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松平容保死す

[ 福島 ]
JUGEMテーマ:八重の桜
12月8日「再び戦を学ばず」のなかで、会津藩主:松平容保は、孝明天皇から下賜された「御宸翰(ごしんかん)をこれこそが、会津が逆賊でないことの証だと山川兄弟に托した。
※宸翰とは、天皇直筆の文章

 松平容保公(かたもり 1835〜1893 滝沢本陣所蔵)
八重の桜に出てくる会津藩主は、9代目の容保公です。
京都守護職に任命され、そのために、戊辰戦争では、新政府軍の最大の標的となって、戦いに敗れ、下北半島の斗南藩(となみ)へ移されます。その後、容保は、謹慎生活のあと、日光東照宮の宮司となる。失意の内に58歳で生涯を閉じる。
容保公絵



会津藩主のお墓
初代保科正之の墓所は猪苗代町の土津神社にあり、2代保科正経から9代松平容保までの墓所は会津若松市東山町の松平家院内御廟(いんないごびょう)にあります。

案内板(院内御廟)
容保墓案内



容保のお墓は、この奥の上にあります
石碑



ハリス理化学館(同志社キャンパス内)
1890(明治23)年竣工。理科教育を目指した新島襄の熱意に応えてアメリカの実業家ハリスから10万ドルの寄付を得て建てられました。

ハリス科学


ハリス板 ハリス2



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2013.12.13 Friday 02:42 | comments(5) | - | 

八重が泊まった清水屋旅館

[ 福島 ]
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会津若松市にある大東銀行会津支店の場所には、かつて木造三階建ての清水屋旅館がありました。
ここには幕末から明治にかけて、多くの歴史上の人物が訪れています。



嘉永5年(1852)吉田松陰は東北各藩を歴訪し、なかでも会津藩には特に関心を示して2度にわたって訪れています。
その時に泊まった「七日町の宿」がここ清水屋でした。

その16年後の慶応4年(1868)、戊辰戦争の宇都宮攻防戦で足に負傷した土方歳三が、この旅館に運び込まれ治療を受けています。


そして明治15年(1882)7月27日、八重は新島襄、伊勢時雄らとともに伝導のため会津を訪れ、この清水屋旅館に泊りました。
ドラマの中で、旅館の灯りに「御宿 清水屋」と書かれていましたね。

戊辰戦争後、会津から米沢に、そして京都へ移り14年。
戦いにより大きく破損した鶴ケ城はすでに取り壊され、城下町はすっかり変わっていたようですが、八重の故郷・会津への思いはいかばかりだったでしょう・・



ところが明治15年8月17日、喜多方出身の自由民権運動家・宇田成一らがこの清水屋旅館に宿泊中、帝政党員らに襲われて重症を負うという事件が発生しています。(清水屋事件)

ということは、八重たちは7月27日から数日間清水屋旅館に滞在していたので、帰ったすぐ後に事件があったのですね。
怖い話です。



自由民権運動と言えば、暴漢に襲われ負傷した「板垣退助」。
これも明治15年4月の事でした。



この時代は、まだまだ政情が不安定な時代だったのですね。





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2013.10.24 Thursday 00:00 | comments(8) | - | 

会津藩主松平家墓所

[ 福島 ]
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会津藩主松平家の墓所は、初代保科正之公の墓所である猪苗代の見禰山と、二代目保科政経公から九代目松平容保公にわたる墓所がある会津若松市の院内山との2箇所に分かれています。

松平容保公の墓所がある院内山は、会津若松市東山にあり、通称「院内御廟」と言われています。



東山温泉に行く街道沿いに、松平容保公の解説板がありました。



解説板から奥に入ると、墓所へと続く長い参道があります。山一帯が松平家の墓所となってるので、途中いくつかの墓所を見ながら、一番上にある容保公の墓所を目指しました。



急な石段を登り切った所に入峰墓所と呼ばれる所があり、神式埋葬された三代・正容公、五代・容頌公、六代・容住公、七代・容衆公の碑石が並んでいます。
うっそうとした森の中に整然と並ぶ碑石は、荘厳な雰囲気を漂わせています。



