源平水島合戦の舞台を訪ねて新倉敷に立ち寄りました。
しかし・・・新倉敷から直接行くバスがないので、仕方なく歩いて行くことに。
正式名称は、「玉島大橋」、通称「源平大橋」と言うのですが、地元の方にはぴんとこないようで、「水玉ブリッジライン」の一部の橋と言うとようやくわかってくれました。
何人かの人に尋ねたのですが、「源平大橋」は、あくまでも源平合戦のことを知っている人の間でしか通用しないようでした。
この日は雨がひどく、少し歩いただけでびしょびしょ(;O;)
いったいどのくらい歩いたら到着するのか?
不安な気持ちいっぱいで、ただひたすら歩いて行くと、遠方に橋を発見!
目的が見えてきたら元気が出てきました!(^^)!
源氏方が布陣した乙島から橋を目指して行きます。
しかし、途中で寄る予定の常照院の地図が大まかで、小路がわからない(/_;)
途中で何人かの人に尋ねたのですが、知らないと言われ、もう諦めるしかないかと思ったところに、倉庫で作業中の男性を発見。一か八かで聞いてみると、この人が詳しくご存じでした!「源平のことを追っているの?」と聞かれた時には、救世主!と思いましたよヽ(^。^)ノ
丁寧に地図を書いてくれ、境内にある石碑の場所まで教えてくれました。
住宅地の中を縫っていくように歩いて行くと、小高い丘の上に、常照院がありました。
源氏軍が布陣したのはこの山の頂き辺りだったそうです。
常照院 門前にある貝塚
本堂
鐘楼
八幡神社(八幡大菩薩)
毎年9月に八幡神社で大祭が催されるそうです。
源平水島合戦城址の石碑 ここは、源氏方の本陣があったところとされています。
源平大橋が次第に近くに見えてきました。
現在、乙島と柏島を挟んでいた海峡は玉島港に、玉島大橋は水玉ブリッジラインの一部として交通流が多い橋となっています。
いよいよ橋の上を歩いて、源氏軍の乙島から平家軍の柏島へ
橋の北側には玉島漁港が
橋の南側
水島の戦いは、寿永2年閏10月1日、備中国水島(現在の倉敷市玉島)において木曽義仲軍(足利義清・海野幸広)と平家軍(平重衡、通盛、教経)との間で行われました。
写真左側(乙島)に源氏軍、右側(柏島)に平家軍が陣を構えました。
寿永2年(1183年)、平家軍は、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗し、都を追われ、九州に逃れたのち、讃岐の屋島に本拠を移しました。
一方、入京を果たした木曽義仲は、後白河院の命により、平氏を追討します。
寿永2年(1183年)9月20日に義仲軍は都を出発して屋島へ進軍していましたが、閏10月1日、水島で平氏軍と激突。
当時、乙島と柏島は、海に浮かぶ島でした。
源氏軍は、矢田義清を大将に、海野行広を侍大将に乙島に陣を、平家軍は平重衡を大将、副将軍に平教経率いる軍勢が柏島に陣を構えました。
(水島の戦いの大将は平家物語では知盛ですが、史実では重衡とされています。)
平家軍は、船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、海上を行き来でいるように陣を作り、源氏軍へ矢を浴びせました。
海上戦に長けた平家軍が源氏軍を圧倒。
源氏軍は、舵取りを失い、海野行広は次々に海へ沈んで行きました。
結局、船戦に不慣れな源氏軍が、大敗を喫してしまいました。
ところで、この戦いの最中、金環日食が起こったことが「源平盛衰記」に書かれています。
「西風烈く吹て、船共ゆられて打合ければ、東国北国の輩、舟軍は習はぬ事なれば、船に立ち得ずして船底へのみ重り入。平家の輩は、舟軍自在を得たりければ、乱入て散々に切。面を向る者はすくなし。舟耳に近付者をば取て海に入、底にある者をば冑の袖をふまへて頸を掻、城の中よりは勝鼓を打て罵り懸る程に、天、俄に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは知らず、いとゞ東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行。平氏の兵共は兼て知にければ、いよいよ時を造り重て攻戦。」
当時、平家は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから、平氏は日食が起こることを予測し、戦に利用したのではないかという説があります。
この水島合戦の勝利により、平家軍は勢力を取戻し、摂津福原まで戻ります。
さて、柏島側に渡ったところに、この看板が見えてきます。
橋の下へ降りて行くと、合戦800周年を記念して建立した記念碑があります。
(こちらが平家側です。)
源平水島古戦場跡碑 こんもりとした緑の山が平家の陣地だったところです。
橋をぐるっと一周し、帰りは、源平大橋を背に、新倉敷駅へ
雨の中、往復11kmも歩いてくたくたになりました(^_^;)
by shizuka
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