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明石全登ゆかりの岡山城

[ 岡山 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

岡山城は、大坂五人衆の一人、明石全登ゆかりの城です。

 

 


戦国時代、宇喜多秀家に仕えていた全登は、家老として、岡山城で政務を取り仕切っていました。

 

 

 



全登は、関ヶ原の戦いで、斬り死にしようとした主君・秀家を諫めて大坂城へ退くように進言し、殿軍を務めました。
戦後、岡山城に退くますが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。
宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれています。
文字色慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると信仰上の問題で豊臣方として参陣。
翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、道明寺の戦いに参加。全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、この戦いで全登は負傷。
天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていましたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱。その後の消息は不明。(Wikipediaより)

岡山城は、慶長2年(1597)宇喜多秀家によって築城されました。

 


三層六階の堂々たる天守閣は織田信長の安土城天主閣を模して築かれたと伝えられ、不等辺五角形の天守台をしています。

岡山城の別名は、黒い下見板張りの外観から烏城(うじょう)と呼ばれています。

戦前、国宝であった天守閣は戦災で焼失し、現在のものは再建です。

地階から6階まであり、5〜6階が展望台になっています。

4階まではエレベーターで行けるので楽ですよ。

展望台からの眺め


展示物は、撮影OKなところとNGなところがあります。

ここでは、大名のお籠に乗って撮影ができます!

 


衣装体験も・・・

 


江戸時代の町人・商人の暮らしぶりが再現されています。

 


月見櫓


国の重要文化財。
元和・寛永年間(1615-1632年)に建てられたもので、現存しています。

周辺には、土塀の礎石に狭間が作られており、当時の最新式の設備と言われています。
 

2016.12.05 Monday 11:09 | comments(4) | - | 

真田丸オープニング映像備中松山城2/2

[ 岡山 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ
この度の熊本大地震で被災された皆様へ、心からお見舞い申し上げますとともに、
被災地域ならびに熊本のシンボルである熊本城などの早い復旧をお祈りいたします。

共同ブログ ライター3


真田丸のオープニング映像で使用された備中松山城は、日本で一番高いところに天守のあるお城(標高430m)ですので天守閣内を紹介します。

二層二階の典型的な山城ですが、三階に見えるように造られています。
天守2


最上階は、2階になり、お城の守護神を祀った
御社壇があります。
御社壇

守護神

板


2Fと1Fをつなぐ階段(一人通るのがやっとの狭い階段です)
階段1


1Fの部屋は、大広間で篭城戦を想定して、囲炉裏や裝束の間が設けられ、城主が生活できるように造られています。
奥が囲炉裏の間です
大広間

囲炉裏の間

囲炉裏

囲炉裏板

1F大広間の奥に裝束の間に行く階段があります
裝束階段

 
裝束の間(大広間と奥の小さな部屋です)
裝束の間

裝束板
 
天守閣と二重櫓をつなぐ廊下
外から見ると天守閣の一番下のように見えますが廊下です。階段を登ると1F大広間に出ます。
つなぎ廊下

廊下板

松山城の古い写真をみると相当崩れています。
上:明治晩年頃の写真
下:昭和3年頃の写真
昔写真

 
1880(明治13)年に新島襄と八重夫人が高梁(備中松山城の城下町)でキリスト教の布教活動のために訪れています。
新島襄は、松山藩所有の快風丸で東京から玉島(岡山県倉敷の港町)への航海をしています。
夫婦
2016.04.23 Saturday 12:45 | comments(9) | - | 

真田丸オープニング映像の備中松山城 1/2

[ 岡山 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ
真田丸オープニング映像に登場してくるお城は「備中松山城」です。このお城は、岡山県にあって、現存する最も高いところに天守閣のある山城です。(標高430M)
二層二階の典型的な山城ですが、三層に見えるようにデザインされています。一番下は、天守裏にある二重櫓へ行く接続廊下です。真ん中が1Fで大広間、一番上にお城の守護神を祀った御社壇があります。

備中松山城天守閣
天守2

城板

高い板



オープニングで使われていると思われる場所

天然の岩盤の上に石垣が築かれています
石垣

 
大手門
大手門

 
土塀は、現存するものと復元したもので出来ています
土塀

 
この天守の姿は、山城の雰囲気をだしています
かべ城

 
屋根瓦

 
オープニングの画面では、CGで加工して、苔などを追加して古い建物の雰囲気を出しています
真田丸登場板


 
真田信繁と媚中松山城の関係はありませんが,もうすこし詳しく説明を加えます

 
高梁市(たかはしし)は、山陰(日本海側)と山陽(瀬戸内海側)とを結び、東西の主要道路も交差する重要な場所で、戦国時代は、激しい争奪戦があって、城主の交代が繰り返されました。