そのすぐ左に、九代・容保公の碑石があります。
神式に則って碑石の奥には対の石灯籠、そしてさらに奥には表石が建っています。





松平容保公は、明治維新において幕府側の責めを一身に背負い、最後まで戦った悲運の藩主です。
落城の後は謹慎生活を送り、その後日光東照宮などの宮司を務め、失意と沈黙の日々を過ごして58歳の生涯を閉じました。



院内山の眼下には、会津の町並みが広がっていました。





                by merry




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2013.07.22 Monday 00:00 | comments(10) | - | 

阿弥陀寺〜会津戦争

[ 福島 ]
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会津若松市七日町には、会津戊辰戦争後の悲惨さを伝えるお寺「阿弥陀寺」があります。



戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺
<前略>明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。
幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には千三百柱にものぼる遺骸が埋葬されました。
春、秋の彼岸には手厚い供養会が行われます。<後略>


心痛む話です・・



会津戊辰戦争で阿弥陀寺の堂宇が消失し、明治3年に会津若松城本丸にあった小天守「御三階」が移築され仮本堂として使われたそうです。
現在も境内南に保存されているそうですが・・残念ながらこの時、知らずにパスしています(T_T)

そして現在の本堂の写真を撮るのも忘れています(T_T)

また昭和初期には大仏様があったそうですが、太平洋戦争で供出され、いまでは台座だけが残っていいるそうです。
すみません・・これもパスしています(T_T)

大仏様があった時代の写真。昔なつかしの光景ですね。




そして境内には、会津戦争で活躍した新選組隊士・斎藤一のお墓があります。
斎藤一は「山口次郎」「藤田五郎」など何度も名前を変え、大正4年(1915)72歳で逝去。
本人の希望により、会津に埋葬されました。

斎藤一(藤田五郎)の墓。妻・時尾もともに眠っています。



死後は会津で眠りたい・・そんな斎藤一の会津を思う気持ちに深い感銘を受けました。


                by merry









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2013.07.20 Saturday 00:00 | comments(8) | - | 

如来堂の戦い〜会津戦争

[ 福島 ]
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斎藤一は京都で新選組の三番組長として活躍し、その腕は沖田総司、永倉新八と並ぶ剣豪であったと伝わります。

京都での鳥羽伏見の戦いに敗れて後は会津城下に入り、負傷している土方歳三に代わり隊長として新選組を率い会津戦争を戦いました。

会津藩が危機的な状況になっても「今、会津を見捨てるのは義にあらず」として、仙台へ向かう土方歳三ら旧幕府軍と袂を分かち、会津で戦い続けました。

慶応4年(1868)9月4日、斎藤一(山口次郎)が、十数名の隊士とともに如来堂に宿陣していたところ、新政府軍から襲撃を受け、ここで壮絶な戦いが繰り広げられました。



激戦の末、新選組隊士達は全滅したとされていたのですが、奇跡的に斎藤一(山口次郎)をはじめ数名の隊士が乱戦の中を脱出し、生存していたのです。






斎藤一(山口次郎)は、会津藩が降伏開城した後も会津藩士として越後高田に幽閉され、その後も会津藩士らとともに青森に移り、斗南藩士となって苦渋をともにしました。

その後上京して警視庁へ入り、警察官として西南戦争に参戦。
新聞で報道されるくらい活躍したそうです。

また松平容保の仲人で八重の幼馴染の高木時尾と結婚し、3人の子どもをもうけました。





如来堂は、会津若松市神指町にあり、近くに上杉景勝ゆかりの神指城址もあります。



            merry






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2013.07.18 Thursday 00:00 | comments(8) | - | 

母成峠古戦場〜会津戦争

[ 福島 ]
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猪苗代湖の北東にある母成グリーンラインを走っていると、頂上付近に「母成峠古戦場」の碑が見えてきます。



慶応4年(1868)8月21日、会津若松城総攻撃を決めた新政府軍は、大軍でこの峠に押し寄せてきました。
会津藩は、郡山から会津に入る中山峠や勢至堂峠に主力部隊を置き防御を固めていましたが、攻められたのは一番防御が手薄な母成峠でした。



