JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「平清盛」
平安時代末期になると、延暦寺・興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて武力を備え、「南都北嶺(なんとほくれい)と称される一大抵抗勢力となっていました。
興福寺南円堂
源頼朝の挙兵に続いて信濃、甲斐の源氏が隆起し、近江源氏もそれに呼応して立ち上がり、さらに南都・興福寺も公然と反平氏活動を始めました。
興福寺五重塔
四面楚歌に追い込まれた清盛は、穏便に興福寺を説得するため、妹尾兼康に軽装備の兵500を付けて南都に派遣しました。
しかし南都の大衆はそれらを捉えて首を切り、猿沢池の畔に晒したとされます。(平家物語より)
猿沢の池
これには清盛も激怒。
平重衡を総大将に4万余騎を南都討伐に発向させました。
興福寺北円堂
興福寺・東大寺をはじめとする七大寺の大衆は、それを迎え撃って果敢に応戦しましたが、重衡の軍はそれを突破して南都へ攻め入り、火を放って興福寺、東大寺の堂宇伽藍を焼き尽くしました。
東大寺大仏殿
この時、東大寺大仏も焼け落ちました。
東大寺大仏
重衡の南都焼討は、失火であったという説や計画的放火であったとする説などいろいろありますが、いずれにしても風にあおられ大惨事になったことは確かです。
ところで、すべて灰燼に帰した・・と言われる大火の中、意外にも延焼を免れた場所もあったのです。
東大寺の中心より離れていたため、難を逃れたそうです。
東大寺の転害門
南都焼討の兵火やその後の様々な戦火を逃れ、今も現存しています。写真で見るよりずっと大きく、この威容は奈良時代の東大寺を彷彿とさせます。
東大寺二月堂
南都焼討の兵火には免れたのですが、寛文7年(1667)お水取りの最中に失火で焼失したため、現在の建物は再建されたものです。
そして正倉院
当時の南都七大寺にはそれぞれ正倉院と呼ばれる倉があったのですが、現在まで残っているのは意外にも東大寺の正倉院だけなのです。
もし南都焼討の時、東大寺の正倉院も焼け落ちていたら、毎年恒例の「正倉院展」はありえないのですね(笑)
(正倉院は現在修理中のため写真はありません)
by merry
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