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北条氏政・氏照の墓所

[ 神奈川 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

小田原駅から数分のところに北条氏政・氏照の墓所があります。











氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わっています。



大きい方の五輪塔は、北条氏政夫人の墓と伝えられています。

稲葉氏が建立した笠塔婆型墓碑には、氏政・氏照の法号(戒名)が次のとおり刻まれています。

「滋雲院殿勝岩傑公大居士  天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」

「青□院殿透岳關公大居士  北條陸奥守氏照  天正十八庚寅年七月十一日」



墓所の外側には、幸せの鈴が飾られています。



ここをお参りした人たちの気持ちが伝わっていることを願いましょう。

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2016.06.21 Tuesday 00:00 | comments(5) | - | 

石垣山一夜城歴史公園〜神奈川県

[ 神奈川 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

天正18年4月、秀吉は北条攻めに際し、小田原城を見下ろす石垣山に急きょ本格的城郭を築城するように命じました。

籠城する北条勢に悟られぬように密か造営は進められ、完成直後に周囲の樹木を切り倒して一夜にして大城郭が出現したように見せかけたといいます。

このため石垣一夜城と呼ばれていますが、実際は80日間が費やされました。



 

延べ4万人もの人が動員されて完成した城は天守台・天守も備えた本格的な城郭で、また関東で最初に造られた総石垣の城でした。

秀吉は、ここに淀殿や千利休、能役者を呼び、茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。

 

まず一気に本丸まで登りました。

本丸跡  標高257m




 

本丸にある天守台跡


 

物見台から見える景色

眼下に小田原城が見えます。

 
 

ズームアップすると・・画面中央に小田原城が見えます。


紀行でも、この景色が紹介されていました。

 

 

本丸から見る二の丸跡

 
 

本丸から少し下ると南曲輪があります。


 

さらに西曲輪

 
 

そして、二の丸をはさんで本丸とは反対側に井戸曲輪があります。

写真では分かりにくいのですが、階段を下ると深い谷のようになっています。

 

野面積みの石垣もよく残っています。

 

 

小田原城開城後はその役割を終え、廃城となったようです。

 

 

石垣山一夜城歴史公園の面積は5.8ヘクタール、約1時間で回れました。

場所はJR早川駅から徒歩40分です。

 

 

        by   めりい

 

 

 

 


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2016.06.20 Monday 00:00 | comments(8) | - | 

小田原攻めで、秀吉が本陣を置いた早雲寺〜箱根

[ 神奈川 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ


箱根湯本にある「早雲寺」は、北条早雲の遺言で創建され、以後北条氏の菩提寺として栄えた寺です。
伽藍や多くの塔頭を有し、関東屈指の禅寺として威容を誇っていました。


しかし天正18年(1590)4月、豊臣秀吉は18万の大軍で小田原に攻め入ると、ここに本陣を置きました。
そして北条氏が降伏すると寺に火が放たれ、北条氏と運命を共にするかのように早雲寺も灰塵に帰しました。

北条氏の庇護を失った早雲寺はその後荒廃していましたが、江戸時代の寛永年間頃から18世菊径宗存和尚らの努力で再建され、また寛文12年(1672)には北条氏治によって北条5代の墓も造営され、北条氏の菩提寺として再興を果たしました。


早雲寺惣門
扁額「金湯山」は、江戸初期朝鮮使のひとり「金義信(雪峰)」の筆です。


中門


入ってすぐ右手に鐘楼があります。


この梵鐘は、天正18年の小田原攻めの時に、石垣一夜城で使われたものです。


本堂


本堂裏手には「禅院式庭園」があります。
傾斜面に三尊石を中心に石を立てる室町期の庭だそうです。


本堂左手奥に、北条5代の墓があります。


右より北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直
 
 
また、北条氏の庇護を受けて小田原に滞在していた茶人・山上宗二が、師である千利休に再会するため秀吉の本陣早雲寺を訪ねたところ、秀吉の逆鱗に触れて利休の面前で斬殺されたという話も残っています。

