年5月に桶狭間古戦場跡を訪ねられた折、揮毫 されたものであり、同年8月、郷土史家梶尾馬子作氏 により建碑されたものである。
文 桶狭間古戦場保存会 (駒札より)

約4万5千を率いる今川義元は午前8時頃沓掛城を出発し、正午北西に向かって人数を備え、おけはざま山にて、今朝攻め落とした鷲津・丸根両砦の報告を聞きながら休息をとりました。信長は善照寺砦に到着、敵情の報告を受けた後、佐々・千秋の隊3百に、巻山・幕山・高根山に着陣した今川軍本隊の主力、松井・井伊の大軍の中央部に攻撃を命じ、自らは中島砦に移動、次いで前田(利家)、毛利等の精鋭隊に、前線での撹乱戦を命じました。これら先遣隊は、今川軍の兵力分散と、西の山中に誘い込むための決死隊であったと思われます。
この時、織田信長は「運は天にあり、敵が懸からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」と訓示を行い、先遣隊が必死の戦いを挑んで、敵の目を引き付けている間に、兵2千を率いて疾風の如く駆け抜けて桶狭間の北の山麓に駒を進めました。
その頃、一天伐かに掻き曇り雷を伴った大風雨の中、山を越え狭間を抜けて、今川軍の本陣に迫りました。(桶狭間古戦場保存会HPより)

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義元首洗いの泉
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織田軍に攻められ討ち死にした今川義元公の首級(しるし)をこの泉で洗い清めたと言われています。昭和六十一年(一九八六)の区画整理まで清水が豊富に湧き出ていました。
ここは近崎道(ちかさきみち)と三河道(みかわみち)との合流点で鳴海方面に通じる要所でした。湧き出る水の勢いで水汲み用の桶がくるくる廻っている様子に興味を誘われた旅人が、桶が廻る間の一服とて「桶廻間(おけはざま)」と呼ぶようになったとの言い伝えもあります。江戸時代の文書の殆どは「桶廻間」でしたが、明治十年(一八七七)の郡町村制の制定以降、現在の「桶狭間」となりました。(駒札より)

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義元水汲みの泉とも言われ、泉の中にくるくる回る桶があったので、桶廻る狭間が桶廻間、桶狭間となったとも言われています。 

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今川義元の墓
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| 岐阜 | 10:33 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
斎藤道三の菩提寺・常在寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

岐阜市梶川町の常在寺は、京都妙覚寺の末寺で、斎藤道三と父・長井新左衛門尉が二代にわたり美濃国を制する拠点とした寺です。

IMG_9521 常在寺

室町時代の宝徳2年(1450年)美濃国守護代斎藤宗円の子で、土岐家守護代として当時事実上美濃を支配していた斎藤妙椿(みょうちん)が、妙覚寺から世尊院日範を招き建立。

戦国時代に入ると、斎藤道三が、妙覚寺の僧だった父・長井新左衛門尉の美濃国に築いた地位を基盤として、美濃国主となり、この寺に寺領を与え発展させました。

道三以後三代の菩提寺となっています。

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IMG_9525 常在寺

IMG_9520 常在寺

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斎藤道三公供養碑
IMG_9524 斎藤道三公供養碑

斎藤家五輪塔
IMG_9526 斎藤家五輪塔

斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画は、重要文化財に指定されています。

毎年4月の第一土曜日の「道三まつり」の際、「斎藤道三公追悼式」が営まれ、まつりの2日間は無料開放されるそうです。

 


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| 岐阜 | 13:57 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
土岐高山城を訪ねて(2)土岐高山城 三の曲輪

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

穴弘法から山道を上り、土岐高山城跡に到着。

IMG_1376 高山城跡

「高山」といっても、飛騨高山ではなく、土岐市にある高山城です。

IMG_1375 高山城跡

土岐市の一族・高山伊賀守の居城であった高山城。

戦国時代には、平井頼母が城主となり、織田信長、武田信玄、勝頼との領土争いの境界線上にあり、激戦が繰り広げられました。

当時は、三つの曲輪によって成り立っていたとされています。

三の曲輪跡
IMG_1392 高山城跡

ここからの眺め
IMG_1390 高山城跡

IMG_1391 高山城跡

IMG_1393 高山城跡

立地 高山城は土岐川の氾濫原を見下ろす標高183mの細い丘陵地に立地しています。麓からの比高差はおよそ57mで、通称サバといわれる砂岩層の断崖状に築かれています。 

構造 現在は水道貯水池が築かれており、当時の構造を知ることはできませんが、三つの曲輪によって構成されていたといわれ、北端や南端に曲輪の名残を留めています。

歴史  高山城の築城については諸説があり判然としませんが、高山伊賀守光俊、平井宮内小輔光行らが城主であったと伝えられています。 
 天正2年(1574)光行の子平井頼母光村が城主の時、甲斐の武田勝頼の東美濃攻めによって攻略され、その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に、東軍妻木勢によって攻められ落城したといわれています。

 


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| 岐阜 | 10:48 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
土岐高山城跡を訪ねて(1)穴弘法

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

岐阜県土岐市の明智光秀ゆかりの土岐高山城跡を訪ねて来ました。

降り立ったのは、JR土岐市駅。

IMG_1400 土岐市駅

ここから土岐津橋を越えて、徒歩で約20分。

IMG_1399 土岐

高山城跡周辺図の案内板がありました。

IMG_1358 高山城跡

高山城跡に通じる遊歩道を歩いて行きます。

IMG_1359 高山城跡

誰もいません(-_-;)

