倉敷の藤戸合戦の舞台を訪ねました。
昔、倉敷市藤戸周辺は小さな島が点在する海でした。
寿永2年(1183年)10月には、玉島で水島合戦、寿永3年(1184年)12月には藤戸合戦がありました。
藤戸合戦(児島合戦ともいう)は、備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸町)で源氏の源範頼軍と、平家の平行盛(平清盛の次男である平基盛の長男)軍の間で行われ、源氏の勝利に終わりました。
藤戸寺 奈良時代に行基菩薩が開基。平家滅亡後、源平藤戸合戦の功によりこの地域を拝領した
佐々木盛綱が、両軍戦没者、自分が殺した漁夫の霊を弔うための供養に、大法会を催し、建物の修復をしました。
謡曲「藤戸」の寺としても知られています。
謡曲藤戸と藤戸寺
佐々木盛綱は、藤戸の渡しの先陣の功を立てた恩賞で備前国児島を賜り入国した時に訴訟あるものは申し立てよと触れると、一人の老女が、盛綱に亡き者にされたわが子を返してくれと歎き訴える。
盛綱は藤戸の戦いに、この老婆の子の漁夫に海の浅瀬を教えられて、先陣の功を立てたのであるが、この事が他に漏れるのを恐れて、かの若者を亡き者にしたのである。
盛綱は今、その母の歎きを見て、さすが哀れに思い、慰さめ、又その亡き子の為に仏事を行うと、やがてその漁師の亡霊が現れて、自分が亡き者にされた時の様を語り、供養を受けたお蔭で恨みもはれ、成仏することが出来たと喜んで消え失せるという筋である。
藤戸寺は源氏の武将佐々木盛綱が源平両軍の戦没者の霊を慰め敵陣一番乗りの手引きをしてくれた若者の霊を杷るために大法要を営んだ寺である。
謡曲史跡保存会(案内板より)
藤戸寺近くに、
源平藤戸合戦八百年記念碑があります。
源平藤戸合戦略記
寿永3年(1184)旧暦12月(東鑑ーあずまかがみ) 源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙したが源氏には水軍が無かったので渡海出来ず平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対してもただ切歯扼腕悔しがるだけであった。
時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、夜半、男を伴って厳寒の海に入って瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流した。翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、目印の笹をたよりにまっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りを上げるや敵陣目指して突入し、源氏大勝の端を開いた。盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜った。海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世を驚嘆させ永く後世に名声を伝えられる事となった。
(案内板より)
藤戸寺から「もりつな橋」へ
この赤い橋の途中に馬に跨った
佐々木盛綱像があります。
佐々木盛綱
近江国(滋賀県)佐々木庄を地盤とする佐々木秀義と源為義の娘の子。
平治の乱(1159)後、関東へ落ち延び、父や兄弟と共に相模国の渋谷重国の許に身を寄せました。
仁安1(1166)年より源頼朝に仕え、治承4(1180)年の挙兵にも参加。
藤戸合戦などで活躍し、頼朝の死後は出家して西念と名乗りました。
しかし、源頼家に所領を没収され、上野国磯部に隠居しましたが、建仁1(1201)年の越後の城氏の反乱の鎮圧や、元久2(1205)年の京都守護平賀朝雅誅殺などで活躍しました。
この近くに、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のロケ地に使われた
藤戸饅頭本店があります。
平家物語によると、1184年(寿永三年)、佐々木盛綱が、藤戸村の村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の軍に勝利しましたが、口封じのため、村人を斬り殺したといいます。その村人の供養が村人たちにより、藤戸寺で行われ、近くの民家から饅頭が供えられ、この饅頭が藤戸饅頭の起源とされています。
また、この近くに
経ヶ島があります。
藤戸寺で大法要を催した盛綱は、もとは藤戸寺の境内であったこの小島に、お経を埋めて経塚を建てたことから経ヶ島と呼ばれるようになったといいます。
経ヶ島内には、源平藤戸合戦八百年忌の石碑、島の頂上には二基の宝篋印塔があり、小さい方が漁夫の供養塔といわれています。
経ヶ島
経ヶ島 秋の下闇 深かりし 高濱年尾
寿永3年(西暦1184年)冬12月、源平両軍はこの藤戸海峡をはさみ布陣した。
源氏の将佐々木盛綱は漁夫に浅瀬を教えられ、馬を躍らせて一番に海を渡り、味方を勝利に導いた。この時盛綱は浅瀬の秘密をまもるためこの漁夫を亡きものにしたという。
次の年、児島郡の領主となった盛綱は、哀れな漁夫の追福のため、大供養を藤戸寺で行い写経をこの島に埋めたので経ヶ島と呼ばれるようになった。
頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔があるが、小さい方が漁夫の供養塔と伝えられている。
麓の弁財天社は藤戸寺の鎮守で、寛永9年(西暦1632年)岡山藩家老池田氏が天城に陣屋を設けた際、祀られたものである。
by shizuka
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