大河ドラマ「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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南洲墓地の別府晋介の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

世はクリスマスイブ🎄というのに、お墓の記事ですみません(;´∀`)

南洲墓地別府晋介の墓を紹介します。

史実では、西郷どんの介錯を務めましたが、残念ながら最終回にその場面はありませんでした(;゚ロ゚)

晋介どん、どこに行ってしまわれたのですか〜〜(^_^;

ここで書かなければ、あまりにも気の毒なので(;・∀・)

IMG_8750 別府晋介

IMG_8749 別府晋介

Shinsuke_Beppu.jpg

別府晋介は、弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として誕生。諱は景長、通称は晋介。長兄は別府九郎。従兄の桐野利秋(中村半次郎)とは実の兄弟以上に仲が良かったといいます。

戊辰戦争では、薩摩軍分隊長として東北地方に転戦。

明治2年(1869年)には、鹿児島常備隊の小隊長、明治4年(1871年)西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられました。

明治5年(1872年)西郷が朝鮮偵察を命じた際には、北村重頼・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、朝鮮内地を偵察した。

明治6年の征韓論政変で、西郷に従い帰鹿。
加治木郷ほか4郷の区長,また私学校の運営に参画。

明治10年、西南戦争に各郷連合大隊長となり、先発して熊本城の攻囲戦に奮闘。兵力増強のため一旦帰鹿。その後各地に転戦し、8月西郷らと可愛岳を突出し、鹿児島に帰ります。

9月24日、城山陥落の日、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決しました。享年31。


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| 鹿児島 | 08:17 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
南洲神社〜西郷南洲記念館

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

南洲神社(なんしゅうじんじゃ)は、鹿児島市上竜尾町に鎮座する神社で、西郷隆盛及び、西南戦争における戦没者(桐野利秋,篠原国幹,村田新八,永山盛弘,辺見十郎太,池上貞固,別府晋介,大山綱良,島津啓次郎,中津隊など)を祀っています。

IMG_8795 南州墓地

明治10年(1877年)9月24日、官軍の総攻撃によって西郷隆盛以下薩軍が全滅し西南戦争が終結すると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内5か所に仮埋葬した。明治12年(1879年)、有志によってそれらの墓を現在地にまとめて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨も集めて計2023名が葬られる「南洲墓地」となった。
西郷隆盛の偉徳を敬崇してその墓に参る者が年々増加したことから、明治13年(1880年)、南洲墓地の隣に参拝所が設けられた。大正11年(1922年)6月28日、「南洲神社」として無格社に認定された。昭和20年(1945年)に戦災で焼失し、昭和25年(1950年)9月に再建された。昭和53年(1978年)、墓地の隣に西郷南洲顕彰館が建設された。
(Wikipediaより)

勝海舟歌碑
IMG_8791 勝海舟歌碑

IMG_8790 勝海舟歌碑

明治6(1873)年、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島にもどり、青年の教育のため私学校を設立しました。ところが、明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。ついには西南戦争を引き起こしたのです。この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。隣に立つ常夜燈は、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石でできています。

常夜燈
IMG_8789 常夜燈

IMG_8788 常夜燈

岩村県令記念碑
IMG_8787 岩村県令記念碑

西郷隆盛の墓
IMG_8751 西郷隆盛の墓

IMG_8752 西郷隆盛の墓

西郷南洲顕彰館は、鹿児島市上竜尾町にある資料館で、昭和53年(1978年)に西郷を慕う全国の方々からの寄付により昭和53年に建設された施設です。

IMG_8741 西郷南洲顕彰館

南洲公園内の南洲神社の隣りに位置し、西郷隆盛を中心に大久保利通や明治維新について展示しています。

IMG_8742 西郷南洲顕彰館

西郷の生涯・思想・業績などを紹介したジオラマやビデオをはじめ、西郷の衣服や西南戦争に関する資料なども見ることができます。

平成13年には、100名収容できる別館展示学習室が建設され、「西郷隆盛」「西郷と大久保」等のビデオ視聴や西郷隆盛や西南戦争に関する図書2000冊の閲覧ができます。

IMG_8796 西郷南洲記念館
 


 