 
展望板
高梁全景

 
臥牛山(がぎゅうざん)山頂に立つお城から見た、高梁の町並み。
城眼下

 
城見橋公園駐車場まで車で行き、ここからシャトルバスで臥牛山8合目(ふいご峠)まで行きます、ここから徒歩で700m約20分で天守に行けます。

バス
 
登城板


お城の入り口大手門 この場所は足軽屋敷跡
足軽屋敷跡

足軽屋敷の横に大手門があります
大手門石碑

土塀
土塀2

土塀石段を登り切って振り返って写しました
土塀

 
どんどんと石段を登って行きます
石段1


四平櫓跡

御膳棚(食事を作る場所)
御膳櫓

 
登り切ると二の丸に着きます
石段2


やっと二の櫓に到着、天守閣が青空に映えてそびえています
二の櫓

 
与謝野夫婦もこのお城を訪ねて詩を読んでいます
句碑
松山の渓を梅むるあさ霧に
わが立つ城の 四方しろくなる
与謝野 寛(鉄幹)
 
本丸(430mの山頂にこれだけ立派な天守が造られています)
天守全景

 
天守閣石落し
石落し
石落板
 
天守閣の北側に二重櫓があります
二重櫓通り

 
二重櫓
二重櫓

 
備中松山城の歴史
鎌倉時代に、地頭:秋葉重信がこのあたりに砦を築いたのが起源で、江戸時代に入って、家康は、毛利領の一番東になるここに国奉行として小堀正次、政一(小堀遠州)父子を置きました。1683(天和3)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され現在の天守の姿になりました。1693(元禄6)年、水谷氏に跡継ぎが無かったため、お家断絶となり、播州赤穂藩城代家老:大石内蔵助が約1年間、このお城に留まっています。明治に入り、廃藩置県で多くのお城が潰されましたが、たぶん潰すにもあまりにも難工事のためそのまま放置され、幸いに当時の姿を残して伝わってきました。

 
備中松山城の地図は こちら


 
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2016.04.22 Friday 02:31 | comments(7) | - | 

倉敷騒動〜倉敷市

[ 岡山 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ


奇兵隊と言えば、山口県とばかり思っていましたが、岡山県にもその史跡がありました。


慶応2年(1866)4月10日、長州第二奇兵隊幹部の立石孫一郎に率いられて脱走した約100人の隊士が、倉敷代官所を襲撃し焼払うという事件が起こりました。

倉敷代官所跡



倉敷は、関が原の合戦の後、幕府の天領となり代官所が置かれていました。

現在その代官所跡は「アイビー・スクエア」となっています。



近くには、その当時の史跡が残されています。

代官所内濠遺構



代官所井戸

代官所襲撃の目的は代官の誅殺であったのですが、当人は広島に出張中で不在のため、代官所にいた役人ら9名が死亡しました。




倉敷美観地区の近くの「鶴形山」中腹に「観龍寺」があります。



第二奇兵隊は、ここを陣屋としました。



左側の小門の鴨居に、槍で突いた傷跡があります。






観龍寺境内



境内から、倉敷の美しい町並みが見渡せます。


第二奇兵隊は、倉敷代官所を襲撃した後さらに浅尾藩陣屋を襲撃しましたが、その後高梁川河口で幕府軍の銃撃を受けて潰走。

長州藩領に逃げ帰りましたが、藩政府により立石以下脱走兵の多くは処刑されました。

  

    by めりい







 
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2015.10.11 Sunday 00:00 | comments(2) | - | 

中国大返し

[ 岡山 ]
7月27日の官兵衛ドラマは、「中国大返し」でした。

1582(天正10)年6月3日、光秀の放った毛利方への密使を捕らえ、「信長死す」の報を知った官兵衛の頭脳はコンピューターのごとく動き出した。毛利との和睦を急ぎ、「高松城主:清水宗治の首を差し出すだけで、毛利領はそのまま、城兵の命は助ける」と条件をだした。そして6月4日、宗治 湖上で切腹する。
ここからが、秀吉が天下を取るために、官兵衛が仕掛けた大博打です。
主君:信長の弔い合戦を大儀にかかげ、
合戦地の山崎まで200Kを5日間で駆け抜けた 
「秀吉の中国大返し」
のはじまりです。官兵衛軍は殿(しんがり)を務めました。 
ジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギングジョギング

中国大返し図


6日、毛利軍が引くのを確認した秀吉は、25,000の兵の撤退を開始する。


7日、姫路城に到着、全ての金銀は武将に、米は足軽に与える。
官兵衛の父:職隆も官兵衛からの連絡を受け、大返しの準備を整える。
姫路城


9日、明石城に到着 
当時の明石の城は、枝吉城で、官兵衛の母:岩の出身城です。


現在の↓明石城(JR明石駅北側)は、江戸時代に建立されたものです。
明石城



11日、尼崎城着、池田恒興、中川清秀、高山右近軍が合流する

尼崎城

12日、富田着、織田信孝(信長三男)参陣で光秀討伐の大儀を得る

13日、秀吉軍36,000対光秀軍16,000が山崎(天王山)で対決する 
 

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2014.07.29 Tuesday 02:06 | comments(6) | - | 

秀吉も参拝した吉備津神社(岡山県)

[ 岡山 ]
7月6日の「高松城水攻め」の中で、

信長 「日の本に二つの国王はいらぬ」

この言葉を聞いた光秀の心が大きく動きました。

光秀 「ときは今 天が下知る 五月哉」
   (ときはいま あめがしたしる さつきかな)
   (今こそ土岐(明智)が天下を取る時だ)

光秀 「敵は本能寺にあり」


紀行で紹介された、吉備津神社。高松城攻略のために、秀吉、官兵衛も参拝しただろうと思われます。寺の古文書によれば、城攻めの時の天候は、雨であったと記されています。

吉備津神社(きびつじんじゃ)
吉備津神社

板

階段

本殿
本殿

全景

回廊
回廊



神社には、桃太郎伝説が伝わっています。


矢置岩
鬼退治をするために、大吉備津彦命(桃太郎)が矢を置いた岩。
矢岩

矢岩板


桃太郎伝説通り鬼が住んでいた城があります。

鬼ノ城(きのじょう)
鬼ノ城は、岡山市総社市の鬼城山(きのじょうざん 標高397m)にある山城です。しかし、どの歴史書にも一切記されておらず、その真相は未だに解明されていません。鬼城山にあるため、吉備津神社の桃太郎伝説の鬼の城として伝わっています。
砦

砦

鬼ノ城全景図
鬼が城図

鬼ノ城から吉備津神社方面の景色
合成

矢喰神社(やぐい)
吉備津彦命(きびつひこのみこと 桃太郎)が放った矢と鬼神温羅(きしんうら 鬼)が投げた岩が空中でぶつかり、落ちところと言われています。境内に5個の岩があります。
神社

大食い岩
岩


吉備津神社 鬼ノ城の地図はこちらから
(左上鬼ノ城 中央高松城 右下吉備津神社)
 

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2014.07.11 Friday 02:15 | comments(7) | - | 

官兵衛の先祖が住んでいた岡山市福岡

[ 岡山 ]

黒田家が姫路で定着して、姫路城の城主になる前は、管兵衛の曽祖父(そうそふ)高政が、岡山県福岡で活躍していました。曽祖父と祖父の墓が岡山県福岡の妙興寺(みょうこうじ)にあります。
妙興寺は、1403年の創建で広大な土地を持ち、このあたりの中心のお寺でした。その福岡は、妙興寺の門前町・街道の宿場町として山陽道一番の繁栄をしました。

戦国時代の初め(1470・文明)ころ、近江国から流れてきた黒田高政がここ岡山県福岡に居住して一財を築き、その子・重隆は浦上氏(室津城)、次いで小寺氏(御着城主)に仕えて、後に播磨国姫路城主となります。そして姫路で官兵衛が生まれました。

後に、九州に城を構えた官兵衛は、その地名を「福岡」としたのは、先祖が住んでいたここの福岡を偲んでつけた名前です。

黒田家家系
高政→重隆→職隆→管兵衛孝高→長政 


妙興寺
門
 

門碑


建物
 

黒田官兵衛の祖父、曽祖父の墓
墓


黒田氏と備前福岡
板

板2


妙興寺境内
建物2 木



宇喜多興家(おきいえ)公の墓
(室町時代には、この辺りは、巨大な力を持った赤松氏の所領でした)

宇喜多墓

宇喜多板
 


門前町、宿場町として栄えたこの土地も今は、その面影はありません。妙興寺前の道路です。
道路


福岡の市(鎌倉時代に定期的に開かれていた市です)
市

市板



妙興寺地図は こちらから
岡山県瀬戸内市長船町福岡684
 

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2014.06.30 Monday 12:17 | comments(13) | - | 

