大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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高野山奥の院

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

「高野山奥の院」参道には、皇室関係をはじめ各宗の開祖、戦国武将などのあらゆる供養塔が2kmにもわたって並んでいます。

 

その中から「真田丸」ゆかりの登場人物をピックアップしてみました。

 

まず、一の橋を越えてしばらく進むと「小田原北条家」の供養塔が見えてきます。

「北条氏政」とその嫡男「氏直」の供養塔もこの中にあるのでしょう。

ドラマの中の「氏政」、独特の存在感がありましたね〜

 

さらに進むと「武田信玄・勝頼」の供養塔

真田昌幸にとって、武田信玄は偉大で、絶対的なものだったのでしょう。

ドラマには直接登場しなくても、その存在の大きさが表れていました。

また、その子勝頼にとっても信玄は偉大すぎる父親。

父亡き後、勝頼はその重責を果たせず、武田氏は衰退して勝頼は非業の最期を遂げました。

 

その斜め向かいに「上杉謙信・景勝」の廟墓

上杉謙信の跡を継いだ景勝。

真田と敵対したり手を結んだり・・難しい戦国の世を生き抜きました。

 

さらに進むと「石田三成」供養塔

心から豊臣家を思い、関ケ原で戦いました。

 

そして「本多忠勝」供養塔

家康の家臣で猛将のイメージがありますが、ドラマの中では「稲」の父として優しい面も描かれていました。

 

 

中の橋を越えて少し歩くと「信州真田伯爵家」供養塔があります。

真田信之の子孫は代々松代藩主となり、明治を迎えると伯爵家となりました。

 

 

少し歩くと「千姫」供養塔があります。

徳川家康の孫である千姫は、政略結婚で豊臣秀頼の元へ嫁ぎます。

これから舞台が大阪に移り、千姫も登場することでしょう。

 

そして、さらに進むと「豊臣家墓所」

 

階段を上がって正面に見える五輪塔が「豊臣秀吉」の供養塔。

 

左右に小さな五輪塔が並んでいます。

 

秀吉の母・弟夫婦など豊臣家一族の供養塔が並び、また淀殿と推定されるものもあるようです。

 

御廟橋近くまで来ると「織田信長供養塔」

意外と質素ですね。

 

 

この他にも「明智光秀」や「伊達政宗」などの供養塔もありました。

まさに高野山奥の院は、名だたる戦国武将が一堂に会する場所なのです。

 

 

         by   めりい

 

 

 

 

 


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| 和歌山 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
真田流罪の地九度山 くどやま大河展

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

くどやま「真田丸」大河ドラマ展
が開催されています。

平成28年3月13日(日)〜29年2月28日(火)
入場料:大人500円  小人250円

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真田十勇士
九度山に蟄居中の幸村のために集まった右腕たち。江戸時代から史実を参考に生まれた勇士です。
「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」

猿飛佐助(甲賀流忍者)
霧隠才蔵(伊賀流忍者)
海野六郎((幸村の右腕的存在)
穴山小助(武田家出身の家臣)
筧十蔵 (射撃の名手)
三好青海入道(僧侶 鉄棒の使い手)
三好伊三入道(元は山賊 青海入道の弟)
望月六郎(火薬武器の使い手)
由利鎌之助(元山賊 鎖鎌の使い手)
根津甚八(元九鬼水軍の頭領)

Photo
 

 

ちょうど映画もやっています。

 

 

そば処 幸村庵(真田庵東隣)
幸村が育った信州上田の「信州そば}をこの地に復活させました。

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道の駅「柿の郷くどやま}
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世界遺産情報センター(道の駅建物内)では、九度山・高野山の観光情報を発信しています。
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道の駅「柿の郷くどやま」地図は こちら
和歌山県伊都郡九度山町入郷5−5

 

 

| 和歌山 | 01:58 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
真田流罪の地九度山 昌幸死す
JUGEMテーマ:大河ドラマ
1600年(慶長5)年に起こった天下分け目の戦い:関ヶ原合戦で、西軍(石田三成方)に組した真田昌幸、信繁親子は、西軍の敗戦により死罪が処せられるところ、東軍(徳川家康方)についた兄:信之の助命嘆願で死罪は免れ、同年10月、父:昌幸と和歌山高野山蓮華定院へ流罪となりました。