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西郷隆盛終焉の地

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

西郷隆盛洞窟から徒歩約10分、カゴシマシティビュー「薩摩義士碑前」バス停から徒歩5分ほどの鹿児島市城山町に、

西郷隆盛終焉の地があります。

IMG_9087 西郷隆盛終焉の地

IMG_9098 西郷隆盛終焉の地

明治10(1877)年9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始。
薩軍は、城山を駆け下り、最後の抵抗をします。

しかし、西郷隆盛は洞窟を出て300mほどくだったところで、腰と太ももに銃弾を受けました。

別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と介錯を頼み、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼。

別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫び、西郷の首を刎ねました。
享年51(満49歳没)。

西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められました。残った兵士は、西郷の死を見届けると、岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死しました。

IMG_9086 西郷隆盛終焉の地

ここに『南洲翁終焉之地』と書かれた石碑があります。

IMG_9084 西郷隆盛終焉の地

南洲祠堂常設委員長であった山本徳次郎氏は、この記念碑及び敷地を公園付属地として鹿児島市に寄付しました。
記念碑の碑文には、
「丁丑之役交戦数か月、薩軍日州長井村の重囲を破り、連戦数回鹿児島に帰り城山に拠る。時に9月1日、官軍従ってこれを囲む。これよりのち、激戦虚日なし。同24日の未明、官軍衆を悉くして迫る。翁すでに決するところあり。諸士を卒いて城山を下る。弾丸雨下半ば途に殪る。翁ついに岩崎谷口の砲塁を擁して自刃す。年51歳。桐野利秋、村田新八、桂久武、池上貞固、別府景長、辺見十郎太、その他悉くこれに倣う。今この碑の立つ所、これ、その終焉の地なり。いずくんぞこの旧跡をして煙滅せしむるに忍びんや。ここにおいて、有志相謀り石碑を建てもって永く記念となす。明治32年9月、これを建てる。」とあり、西郷隆盛終焉の概要を知ることができます。


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| 鹿児島 | 07:54 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷洞窟

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

カゴシマシティビューで「 西郷洞窟前」で下車。

IMG_8463 西郷隆盛洞窟

IMG_8457 西郷隆盛洞窟

明治10(1877)年2月、鹿児島城下を出発した薩軍は、九州各地で転戦したのち、8月に解散。

その後西郷隆盛率いる一行は九州の宮崎・鹿児島の山岳部を踏破し、9月1日、鹿児島に入り、城山を占拠。

西郷は、薩軍と政府軍との西南戦争の最終段階の城山攻防戦において、明治10年(1877)9月19日から24日未明にかけて、薩軍の指揮をとりながら、最後の5日間をこの洞窟で過ごしたいいます。

IMG_8461 西郷隆盛洞窟

IMG_8462 西郷隆盛洞窟

現在の洞窟の規模は、奥行きが4m、間口が3m、入口の高さは2.5m。

昭和49年(1974)、鹿児島市の記念物(史跡)に指定されました。

9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃。

西郷は、麓まで下る途中に被弾してしまうのでした。

IMG_8459 西郷隆盛洞窟

洞窟の横には、お土産屋さんがあるのですが、その前に大きな西郷どんの像が立てられており、奥の洞窟内には西南戦争始末記三十六景が展示されています。

IMG_8467 せごどん

IMG_8468 せごどん

IMG_8466 西郷隆盛座像

西南戦争時の様子が描かれています。

IMG_8473 展示場

ミニチュアの西郷どん(;・∀・)

IMG_8474 展示場

IMG_8471 展示場

展示場出口
IMG_8475 展示場


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| 鹿児島 | 08:06 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西南戦争最後の激戦地 城山

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カゴシマシティビュー「城山」下車。

城山は、西南戦争最後の激戦地であり、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在しています。
また、クスの大木やシダ・サンゴ樹など600種以上の温帯・亜熱帯性植物が自生し、大部分がシラスで構成され、 国の史跡および天然記念物に指定されています。