母成峠の防御に当たっていた会津藩の主力部隊は、会津藩士を始め、旧幕府の大鳥圭介率いる伝習隊や土方歳三率いる新選組などで、その数はわずか800名。
それに対して新政府軍は、板垣退助、伊地知正治率いる主力部隊と土佐藩の谷干城など、合計3000名の大軍でした。
兵力を集中させ、一挙に会津国境を突破しようと攻めてきたのです。



それでも怯まず、濃霧の中、終日戦いが繰り広げられましたが、午後4時過ぎには勝敗は決し、会津藩は猪苗代に向かって敗走することになります。


この時、新選組の土方歳三は仙台に向かい、旧幕臣の榎本武揚率いる艦隊に加わって箱館(現:函館)を目指しました。

一方新選組の斎藤一(会津では山口次郎を名乗っています)は会津に戻り、この後、会津で壮絶な戦を展開することになります。


その記事は次回に・・


       
             by merry







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2013.07.16 Tuesday 00:00 | comments(4) | - | 

鶴ケ城(若松城)と荒城の月 (会津若松紀行18)

[ 福島 ]
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 名曲「荒城の月」を知らない日本人はいないくらいに有名な歌ですが、それが若松城で作られたのを今回の会津若松旅行で知りました。歌の意味が分かっていたわけでもないのに、メロデーは自然に出てくる名曲です。

1901(明治34)年に発表され、土井晩翆が作詞、滝廉太郎が作曲しました。



荒城の月碑(鶴ケ城内)
月碑

歌詞
歌詞


碑板

荒城の月の意味が分からずに歌っていましたが、鶴ケ城に来て、そしてこの歌詞を読むと意味が分かったような気になりました。
『栄えていた鶴ヶ城も戊辰戦争で荒れはて、そんなお城を照らす月は、昔も今も変わらない。秋陣営とは、会津藩が城に籠って新政府軍に抵抗したことなんでしょう。』こんな意味だろうと思って歌詞を読んでいました。



土井晩翆像
晩翆



鶴ケ城(若松城)
城




「荒城の月」
1.春高楼(こうろう)の花の宴(えん)  巡(めぐ)る盃(さかずき)かげさして
 千代(ちよ)の松が枝(え)わけ出(い)でし  昔の光いまいずこ

2.秋陣営(じんえい)の霜の色  鳴きゆく雁(かり)の数見せて
 植うる剣(つるぎ)に照りそいし  昔の光いまいずこ

3.いま荒城の夜半(よわ)の月  替(かわ)らぬ光たがためぞ
 垣に残るはただ葛(かずら)  松に歌うはただ嵐(あらし)

4.天上影(てんじょうかげ)は替(かわ)らねど  栄枯は移る世の姿
 写さんとてか今もなお  嗚呼(ああ)荒城の夜半の月

【歌詞の意味】
1.春には、花の下で宴が開かれ、盃が酌み交わされたであろう、しかし、その華やかな様子はなくなってしまった。
2.秋には、城に陣取った軍が剣をかざしていたが、その面影はない。
3.今は、荒れ果てた城に月影がさし、石垣には葛が生えて、松に風が吹きつけるだけ
4.空に輝く月影は変わらないけど人の世の栄枯盛衰は移り変わる、荒れた果てたお城に変わらぬ月影がさす。


作詞作曲の背景
宮城県仙台市出身の土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、そして、
大分県竹田市に住んでいた瀧廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。

このように、晩翆も廉太郎も自分が見聞きした城のイメージからこのような名曲ができたのでしょう。

(参考資料:ウイキペディア)

この名曲も今では、教科書に採用されていません。歌詞が難しくてわからないがその理由のようです。


荒城の月(華之将さん ユーチューブ)
こちらを
クリック


会津若松市観光公社HPは こちらから



会津若松紀行もこの記事で最後です。読んでくださた皆さまありがとうございました。書き手は変わりますが引き続き「八重の桜」の史跡を紹介していきます。よろしくお願いします。 

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2013.07.12 Friday 02:55 | comments(6) | - | 

鶴ケ城落城 (会津若松紀行17)