鐘楼横に宗二の追善碑が建っているそうですが・・・
見落としました(*_ _)


         by めりい







 
 
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2016.06.17 Friday 00:00 | comments(8) | - | 

小田原征伐

[ 神奈川 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ

真田氏との間で、領土紛争を起こしていた北条氏は、一旦は豊臣秀吉の仲裁によって、北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を北条領とする事で和解する事になりました。

その和解の条件として、秀吉は氏政・氏直のどちらかの上洛を要求したのですが、北条父子の上洛の話は実現せず、代わりに板部岡江雪斎を使者として送ります。

一旦は氏政が上洛という返事もあったのですが、天正17年(1589年)11月、北条方で沼田城将・猪俣範直による名胡桃城占領と言う事態を迎え、これに対し秀吉は北条氏の惣無事令違反を非難して、その討伐令を全国の諸大名に通知しました。

翌月12月に聚楽第で秀吉、徳川家康、前田利家、上杉景勝と小田原攻めの作戦会議を開き、街道の混雑を避けるため、一度に大軍を移動せず、東海道方面は第一陣の家康軍が翌年1590年2月に出発、その後、第2陣以下順次出発し、最後に秀吉の第9陣が3月京都を出発しました。
翌月、4月には小田原城包囲が完成し、秀吉は小田原城よりわずか4kmの箱根湯本の早雲寺に本陣を置きます。

一方、北条氏は出撃か籠城か迷ったあげく、籠城を決めました。
籠城策を採った北条氏に対し、秀吉は兵糧攻めを行います。
この時、秀吉が動員した兵力は、水陸合わせて21万に及んだといいます。

小田原征伐に際して、真田信繁は、父・真田昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられています。

1890年7月、秀吉の圧倒的な力の前に、ついに北条氏は降伏し、秀吉は天下統一を果たしました。

小田原駅


小田原駅の前には、北条早雲像が立っています。

 

JR小田原駅から徒歩10分のところの小田原城址公園の中に小田原城があります。





三の丸の土塁跡






二の丸から本丸への渡り橋と本丸東堀跡











北条氏の居城となってから拡張整備され、小田原攻めにおいては城下町を囲む9kmの大外郭の出現により、城の規模は最大に達しました。
北条氏滅亡後は家康の家臣である大久保氏が城主となります。
その後、地震により倒壊、本丸御殿を除き再建されますが、明治に入り廃城となりました。
現在の小田原城の天守閣は江戸時代に築かれた天守閣の模型をもとに、昭和35年に復元されました。3層4階建てで、内部には甲冑、刀剣、絵図などが展示されています。(小田原城パンフレット、「日本の合戦」参照)

城内の展示物は撮影禁止なので、展望台からの景色をご覧ください。



海が見渡せる絶景です。



石垣山一夜城


天正18年(1590)豊臣秀吉が北条氏を水陸15万の大群で包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、石垣山一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。

しかし、実際は約80日間が費やされました。

八幡山古郭


戦国期の小田原城の遺構である八幡山古郭は、15世紀末、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森藤頼を破ったころの小田原城の中心地の一つであったと考えられている場所です。

by shizuka



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2016.06.13 Monday 13:10 | comments(6) | - | 

小田原の清閑邸

[ 神奈川 ]


小田原城から清閑亭



清閑亭は、明治時代に活躍した黒田長成侯爵の別邸として、1906年(明治39年)にに建てられました。

黒田長成は、1867年(慶応3年)5月5日、筑前福岡藩主・黒田長知の長男として生まれました。

明治維新後、公卿・大名はすべて東京で生活するよう命じられており、黒田も福岡から上京し、1878年(明治11年)に慶應義塾へ入学。慶應義塾夜間法律科教授・金子堅太郎の助言により1880年(明治13年)に慶應義塾を中退し、英国ケンブリッジ大学への留学準備を始める。1884年に侯爵を授けられる。1885年(明治18年)、学友・添田壽一を随えてケンブリッジ大学に入学し、1887年12月学士号(普通学位)を取得し、卒業した。
1889年、宮内省の式部官に任じられるが翌1890年に依願免官。1892年には満25歳に達したために貴族院議員となり(侯爵議員)、かつての福岡藩の藩校で旧制中学として再興された修猷館の第3代館長となる。1894年から1924年までの約30年間、貴族院副議長を務めた。1905年、副島種臣死去の後を継けて、東邦協会の会頭となった。1908年12月11日、麝香間祗候となる。1924年に枢密顧問官に任じられ、以後終生その官にあった。1939年に薨去。(Wikipediaより)










旧小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に立ち、二階からは真鶴半島や大島を望む相模湾や箱根山を一望できます。



建物は数寄屋風の造りで、平屋と二階家が連なっています。







開館時間11:00〜16:00
毎週火曜休館
入館無料


お城の散策後に、こちらで休憩するのも良いですね!

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2014.10.11 Saturday 08:00 | comments(5) | - | 

北条氏政・氏照の墓所

[ 神奈川 ]

小田原駅から数分のところに北条氏政・氏照の墓所があります。











氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わっています。



大きい方の五輪塔は、北条氏政夫人の墓と伝えられています。

稲葉氏が建立した笠塔婆型墓碑には、氏政・氏照の法号(戒名)が次のとおり刻まれています。

「滋雲院殿勝岩傑公大居士  天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」

「青□院殿透岳關公大居士  北條陸奥守氏照  天正十八庚寅年七月十一日」



墓所の外側には、幸せの鈴が飾られています。



ここをお参りした人たちの気持ちが伝わっていることを願いましょう。

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2014.10.10 Friday 00:00 | comments(4) | - | 

石垣山一夜城歴史公園

[ 神奈川 ]


石垣山一夜城は、天正18年の北条攻めにおいて、秀吉の本営として築かれた総石垣の城です。





一夜のうちに城が出現したという伝承がありますが、実際は80日間が費やされ、延べ4万人が動員されたそうです。

 秀吉は、この城に淀殿ら側室や千利休、能役者を呼び、茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。






本丸跡 





本丸跡にある天守台跡
 


 


標高257mの本丸物見台から見える景色






ズームアップすると、小田原城が見えます。この間わずか3km



官兵衛もここから小田原城を見たでしょうね。




本丸から見る二の丸跡






本丸から少し下ると南曲輪があります。





さらに西曲輪






井戸曲輪  階段を下ると深い谷のようになっています。






この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、野面積みの石垣もよく残っています。





公園の面積は約5.8ヘクタール。所要時間は1時間でした。
 

 
 
 
 
 


 
 
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2014.10.08 Wednesday 00:00 | comments(6) | - | 

小田原城

[ 神奈川 ]

JR小田原駅から徒歩10分のところの小田原城址公園の中に小田原城があります。





三の丸の土塁跡






二の丸から本丸への渡り橋と本丸東堀跡













急な階段をのぼって



北条氏の居城となってから拡張整備され、小田原攻めにおいては城下町を囲む9kmの大外郭の出現により、城の規模は最大に達しました。
北条氏滅亡後は家康の家臣である大久保氏が城主となります。
その後、地震により倒壊、本丸御殿を除き再建されますが、明治に入り廃城となりました。
現在の小田原城の天守閣は江戸時代に築かれた天守閣の模型をもとに、昭和35年に復元されました。3層4階建てで、内部には甲冑、刀剣、絵図などが展示されています。(小田原城パンフレット、「日本の合戦」参照)

城内の展示物は撮影禁止なので、展望台からの景色をご覧ください。



海が見渡せる絶景です。



箱根


石垣山一夜城


天正18年(1590)豊臣秀吉が北条氏を水陸15万の大群で包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、石垣山一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。

しかし、実際は約80日間が費やされました。

真鶴・伊豆半島


伊豆大島


八幡山古郭


戦国期の小田原城の遺構である八幡山古郭は、15世紀末、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森藤頼を破ったころの小田原城の中心地の一つであったと考えられている場所です。

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2014.10.07 Tuesday 00:00 | comments(3) | - | 

小田原征伐

[ 神奈川 ]

1589年11月、豊臣秀吉は臣従を拒否する小田原北条氏政、氏直父子に宣戦布告。

翌月12月に聚楽第で秀吉、家康、前田利家、上杉景勝と小田原攻めの作戦会議を開いた結果、街道の混雑を避けるため、一度に大軍を移動せず、東海道方面は第一陣の家康軍が翌年1590年2月に出発、その後、第2陣以下順次出発し、最後に秀吉の第9陣が3月京都を出発。官兵衛父子も秀吉に従いました。

翌月、4月には小田原城包囲が完成し、秀吉は小田原城よりわずか4kmの箱根湯本の早雲寺に本陣を置きました。

一方、北条氏は出撃か籠城か迷ったあげく、籠城を決意。
籠城策を採った北条氏に対し、秀吉は兵糧攻めを行います。
同時に支城を次々と攻略。
この時、秀吉が動員した兵力は、水陸合わせて21万に及んだといいます。

秀吉と官兵衛は、無血開城を望んでおり、かねてより和睦交渉を進めていました。
最初の使者は、宇治田秀家で、武蔵と相模の二カ国を安堵するという条件を提示しましたが、氏政・氏直父子は、わずか二カ国では・・・と拒否。

続いて堀秀政が、相模一国を与える条件で、北条氏重臣の松田憲秀の内応を取り付けますが、憲秀の次男の密告により、この密謀は露見し、憲秀は監禁されてしまいます。

氏直の正室は、徳川家康の次女であり、両家が姻戚関係にあることから、官兵衛は次の使者に家康を推挙したのですが、家康は姻戚がゆえ辞退し、その代わりに官兵衛を押しました。

官兵衛は、家臣の井上九郎右衛門を使者とし、陣中見舞いとして、氏政・氏直父子に、酒二樽と粕漬けのホウボウ10尾を贈ると、氏政らは鉛一貫、玉薬十貫を贈ってよこしました。
官兵衛は、これを糸口に単身で小田原城に乗り込みます

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この時、官兵衛は肩衣に袴姿だったといいます。
氏政・氏直父子が、面会に応じると、官兵衛は言葉巧みに北条氏の戦いぶりを褒め、降伏・開城を勧めました。
父子は即答せず、「日光一文字」の太刀と、法螺貝、「吾妻鏡」を謝礼として贈りました。

「小田原評定」が続く中、氏政は抗戦を主張していましたが、当主の氏直は官兵衛の説得に応じ、7月5日、岳父の家康を陣に赴き降伏を申し入れました。その際、氏直は、秀吉に対し、自身の切腹と引き換えに、他の者の助命を嘆願しましたが、秀吉は、氏直を高野山に追放、北条氏政・氏照兄弟、重臣の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じました。

北条氏政の自刃により戦いは終結。
ついに秀吉は天下統一を果たしました。

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2014.10.06 Monday 06:48 | comments(2) | - | 

源平水島合戦

[ 神奈川 ]
源平水島合戦の舞台を訪ねて新倉敷に立ち寄りました。

しかし・・・新倉敷から直接行くバスがないので、仕方なく歩いて行くことに。

正式名称は、「玉島大橋」、通称「源平大橋」と言うのですが、地元の方にはぴんとこないようで、「水玉ブリッジライン」の一部の橋と言うとようやくわかってくれました。
何人かの人に尋ねたのですが、「源平大橋」は、あくまでも源平合戦のことを知っている人の間でしか通用しないようでした。

この日は雨がひどく、少し歩いただけでびしょびしょ(;O;)
いったいどのくらい歩いたら到着するのか?
不安な気持ちいっぱいで、ただひたすら歩いて行くと、遠方に橋を発見!
目的が見えてきたら元気が出てきました!(^^)!

源氏方が布陣した乙島から橋を目指して行きます。

しかし、途中で寄る予定の常照院の地図が大まかで、小路がわからない(/_;)
途中で何人かの人に尋ねたのですが、知らないと言われ、もう諦めるしかないかと思ったところに、倉庫で作業中の男性を発見。一か八かで聞いてみると、この人が詳しくご存じでした!「源平のことを追っているの?」と聞かれた時には、救世主!と思いましたよヽ(^。^)ノ
丁寧に地図を書いてくれ、境内にある石碑の場所まで教えてくれました。

住宅地の中を縫っていくように歩いて行くと、小高い丘の上に、常照院がありました。
源氏軍が布陣したのはこの山の頂き辺りだったそうです。

常照院

門前にある貝塚

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本堂

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鐘楼

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八幡神社(八幡大菩薩)

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毎年9月に八幡神社で大祭が催されるそうです。

源平水島合戦城址の石碑

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ここは、源氏方の本陣があったところとされています。



源平大橋が次第に近くに見えてきました。

IMG_8217 B

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現在、乙島と柏島を挟んでいた海峡は玉島港に、玉島大橋は水玉ブリッジラインの一部として交通流が多い橋となっています。

いよいよ橋の上を歩いて、源氏軍の乙島から平家軍の柏島へ

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橋の北側には玉島漁港が 

 

橋の南側

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水島の戦いは、寿永2年閏10月1日、備中国水島(現在の倉敷市玉島)において木曽義仲軍(足利義清・海野幸広)と平家軍(平重衡、通盛、教経)との間で行われました。
写真左側(乙島)に源氏軍、右側(柏島)に平家軍が陣を構えました。

寿永2年(1183年)、平家軍は、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗し、都を追われ、九州に逃れたのち、讃岐の屋島に本拠を移しました。
一方、入京を果たした木曽義仲は、後白河院の命により、平氏を追討します。
寿永2年(1183年)9月20日に義仲軍は都を出発して屋島へ進軍していましたが、閏10月1日、水島で平氏軍と激突。
当時、乙島と柏島は、海に浮かぶ島でした。

源氏軍は、矢田義清を大将に、海野行広を侍大将に乙島に陣を、平家軍は平重衡を大将、副将軍に平教経率いる軍勢が柏島に陣を構えました。
(水島の戦いの大将は平家物語では知盛ですが、史実では重衡とされています。)

平家軍は、船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、海上を行き来でいるように陣を作り、源氏軍へ矢を浴びせました。

海上戦に長けた平家軍が源氏軍を圧倒。

源氏軍は、舵取りを失い、海野行広は次々に海へ沈んで行きました。

結局、船戦に不慣れな源氏軍が、大敗を喫してしまいました。

ところで、この戦いの最中、金環日食が起こったことが「源平盛衰記」に書かれています。

「西風烈く吹て、船共ゆられて打合ければ、東国北国の輩、舟軍は習はぬ事なれば、船に立ち得ずして船底へのみ重り入。平家の輩は、舟軍自在を得たりければ、乱入て散々に切。面を向る者はすくなし。舟耳に近付者をば取て海に入、底にある者をば冑の袖をふまへて頸を掻、城の中よりは勝鼓を打て罵り懸る程に、天、俄に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは知らず、いとゞ東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行。平氏の兵共は兼て知にければ、いよいよ時を造り重て攻戦。」

当時、平家は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから、平氏は日食が起こることを予測し、戦に利用したのではないかという説があります。

この水島合戦の勝利により、平家軍は勢力を取戻し、摂津福原まで戻ります。

さて、柏島側に渡ったところに、この看板が見えてきます。

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橋の下へ降りて行くと、合戦800周年を記念して建立した記念碑があります。
(こちらが平家側です。)

源平水島古戦場跡碑

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こんもりとした緑の山が平家の陣地だったところです。

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橋をぐるっと一周し、帰りは、源平大橋を背に、新倉敷駅へ

雨の中、往復11kmも歩いてくたくたになりました(^_^;)


by shizuka



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2012.12.18 Tuesday 00:39 | comments(4) | - | 
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