山中鹿介の墓〜高梁市

[ 岡山 ]
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」




岡山県高梁市落合町に山中鹿介の墓があります。





山中鹿介は、出雲地方を中心に一時は中国地方まで支配した尼子氏の家臣で、尼子十勇士のひとりに数えられています。

しかし尼子氏は毛利元就に滅ぼされたため、鹿介は織田信長の傘下に入り、秀吉が攻め取った上月城を守っていました。

翌年の天正6年、この城を奪還しようとする毛利・宇喜多連合軍が5万という大軍で上月城を包囲しました。
これには秀吉も援軍が出せず、孤立無援となった上月城で尼子勝久は切腹し、落城しました。

山中鹿介は吉川元春・小早川隆景に復讐することを胸に秘め、わざと生け捕りにされますが、備中松山城へ護送される途中、甲部川(現:高梁川)の阿井の渡場で不意打ちにあい惨殺されました。





落合橋からみる高梁川




衰亡した主家・尼子氏を再興させるために戦い続けた「山中鹿介」は悲劇の英雄として今も語り継がれています。



「山中鹿介の墓」は高梁川に架かる「落合橋」を渡った所にありますが、駅から歩くには遠いので、私は高梁駅の観光案内所でレンタサイクルを借りて行きました。
片道15分くらいでした。
駅前あたりは歩道があって走りやすい道でしたが、落合橋を越えた国道313号線には歩道がなく、山側にある歩道を走った方が安全です。
歩道の終了地点の信号を渡ると、山中鹿介の墓があります。




なおこの先の落合町「観泉寺」に山中鹿介の胴塚があるのですが、そこまで行くにはちょっと時間が足りない上、その道は上り坂と聞いたので、恐れをなして引き返しました(^_^;)




ところで、山中鹿介の長男「山中幸元」は武士を捨て、現在の伊丹市で酒造業を始めて財をなし、のち鴻池財閥の始祖となりました。
これについては伊丹市を訪問した記事を「めりいblog」に少し書いているので読んで下さいね。

伊丹市の記事⇒http://oumiji.jugem.jp/?day=20131103











 
2014.05.03 Saturday 00:00 | comments(8) | - | 

源平藤戸合戦

[ 岡山 ]
倉敷の藤戸合戦の舞台を訪ねました。

昔、倉敷市藤戸周辺は小さな島が点在する海でした。

寿永2年(1183年)10月には、玉島で水島合戦、寿永3年(1184年)12月には藤戸合戦がありました。
藤戸合戦(児島合戦ともいう)は、備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸町)で源氏の源範頼軍と、平家の平行盛(平清盛の次男である平基盛の長男)軍の間で行われ、源氏の勝利に終わりました。

藤戸寺

IMG_8247 B

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奈良時代に行基菩薩が開基。平家滅亡後、源平藤戸合戦の功によりこの地域を拝領した佐々木盛綱が、両軍戦没者、自分が殺した漁夫の霊を弔うための供養に、大法会を催し、建物の修復をしました。
謡曲「藤戸」の寺としても知られています。 

謡曲藤戸と藤戸寺

佐々木盛綱は、藤戸の渡しの先陣の功を立てた恩賞で備前国児島を賜り入国した時に訴訟あるものは申し立てよと触れると、一人の老女が、盛綱に亡き者にされたわが子を返してくれと歎き訴える。
盛綱は藤戸の戦いに、この老婆の子の漁夫に海の浅瀬を教えられて、先陣の功を立てたのであるが、この事が他に漏れるのを恐れて、かの若者を亡き者にしたのである。
盛綱は今、その母の歎きを見て、さすが哀れに思い、慰さめ、又その亡き子の為に仏事を行うと、やがてその漁師の亡霊が現れて、自分が亡き者にされた時の様を語り、供養を受けたお蔭で恨みもはれ、成仏することが出来たと喜んで消え失せるという筋である。
藤戸寺は源氏の武将佐々木盛綱が源平両軍の戦没者の霊を慰め敵陣一番乗りの手引きをしてくれた若者の霊を杷るために大法要を営んだ寺である。
                      謡曲史跡保存会(案内板より)


藤戸寺近くに、源平藤戸合戦八百年記念碑があります。

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源平藤戸合戦略記

寿永3年(1184)旧暦12月(東鑑ーあずまかがみ) 源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙したが源氏には水軍が無かったので渡海出来ず平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対してもただ切歯扼腕悔しがるだけであった。
時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、夜半、男を伴って厳寒の海に入って瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流した。翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、目印の笹をたよりにまっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りを上げるや敵陣目指して突入し、源氏大勝の端を開いた。盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜った。海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世を驚嘆させ永く後世に名声を伝えられる事となった。
(案内板より)

藤戸寺から「もりつな橋」へ

この赤い橋の途中に馬に跨った佐々木盛綱像があります。

IMG_8257 B

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IMG_8261 B

佐々木盛綱

近江国(滋賀県)佐々木庄を地盤とする佐々木秀義と源為義の娘の子。
平治の乱(1159)後、関東へ落ち延び、父や兄弟と共に相模国の渋谷重国の許に身を寄せました。
仁安1(1166)年より源頼朝に仕え、治承4(1180)年の挙兵にも参加。
藤戸合戦などで活躍し、頼朝の死後は出家して西念と名乗りました。
しかし、源頼家に所領を没収され、上野国磯部に隠居しましたが、建仁1(1201)年の越後の城氏の反乱の鎮圧や、元久2(1205)年の京都守護平賀朝雅誅殺などで活躍しました。

この近くに、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のロケ地に使われた藤戸饅頭本店があります。

IMG_8270 藤戸饅頭 B

平家物語によると、1184年(寿永三年)、佐々木盛綱が、藤戸村の村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の軍に勝利しましたが、口封じのため、村人を斬り殺したといいます。その村人の供養が村人たちにより、藤戸寺で行われ、近くの民家から饅頭が供えられ、この饅頭が藤戸饅頭の起源とされています。

また、この近くに経ヶ島があります。

IMG_8263 B

藤戸寺で大法要を催した盛綱は、もとは藤戸寺の境内であったこの小島に、お経を埋めて経塚を建てたことから経ヶ島と呼ばれるようになったといいます。
経ヶ島内には、源平藤戸合戦八百年忌の石碑、島の頂上には二基の宝篋印塔があり、小さい方が漁夫の供養塔といわれています。

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IMG_8267 B

IMG_8264 B

経ヶ島

経ヶ島 秋の下闇 深かりし 高濱年尾
寿永3年(西暦1184年)冬12月、源平両軍はこの藤戸海峡をはさみ布陣した。
源氏の将佐々木盛綱は漁夫に浅瀬を教えられ、馬を躍らせて一番に海を渡り、味方を勝利に導いた。この時盛綱は浅瀬の秘密をまもるためこの漁夫を亡きものにしたという。
次の年、児島郡の領主となった盛綱は、哀れな漁夫の追福のため、大供養を藤戸寺で行い写経をこの島に埋めたので経ヶ島と呼ばれるようになった。
頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔があるが、小さい方が漁夫の供養塔と伝えられている。
麓の弁財天社は藤戸寺の鎮守で、寛永9年(西暦1632年)岡山藩家老池田氏が天城に陣屋を設けた際、祀られたものである。


by shizuka



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2012.12.22 Saturday 00:47 | comments(5) | - | 

秀吉の大ばくち 中国大返し

[ 岡山 ]
 ドラマ第5回「本能寺の変」は、いよいよ豊川:信長が光秀に討たれる場面です。豊川:信長がどんな死に方をするのか、そのとき江はどんな行動をとるのでしょうか。
ブログは、チョット先走って信長死のあと、天下人となった秀吉の大ばくち「中国大返し」です。

1582(天正10)年6月3日、光秀の放った毛利方への密使を捕らえ、「信長死す」の報を知った秀吉の頭脳はコンピューターのごとく動き出した。宗治との和睦を急ぎ、「宗治の首を差し出すだけで城兵の命は助ける」と条件をだした。そして6月4日、宗治 湖上で切腹する。
ここからが、秀吉が天下を取るために仕掛けた大博打である。
主君:信長の弔い合戦を大儀にかかげ、
合戦地の山崎まで200Kを5日間で駆け抜けた「秀吉の中国大返しです


6日、毛利軍が引くのを確認した秀吉は、
25,000の兵の撤退を開始する。

中国大返し


7日、姫路城に到着、全ての金銀は武将に、
米は足軽に与える。
 姫路城 













9日、明石城に到着
 
明石城
 

11日、尼崎城着、池田恒興、中川清秀、
高山右近軍が合流する

尼崎城
















12日、富田着、織田信孝(信長三男)参陣で
光秀討伐の大儀を得る

13日、秀吉軍36,000対光秀軍16,000が
山崎(天王山)で対決する 


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2011.02.04 Friday 04:11 | comments(5) | - | 
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