同年冬、妻子との生活を許された真田親子は、高野山北側の麓の九度山に移り、そこで生活しました。その跡地に建つっているのが善名称院真田庵です。1611年(慶長11)、配流から11年、再起の夢かなわず、昌幸は病没しました。享年65歳。

 

 

 

昌幸公墓・400年忌碑(真田庵)

 

 

Photo

 


 

真田庵

 

 

 

 

 


 

 

 
以下は、真田庵宝物館に展示してある資料からです。

 

昌幸公

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信繁公
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真田家家系図
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幸村公大阪夏の陣使用槍先
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蕪村句碑
炬燵して 語れ真田が 冬の陣
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別に一句
かくれ住んで 花に真田が 謡うかな


 

 


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真田の抜け穴
真田庵から東へ170mほどのところにあります。
大阪城に続いているとの伝説が残っています。

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実際は、4世紀ころの古墳で、真田古墳と言われています。
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1614(慶長19)年、豊臣秀頼公から徳川家康との戦いに「力を貸していただきたい」との依頼を受け、

「秀吉公の恩義に報いるためにも、喜んで協力いたそう。」

幸村は、息子:大助と共に14年間暮らした九度山を後にして、大阪城に入りました。

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真田庵の地図は こちら
和歌山県伊都郡九度山町九度山1413


 

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| 和歌山 | 02:53 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
真田流罪の地高野山 蓮華寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

1600(慶長5)年に起こった関ケ原の一戦で敗れた西軍、三成方に加担した真田昌幸と信繁は、東軍(徳川家康方)についた兄:信之の助命嘆願で死罪は免れましたが、家康より死罪より重い刑を与えると言われました。
真田の持っているもの全てを奪い取り、生きる気力も無くさせ、ただ生きてることだけで高野山の麓で暮らせ
と命じられました。同年10月、父:昌幸と和歌山高野山蓮華定院へ流罪となりました。昌幸53歳、幸村33歳の時でした。

9月25日第38回「昌幸」では、1600年冬、妻子との生活を許された真田親子は、高野山北側の麓の九度山に移り、そこで生活しました。その跡地に建っているのが善名称院真田庵です。

1611年(慶長11)、配流から11年、再起の夢かなわず、昌幸は病没しました。

享年65歳。

 

今回の紀行で紹介された「蓮華定院」を記事にしました。

 

蓮華定院
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当時の院は、江戸時代に消失しましたが、当時のままの姿で再建されました。院内には、上段の間があって、この部屋を真田親子が使ったようです。遺品が展示され公開されています。

 

上段の間
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残されている書状 

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信繁から兄:信之家臣への手紙
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この壺に焼酎を入れてください。今切らしているのならついでの時にでもお願いします。難しいかもしれませんが、壺の口に詰め物をして外れないようにひもでくくってください。知らせがありしだい取りに行きます。
つまらないものですが、ゆかたを一領差し上げます。
焼酎の件、くれぐれも頼みます

信繁(好白)

左京殿(兄信之の家臣か)

 

兄信之から蓮花定院への書状
(蓮華を蓮花と書いています)

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お寺の裏には、真田家の墓があります
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右 信之公(信繁の兄)
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左 信政公(信之の息子)
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蓮華定院の精進料理
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昌幸は、馬のひずめの聞こえるなか、「御屋形様(武田信玄)」と叫びながら息絶えました。

武田信玄 勝頼公の墓(高野山)




こうやくん
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その後の真田家

真田家は、幸村の子は居ましたが、真田家を継いだのは、関ヶ原合戦で徳川方についた兄:信之で、途中で養子が入り信之の系統は断絶しましたが家名は引き継がれ、江戸時代を通じて存続し、幕末に幸貫老中となり、明治になってからは新政府側に属して、会津戦争に従軍しています。後に子爵(後に伯爵)家となりました。

 

真田伯爵家の墓(高野山奥の院)

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蓮華定院の場所は 






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| 和歌山 | 00:49 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
九度山の真田庵

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

真田昌幸と信繁父子は、第二次上田合戦には勝利したものの関ケ原の西軍が敗北したため、その年(慶長5年)の12月、高野山へ配流となりました。

ひとまず蓮華定院に滞在しましたが、高野山は女人禁制であったため家族との同居ができず、のち、麓にある九度山へ移り住みました。

 

九度山の真田庵

 
 

昌幸・信繁親子が幽閉生活を送った屋敷跡に、江戸中期(1741)に本堂が建立され、善名称院真田庵と称されるようになりました。

 

境内にある「真田地主大権現」

真田昌幸・信繁・大助の三代の御霊を祀り、この寺の守護神としています。

 

昌幸の墓

九度山での幽閉生活11年目に、失意のまま病没しました。享年65歳。

 

真田宝物資料館

真田三代の肖像画。信繁直筆の手紙(複製)がありました。

興味深かったのは、不遇の幽閉生活の中で生活の糧にしたという「真田紐」。

帯締めのようなものかと思っていたら、それより平たくて太い紐でした。

 

南側の門

 

 

西側の門

 

門の右扉には、真田の「六文銭」が刻まれています。

 

左扉には「結び雁金の紋」が刻まれています。

 

 

雷封じの井戸

慶長年間、信繁が閑居中の真田屋敷に落ちた雷を取り押さえて井戸に封じ、里人の難を救ったと伝わります。

 

 

信繁を慕う人々の思いが、このような伝説を生んだのでしょうね。

 

 

 

     by   めりい

 

 

 

 

 


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| 和歌山 | 12:47 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高野山の毛利家の墓
JUGEMテーマ:大河ドラマ
1年間楽しんだ「花燃ゆ」も終わり、20日は、大河ドラマを見ない日曜日を過ごしました。
幕末から明治までの激動の時代を生き抜いた文〜美和を演じた井上真央さん、お疲れさまでした。

改革をしてゆく表の明治維新ではなく、裏から見た明治維新を楽しむことができました。


先日、来年の大河「真田丸」の主人公:真田幸村蟄居の地:高野山を訪ねたときに見つけた毛利家の墓を紹介します。

長州 毛利家の墓





周防・岩国 吉川家の墓





毛利氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、越後国(新潟県柏崎市)から安芸国(広島県安芸高田市)へ移って、国人領主として成長し、戦国時代には、中国地方最大の戦国大名となる。しかし、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで西軍の大将となったことで、敗戦後周防国・長門国の2か国に減封され36万9千石の長州藩主(萩藩)になる。江戸時代を通じて安泰であった。江戸末期には、長州藩から多くの志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となりました。
国人領主とは、
在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉
(参考資料:Wikipedia)

奥ノ院入口



中の橋


弘法太子腰掛の石


司馬遼太郎記念碑





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| 和歌山 | 12:27 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高野山金剛峯寺


文禄4年(1595)7月8日、豊臣秀次は秀吉の命で関白の官職を剥奪され、高野山に追放されました。

そして一週間後の15日に切腹の命を受け、高野山の青巌寺で切腹しました。享年28歳。


高野山 大門






青巌寺は文禄2年(1593)豊臣秀吉によって、亡母の菩提のために建立された寺です。

文久3年(1863)に再建され、明治2年に青巌寺から金剛峯寺と改称されました。


金剛峯寺







襖に柳鷲図が描かれている「柳の間」と呼ばれる部屋があります。

秀次は、その部屋で切腹しました。(残念ながら部屋の写真撮影禁止)






高野山に籠って出家した秀次に、さらに追い打ちを掛けるように切腹を命じた秀吉。

世継ぎに恵まれない秀吉が、晩年になった授かった我が子可愛さのあまりに起こった事件でした。




 







 
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| 和歌山 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高野山2

 

 

平家物語の巻の三「大塔建立」に次のような話があります。

 

高野山大塔の修築が完了してのち、清盛が高野へ上がり、大塔を拝み、奥の院に参詣すると、どこから来たともなく白髪の老僧が現れた。<中略>この老僧が立っていた跡には、ふしぎな芳香が漂った。人にあとをつけさせたが、三町ばかり行くとかき消すように見えなくなった。これはただのお方ではない。弘法大師に相違ない、と清盛はますます尊く思い、この世の思い出にと高野の金堂に曼荼羅を描いた。西の曼荼羅は常明法印という絵師に描かせた。東の曼荼羅は、自分で描こうと言いだし、自筆をふるったが、八弁の蓮華座に座します大日如来の宝冠を、なんと思ったかおのれの頭の血を出して描いたということである。