[ 福島 ]
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1168年秋、頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。籠城戦で1ヶ月持ちこたえた鶴ヶ城も小田山からの大砲の攻撃でついに落城、1168年11月6日(明治元年9月22日)、会津藩は、新政府軍に降伏した。
そして、降伏調印式が行われたのが城の北側西郷頼母邸と内藤邸に挟まれた道路上でした。 


降伏式が行われた場所
地図降伏式


天守閣から見た右:小田山の西軍砲台
展望



降伏式
中央立っているのが松平容保公 座っているのが中村半次郎(薩摩)
終結絵

終結板



この道路の先、左;西郷頼母邸、右:内藤邸があり、その奥に鶴ケ城があります。西郷、内藤邸の間くらいで降伏式が行われました。
終結道路



最後まで城内で戦った八重は、お城の壁に歌を残しています。

明日よりは いづくの誰かながむらん
    なれしお城に 残す月影

八重鉄砲 八重ポスター

会津は、負けられねえ
ならぬことはならぬ

ならぬ石碑




松平容保の弔歌が飯盛山にあります

幾人の 涙は石にそそぐとも
  その名は世々に 朽ちしとぞ思う

容保絵 容保弔歌

容保歌板



武士道を貫いた会津も敗戦の結果
家老萱野権兵衛(柳沢慎吾)の切腹によって会津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子容大
かたはる 11代目)斗南藩3万石(となみ 青森県むつ市)が与えられました。北辺の過酷な地を目指し、沢山の会津藩士とその家族が会津を去りました。容保は、謹慎生活の後、日光東照宮の宮司となり、失意の日々を過ごして58歳で生涯を閉じました。

(参考資料:Wikipedia 会津若松観光公社HP)


会津若松市観光公社HPは こちらから



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2013.07.10 Wednesday 01:47 | comments(5) | - | 

鶴ケ城 (会津若松紀行16)

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7日の大河「包囲網を突破せよ」で、涙橋近くで戦う女子隊のリーダー中野竹子(黒木メイサ)が、銃弾に当たり死亡する。(享年22歳)辞世の句を読んでいます。
もののふの 猛きこころに くらぶれば
  数には入らぬ 我が身ながらも

神保修理(斉藤 工)の妻:(芦名 星)も、捕らえられ,後に自刃する。

そんな戦いの中で、山川太臓(玉山鉄二)率いる一隊が城に入るのに、会津の春の行事に登場する彼岸獅子を先頭にして笛や太鼓を鳴らして入城してきました。これも会津戦争で語られる有名な話です。

そこで今回は、会津の魂と新政府軍とが激突した若松城を紹介します。


天守閣
鶴ケ城

鶴ケ城板

出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。
以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。


昔の鶴ケ城
昔の城


表門
横門


南走長屋
上から


二の丸
籠城戦のときは、この橋を落として敵の侵入を防いだのでしょう
東門

お堀
堀


城内の井戸
井戸




天守閣からの展望
左の飯盛山から右の小田山までが一望できます。
1868年(慶応4)、戊辰戦争の際、板垣退助軍と薩摩の援軍援軍が攻め込んだが、会津は徹底抗戦しなかなか落城しなかったが、新政府軍は小田山から大砲攻撃を仕掛け、天守閣が崩れてゆき、1ヶ月持ちこたえた若松城もついに落城、そして降伏しました。
展望





稲荷神社
稲荷神社4

稲荷板4


(参考資料:Wikipedia)


会津若松市観光公社HP こちらから


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2013.07.08 Monday 02:53 | comments(6) | - | 

麟閣(茶室) (会津若松紀行15)

[ 福島 ]
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鶴ケ城内に茶室:麟閣(りんかく)があります。

麟閣は、千利休の遺児:少庵が自分を守ってくれた蒲生氏郷のために造った茶室です。少庵の孫から今の茶道:表、裏、武者小路の三利休家が生まれていきました。

表門
麟閣

麟閣板


千利休系図
千利休板


寄り付き
寄り付き

寄り付き板


腰掛け待合
腰掛け

腰掛け板



庭

つくばい


牡丹森川家が保存していたものを復元しました)
ぼたん

ぼたん板


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2013.07.06 Saturday 01:53 | comments(7) | - | 
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