IMG_1360 高山城跡

高山城に行く途中、「古城山稲荷」の赤い鳥居が見えてきました。

IMG_1362 古城山稲荷

この先には、山の岩肌に穴を掘り、石仏を祀っている「穴弘法」があります。

IMG_1364 穴弘法

戦国時代にこの地で命を落とした人々の霊を弔うため、元禄元年に開創された「慈善院梵燈寺」の跡で、104体の石仏が安置されているそうです。

IMG_1366 穴弘法

IMG_1367 穴弘法

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中央には、細い滝も見えます。

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IMG_1371 穴弘法

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   穴弘法 慈光院梵燈寺跡 
         古城山遍照閣跡
 穴弘法は戦国時代にこの地で命を落とした人々の霊を弔うため元禄元年に開創された「慈光院梵燈寺」の跡です。
 梵燈寺は二代の住職が続いたのち廃寺となり、その後荒れていましたが明治時代に地元の人々の力で「古城山遍照閣」として再興され、弘法様として信仰を集め今日に至っています。
 岩肌に穴を掘り石仏を納める様式は鎌倉時代の「やぐら」に類似し、古くは高山城の武将の墳墓が存在したと推定されます。
       高山城高山宿史跡保存会


またもやここまで人影なし(^^;

 


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| 岐阜 | 12:24 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
瑞浪市の一日市場八幡神社(2) 明智光秀の像

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

この辺りは、古くは高野と呼ばれた地で、美濃源氏・土岐一族発祥の地とされています。

IMG_1351 一日市場八幡神社

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境内には土岐氏の一族であったとされる「明智光秀の像」があります。

IMG_1353 一日市場八幡神社

IMG_1354 一日市場八幡神社

IMG_1355 一日市場八幡神社

私が訪ねた昨年の7月の時点ではまだありませんでしたが、その後、瑞浪市の郷土史研究団体「美濃源氏フォーラム」が、
土岐光衡のブロンズ像を設置したそうです。

またもやフライングしてしまいました(;・∀・)

 

 

 

 


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| 岐阜 | 22:19 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
瑞浪市の一日市場八幡神社(1) 土岐一族発祥の地

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JR中央線瑞浪駅から徒歩5分ほどのところにある一日市場八幡神社

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「ひといちばはちまんじんじゃ」と読むそうです。

IMG_1347 一日市場八幡神社

ここは、土岐一族の始祖、源光衡が本拠となる一日市場館(ひといちばやかた)を構えた場所とされています。

IMG_1346 一日市場八幡神社

一日市場の地名は周辺で定期市が開かれていたことに因むと考えられ、付近には大門・古屋敷・馬屋ヶ崎など、居館の存在をうかがわせる地名も残されているそう。

IMG_1348 一日市場八幡神社

源頼朝に仕え、美濃国守護となった土岐光衡は、ここに本拠となる館を建てて勢力を伸ばし、子孫は鎌倉幕府と共に栄えたそうです。

本殿
IMG_1349 一日市場八幡神社

現在の本殿は江戸時代の安政7年(1860)に建築されたもの。

本殿の裏には土塁と思われる遺構が確認でき、周辺では鎌倉時代を中心とする陶磁器片なども多数採集されているそうです。

IMG_1350 一日市場八幡神社


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| 岐阜 | 19:49 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
天龍寺(2)明智光秀一族の墓

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天龍寺の境内には「前親衛藤原詮実、法名定栄、明徳5甲戌10月18日」と刻印された宝筺印塔があり、
明智光秀一族の墓として祀られています。

IMG_1440 天龍寺

IMG_1442 天龍寺

毎年6月頃、明智光秀公供養祭が天龍寺にて行われ、明智城址保存会の会員や地元の人、関係者が参加し、明智光秀公の命日である6月13日にちなんで作られた6尺1寸3分(約184cm)の位牌に向かい焼香、続いて茶会を催されるそうです。(天龍寺HPより)

鐘楼
IMG_1443 天龍寺

 

 


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| 岐阜 | 12:19 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
天龍寺(1)山門〜本堂

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

明智城跡から天龍寺へ。

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天龍寺は、明智城の麓にあります。

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IMG_1434 天龍寺

寛永2年(1625)龍雲和尚が武儀郡下有知村の龍泰寺27世正雪大和尚を招請し開山。
大正12年の焼失以前は本堂、開山堂、明王堂、鐘楼堂、禅堂などの建物がありました。

現在の建物は、昭和45年以後に再建されたもので、寺伝によると伝龍寺といわれる廃寺の跡に建立されました。


当寺には明智光秀の日本一大きい(6尺1寸3分)位牌、木像が祀られています。

画像はコチラ

戒名は「長存寺殿明窓玄智禅定門(ちょうぞんじでんみょうそうげんちぜんじょうもん)」

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IMG_1435 天龍寺
 


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| 岐阜 | 11:40 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
可児市の明智城跡(3)本丸跡

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本丸跡
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明智城址記
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馬防柵が作られています。

IMG_1426 明智城

展望台からは可児市を一望できます。

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IMG_1425 明智城

この一帯は、のちに信長に仕えた光秀が先祖代々の土地を拝領したともいわれています。

 


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| 岐阜 | 09:01 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP