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1600(慶長5)年に起こった関ケ原の一戦で敗れた西軍、三成方に加担した真田昌幸と信繁は、東軍(徳川家康方)についた兄:信之の助命嘆願で死罪は免れましたが、家康より死罪より重い刑を与えると言われました。
「真田の持っているもの全てを奪い取り、生きる気力も無くさせ、ただ生きてることだけで高野山の麓で暮らせ」
と命じられました。同年10月、父:昌幸と和歌山高野山蓮華定院へ流罪となりました。昌幸53歳、幸村33歳の時でした。
9月25日第38回「昌幸」では、1600年冬、妻子との生活を許された真田親子は、高野山北側の麓の九度山に移り、そこで生活しました。その跡地に建っているのが善名称院真田庵です。
1611年(慶長11)、配流から11年、再起の夢かなわず、昌幸は病没しました。
享年65歳。
今回の紀行で紹介された「蓮華定院」を記事にしました。
蓮華定院
当時の院は、江戸時代に消失しましたが、当時のままの姿で再建されました。院内には、上段の間があって、この部屋を真田親子が使ったようです。遺品が展示され公開されています。
上段の間
残されている書状
信繁から兄:信之家臣への手紙
この壺に焼酎を入れてください。今切らしているのならついでの時にでもお願いします。難しいかもしれませんが、壺の口に詰め物をして外れないようにひもでくくってください。知らせがありしだい取りに行きます。
つまらないものですが、ゆかたを一領差し上げます。
焼酎の件、くれぐれも頼みます
信繁(好白)
左京殿(兄信之の家臣か)
兄信之から蓮花定院への書状
(蓮華を蓮花と書いています)
お寺の裏には、真田家の墓があります
右 信之公(信繁の兄)
左 信政公(信之の息子)
蓮華定院の精進料理
昌幸は、馬のひずめの聞こえるなか、「御屋形様(武田信玄)」と叫びながら息絶えました。
武田信玄 勝頼公の墓(高野山)
こうやくん
その後の真田家
真田家は、幸村の子は居ましたが、真田家を継いだのは、関ヶ原合戦で徳川方についた兄:信之で、途中で養子が入り信之の系統は断絶しましたが家名は引き継がれ、江戸時代を通じて存続し、幕末に幸貫が老中となり、明治になってからは新政府側に属して、会津戦争に従軍しています。後に子爵(後に伯爵)家となりました。
真田伯爵家の墓(高野山奥の院)
蓮華定院の場所は
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