IMG_8489 城山

IMG_8488 城山

城山展望台へ。

IMG_8481 城山

城山展望台の標高は107m。

IMG_8480 城山

現在は城山公園として整備され、錦江湾や桜島、鹿児島市街地を一望できます。

IMG_8483 城山

天気の良い日には遠く霧島や指宿の開聞岳も見え、夜景が美しいことでも有名なのだそうです。

ドン広場
IMG_8478 城山ドン広場

明治30年以来、正午の時報として、空砲を撃っていた場所であることからそう呼ばれるようになったそうです。

IMG_8476 城山ドン広場

IMG_8477 城山ドン広場

またドン広場は、西南戦争の薩摩軍本陣となっていた場所で、本陣跡の石碑があるというのですが・・・

この石碑がなかなか見つけられなくて何度も行き来してしまいました。

 


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| 鹿児島 | 23:37 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
篤姫と西郷の仲は???

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篤姫と西郷どんの関係はどうだったのでしょうか

 

ドラマでは、西郷どんが薩摩藩邸に務めていた時、大地震が起こり、西郷が身を挺して篤姫を守った。その時篤姫が「私を連れて逃げて・・・・」と西郷に言いました。

 

その後、実家の薩摩藩軍に攻められた篤姫は、実家を憎みますが、新政府軍の強さを感じて、政府軍の最高責任者:西郷宛に「徳川家の救済、江戸での戦いを避けるよう」手紙で懇願しました。

 

彼女のこの行動で、まだ篤姫に熱い思いを抱いていた西郷が、勝海舟と直談判して江戸城無血開城につながったのでしょう。

 

篤姫は、藩主島津家の分家にあたる今和泉島津家で生まれ名は於一(おいち)とも呼ばれていました。



 
今和泉駅



 
篤姫海岸


篤姫の名は地元名産品のその名が残っています。
  


 
篤姫も桜島を見ていました

 



 

篤姫は夫:13代将軍:家定の亡き後、天璋院と名を変えて過ごしましたが、最後は脳溢血で亡くなりました。享年:48歳 

実家:薩摩藩に嫁ぎ先の徳川家を滅ぼされたとの思いがあってか一度も鹿児島に帰ることはありませんでした。
 

| 鹿児島 | 13:16 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
私学校跡〜鹿児島市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

遣韓使節問題決裂で辞表を出した西郷隆盛は、帰郷して一介の農夫として静かに暮らそうとしました。
ところが桐野利秋・篠原国幹などの将官をはじめ、薩摩出身の多数の将士が職を辞し、西郷の後を追って続々と鹿児島へ帰郷しました。
しかし帰郷したものの、この若者たちには目的も職もなく、毎日無為に過ごすしかない状態。
そこで1874年(明治7)6月、彼らを指導・教育するために「私学校」が設立されました。

 

 

鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校と村田新八が監督する砲隊学校。これを本校として県内各地に分校が設けられ、その費用は県令・大山綱良のはからいで県庁から支給されました。
銃隊学校・砲隊学校の他に、西郷らの賞典禄(戊辰戦争の賜金)を運営費とした賞典学校も設けられました。
オランダ人やイギリス人教師を招いて幅広い教育を施し、5人の生徒をヨーロッパに留学させています。
また庄内藩からは、西郷の人徳を慕って2名が入学しています。
この他、旧教導団の生徒を収容して、原野を開墾して農作物をつくる「吉野開墾社」も設立され、西郷隆盛も開墾に従事しました。

 

 

しかし私学校は軍事教育、精神修養の団体という傾向が強く、やがて年々強大化して反政府の気運を高まらせ、ついに過激派生徒が暴走。
政府火薬庫の襲撃によって西南戦争を引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史をとじました。
石垣には政府軍の凄まじい攻撃を物語る散弾の跡が残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 鹿児島 | 13:14 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
佐賀の乱に敗れた江藤新平が西郷を訪ねた鰻温泉

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

西郷隆盛は、指宿の鰻湖畔にたたずむ江戸時代から続く温泉地である鰻温泉をこよなく愛し、幕末から明治にかけて、幾度も湯治に訪れたといわれています。

IMG_9179 鰻温泉

IMG_9190 鰻温泉

明治7年、征韓論に敗れ,鹿児島に帰ってきた西郷が突然、犬13匹を連れて鰻湖畔に泊まりに来て、約一月滞在しました。

IMG_9243 西郷南洲翁逗留の家

IMG_9209 西郷滞在記

昼は開聞岳辺りへ猟に出かけたり、近所の子どもたちと遊んだりして、毎晩温泉に浸かり、福村市左衛門宅に逗留しました。
この時、佐賀の乱に敗れた江藤新平が西郷を訪ね、新政府打倒に向け協力を依頼しましたが、西郷はこれを断りました。

一ヶ月の滞在後、西郷は、滞在した福村家に御礼として犬を1匹差し上げようと申し出たところ、宿主が犬は怖いからと断られ、代わりに西郷が着ていたフランネルのシャツを残していきました。

そのシャツは、現在「いぶすき西郷どん館に展示されています。

IMG_9155 いぶすき西郷どん館

福村家にはこの他、金箔塗りの陶磁製大皿、鉄砲の洗浄棒などもが残されているそうです。

IMG_9245 西郷南洲翁逗留の家

ここに、佐賀の乱に敗れた江藤新平が訪れ、西郷と激論したといわれています。

IMG_9244 西郷南洲翁逗留の家

西郷南洲翁逗留の家
   征韓論に敗れた南洲翁が、鰻温泉を訪れたのは明治7年1月の末、
  供と猟犬をつれて、この福村市左衛門方に逗留した。
   毎日狩猟に出かけ、夜は読書し、雨の日は村の子供達と遊んだという。
   佐賀の乱に敗れた江藤新平が訪れ、大義に生きる翁と、国を憂い激論した
  といわれる。

   福村家には翁が愛用したシャツが家宝として残されている。
               昭和52年9月  山川町観光協会

 


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| 鹿児島 | 06:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷・大久保の座禅石

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鹿児島護国神社から坂道を約200mほど城山団地方面にのぼって行くと、坂の途中にこの看板があります。

IMG_9573 座禅石

ここを曲がると、座禅石公園という小さな公園があります。

IMG_9574 座禅石

IMG_9575 座禅石

 



この公園には、若き日の西郷隆盛、大久保利通はじめ精忠組のメンバーが、座禅を組んで修行したという西郷・大久保の座禅石があります。

IMG_9580 座禅石

石は現在の国道3号線沿いの誓光寺の庭にあったもので、西郷、大久保をはじめ、当時の若き志士たちが誓光寺の住職であった円了無参の教えを受け、日夜座禅し、修行に励んだといいます。
昭和52年(1977)、鹿児島市の記念物(史跡)に指定されました。

座禅石の横には「南洲・甲東参禅之處・・・」と刻まれた記念碑が立っています。

IMG_9581 座禅石

IMG_9587 座禅石

西郷・大久保座禅石「志を鍛えた石」 −西郷・大久保ら精忠組の青春−
 
西郷隆盛や大久保利通の青春時代をじっと見守った人物がいました。

 草(そう)牟田(むた)誓光寺(せいこうじ)の住職円(えん)了無参(りょうむさん)和尚といい、城下南林寺や島津家菩提寺福昌寺の住職を勤めた名僧です。

 当時、薩摩藩は、次の藩主をめぐって斉彬を押す一派と久光派が対立。

 ついに久光の実母であるお由羅の暗殺計画へと発展しました。

 首謀者の一人赤山靱負(1850年3月切腹)は、可愛がっていた西郷への血染めの肌着を残して切腹。大久保の父は喜界島へ流罪になりました。

 下級役人の仕事を黙々とこなし、仲間と「近思録(きんしろく)」(朱子学の書物)を読み、誓光寺で座禅を組んでいた2人に最初の試練が訪れたのです。

 揺れ動く藩政の中で、座禅によって自分を見つめ直すことは、大きな時代の流れを見極める助けとなりました。

| 鹿児島 | 17:33 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
篤姫誕生地 「島津本宗家の菩提寺・福昌寺」

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

福昌寺は、応永元年(1394年)、島津氏第7代当主島津元久が一族出身の僧・先に妙円寺 (日置市)を建てた石屋真梁を開山として招いて建立され、その後代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺となりました。

墓地には島津家第6代の師久(薩摩)、氏久(大隅)から、第28代斉彬までの墓があります。

 