 

清盛が弘法大師と出会ったという高野山奥の院


 

奥の院の一番奥に弘法大師御廟があります。写真はNGです。

 

 

清盛が頭の血を出して描いたといわれる「血曼荼羅」は今も高野山に伝わっています。

 

私が高野山霊宝館に行った時、確かこの「血曼荼羅」を見たような・・記憶があります。

たいへん大きい曼荼羅であったという印象だけ残っています。

 

実はその時、俳優の高橋英樹さんが霊宝館に来られていました。

私は、熱心に曼荼羅を見ている高橋英樹さんを熱心に見ていたので()、肝心の曼荼羅がどのようなものであったか、全く覚えてないのです・・反省・・

 

今年2012714日から923日まで、この血曼荼羅が高野山霊宝館で公開されるそうです。

興味のある方はぜひお出かけ下さい。


                                   by merry


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| 和歌山 | 13:17 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高野山1
  

久安5年(1149)5月、雷で炎上した高野山の大塔と金堂を再建するため、鳥羽院の命をうけた平忠盛の名代として、清盛が建立奉行を務めました。

 

根本大塔

真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので、根本大塔と呼ばれています。816年から887年頃に完成したと伝わり、多宝塔様式としては日本最初のものと云われています。

現在の大塔は昭和12年に再建されたものです。

 

 

金堂

高野山開創当時は講堂を呼ばれていましたが、平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。

現在の建物は7度目の再建で、昭和7年に完成しました。


 

また清盛の再建とは違うのですが、近くには白河院ゆかりの宝塔があったので紹介します。

東塔




白河法皇の御願により大治2(1127)に落慶した。中尊は尊勝仏頂で脇仏には不動と隆三世両明汪である。江戸時代の再建の塔が天保14(1843)に焼失。140年を経て昭和58年に現在の塔が再建された。

 

保元一年(1156)4月、ついに清盛はそれらの宝塔は完成させました。

再建が終わったあと、清盛は高野山奥の院で弘法大師に出会ったという伝説があります。

 

次回はそのお話です。

                  by merry


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| 和歌山 | 19:20 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
平家と熊野詣
 

 

平家にとっても熊野の地はゆかりの深い所です。

 

保延3年(1137)平忠盛は熊野本宮を造営し、その功により、清盛が肥後守に任じられました。

清盛20歳の時でした。

 

当時の熊野本宮は、熊野川と支流の音無川・岩田川の合流地の中洲にある大斎原(おおゆのはら)にありました。

熊野の神が降りたとされるその地には、現在は日本最大の大鳥居が建っています。


 

肥後守になってから9年後の久安2(1146)、清盛はさらに安芸守に栄進しました。

 

そのころの逸話が平家物語の巻の一「鱸」の中にあります。

 

昔、清盛がまだ安芸守であった時、伊勢の国安濃の津より船で熊野へ参詣のみちすがら、おおきな鱸が船中におどりこんだ。これを見て導者の山伏が「昔、周の武王の船にも、やはり白魚がおどり入った。いかさまこの瑞祥は、熊野権現のあらたかな御神示、謹んで召し上がれ」と申したので、それまできびしく十戒を守り、精進潔斎をして参詣するみちすがらであったが、みずから料理しておのれも食い、家の子郎党たちにも食わしたのである。そのためか、その後は吉事ばかりがつづき、自身は太政大臣にのし上がり、また子孫たちの官途昇進の次第も、竜の雲に昇るよりさらに早かった。高望王以来、先祖九代の先例を凌駕すること、稀代のためしといってよい。

 

 

 清盛が時子という良き伴侶を得たのが、ちょうどこの頃でした。

また安芸守に任じられたことにより、瀬戸内海の交易で莫大な利益を得て、ますます平家は栄えていきました。

熊野権現のご利益は大きかったようですね。

                 by merry


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| 和歌山 | 14:11 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP