松平容保は、会津戦争後は鳥取藩にお預けの身となり、東京に移されて蟄居しましたが、嫡男の容大が家名存続を許され華族に立てられました。
容保はそれから間もなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には
日光東照宮の宮司となり、また会津藩の家老であった
西郷頼母も宮司を補佐する禰宜職に就任しました。その頼母は、明治になって名字を変え、保科近悳と名乗っていました。
松平容大
西郷頼母
当時の東照宮は、幕府からの庇護を失い、経済的に困窮していました。そこで、地元の有志者が、明治12年に保晃会を組織し、初代会長に容保が就任し、日光山を守るために奉賛活動を行いました。
その一環として、当宮崇敬者や奉賛者等に対して、自筆の木版刷り御社号を授与していたそうです。
日光東照宮 陽明門
三猿
会津藩の主従が再びタッグを組み、当時からの保存活動が、現在まで引き継がれ、平成の大修理に至ったということなのですね。
容保は、正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京小石川の自邸にて肺炎のため死去。享年59。
八月十八日の政変での働きを孝明天皇から認められ、その際、宸翰と御製を賜り、それらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったといいます。
by しずか
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