天文15(1546)年、忍室和尚の時には、後奈良天皇の勅願寺となり、同18(1549)年にキリスト教を伝えたザビエルが鹿児島滞在中、忍室和尚と宗教上の問答を行ったところでもあります。住職の中には若い時の西郷隆盛大久保利通を指導した無参和尚もいました。

江戸時代の『三国名勝図会』によると、最盛期には1500人の僧侶がいたといいます。
明治の廃仏毀釈により薩摩国大隅国など旧薩摩藩領内にある寺はほとんどが破壊されましたが、福昌寺は島津氏の菩提寺ということで特別に残っていたのですが、島津忠義の妻・暐姫(島津斉彬の長女)が1869年に亡くなり葬儀を神式で行うことになった際に福昌寺も破壊されることが決定したそうです。

寺跡には昭和23(1948)に玉龍高等学校が建てられました。墓地の後背地の部分にはキリシタン墓地があります。
(かごしまデジタルミュージアムより)

本堂などはありませんが、島津家の墓所はこの案内図の通り残されています。



島津斉興の墓




島津斉興
幕末の第11代薩摩(鹿児島)藩主,第27代島津家当主。通称は豊後守,大隅守。官位は従三位参議。第10代藩主斉宣の長子として江戸で生まれたが,「近思録崩」(「文化朋党事件」)により文化6(1809)年に斉宣は隠退し斉興が19歳で襲封した。文政3(1820)年までは祖父重豪の後見を受け,そののちも天保4(1833)年に重豪が死ぬまで,重要事項についてはその指図の下にあったが,文政10年には調所広郷を起用して藩債500万両の整理に乗り出した。斉興の後継者をめぐっては嫡長子の斉彬と,斉興の愛妾お由羅の方の子久光とが競い,嘉永2(1849)年には藩内有識者や青年藩士らが斉彬を擁立すべく行動したことから「お由羅騒動」(「嘉永朋党事件」)と呼ばれる御家騒動に発展し,多くの処罰者を出した。しかし斉彬の襲封を期待する阿部正弘政権下の幕府の圧力によって,斉興は同4年に隠退に追い込まれた。隠居後は鹿児島の玉里御殿で余生を送った。(コトバンクより)

お由羅の方の墓



島津斉興の側室。
江戸の薩摩(さつま)鹿児島藩邸の奥女中であったが,藩主斉興の寵愛をうけ久光を生む。斉興の嫡男斉彬と久光とのあいだの継嗣問題が藩内の勢力争いとむすびつき,世にいうお由羅騒動がおきた。慶応2年死去。(コトバンクより)
法名「妙浄寛忍大禅定尼」

薩摩藩第11代藩主 島津家28代当主 島津斉彬(右)と夫人の英姫(左)の墓

 






島津斉彬
文化6年9月28日生まれ。島津斉興(なりおき)の長男。嘉永(かえい)4年(1851)薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家11代となる。藩営の工場集成館を設立し,殖産興業,富国強兵策をすすめる。養女篤姫(あつひめ)(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして,幕府への発言力をつよめる。将軍継嗣問題では西郷隆盛らをもちいて一橋慶喜(よしのぶ)擁立運動をすすめたが,安政5年7月16日急死。50歳。初名は忠方。通称は又三郎。号は惟敬,麟洲。

島津久光

 

 

島津久光
文化14年10月24日生まれ。島津斉興(なりおき)の5男。母はお由羅。薩摩(さつま)鹿児島藩重富領主。異母兄斉彬(なりあきら)の遺命で子の忠義が鹿児島藩主となると,本家に復帰して国父とよばれ藩政の実権をにぎる。文久2年(1862)兵をひきいて京都にはいり,藩の尊攘(そんじょう)過激派を弾圧(寺田屋事件)。また,勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど,公武合体運動をすすめる。帰途,生麦事件が発生し,薩英戦争をまねいた。維新後,内閣顧問・左大臣に就任したが,保守的意見がいれられず,明治8年隠退した。明治20年12月6日死去。71歳。初名は忠教。通称は又次郎。号は双松など。 (コトバンクより)

 


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