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井伊亀之丞ゆかりの地(1)松源寺

[ 長野 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

井伊亀之丞ゆかりの地と桜守の旅のバスツアーに参加してきました。

 



遠鉄観光のバスで、浜松から飯田へ。

 


浜松を7時15分に出発し、11時に松源寺に到着。

 



松源寺は、井伊直虎の許婚である亀之丞(井伊直親)が今川氏から命を狙われ、松岡氏の庇護のもと匿われた寺です。

松源寺が創立されたのは、永正8年〜10年頃(1511〜1513)とされ、開基は松岡城主・松岡貞正、開山は貞正の実弟・文叔瑞郁禅師。
当時の寺は、牛牧村の寺山に建てられました。
その後、消失、移転、再建を繰り返し、現在の本堂は明治33年(1900)に再建されたものです。

山門は、江戸時代中ごろ大風で倒壊しましたが、残った部材を使い再建され、現在、高森町有形文化財に指定されています。

 




本堂



ここから中に入ります。

 



本堂に入ると、亀之丞の肖像が飾られています。

 

 



今川義元に命を狙われていた亀之丞は、渋川の東光院に身を潜めましたが、そこでも命を狙われ、南渓和尚が自浄院(龍潭寺の前身)の住職を務めた文叔瑞郁禅師が開山した伊那谷高森町の松源寺に逃げるように指示しました。
亀之丞は、松源寺で、9歳〜20歳までの12年間を過ごしました。そこで、亀之丞は、松源寺の住職から学問を教わり、松岡城の侍たちから武術や弓馬の稽古をつけられて育ちました。

亀之丞は「青葉の笛」を手にすることも多くなり、故郷を偲んで笛を吹いていたといいます。また、笛を教えてもらったお千代とは深い仲になり、子どもを儲けたとのお話も伝えられています。
20歳になった亀之丞は井伊谷に戻り、井伊直親を名乗り、虎松(後の井伊直政)を儲けますが、27歳で今川に謀殺されてしまいました。

 

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2017.04.17 Monday 01:35 | comments(2) | - | 

真田の郷 長谷寺 真田幸隆・昌幸の墓,真田信繁(幸村)の供養塔

[ 長野 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

上田市真田町の長谷寺(ちょうこくじ)は、真田幸隆が開山した真田氏の菩提寺で、山号は真田山(さなださん)。

 

 

庭園を過ぎて階段を登ると、真田幸隆夫妻と真田昌幸の墓があります。

 

 

左から、真田幸隆夫人恭雲院、真田幸隆、真田昌幸の墓

真田 幸隆(さなだ ゆきたか/こうりゅう)
信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では「一徳斎」の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

恭雲院
海野棟綱や真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される。
『系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]。天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている。
天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡・佐久郡を支配していた織田家家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡・筑摩郡・木曽郡を与えられた木曽義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる。 

真田 昌幸
甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。  (Wikipediaより)

 

 

真田幸隆夫妻・昌幸の墓の左側に、真田信繁(幸村)の供養塔があります。

 


これはまだ新しいようですね。

 


 


 



小銭が、六文銭の様に奉納されています。

これは真田ファンのGood ideaですね(^∇^)ノ

 


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2016.12.21 Wednesday 15:30 | comments(5) | - | 

松代の大林寺 山手殿の墓

[ 長野 ]

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関ヶ原の合戦後の、真田昌幸・信繁父子は16人の家来と信繁の妻女と伴に、九度山に幽閉されることになりましたが、山手殿真田信之に引き取られ、上田に留まりました。
この後、出家して名を寒松院と改め、慶長6年(1601年)頃から大輪寺で生活を始めます。

夫の昌幸の死からちょうど2年後の慶長18年(1613年)6月3日に死去。
法名・寒松院殿宝月妙鑑大姉。墓所は上田の大輪寺(長野県上田市)と松代の大林寺(長野県長野市)。

大林寺は、信之が上田から松代に移る際、母の山手殿の発願で建立された上田の大輪寺から松代の地に分霊し、供養塔を建てた寺です。

 



田掻き地蔵

 



本堂



本堂の屋根



山手殿のお墓



寒松院の文字が刻まれています。
 



山手殿以外にも、真田家臣の矢沢一族の墓もあります。

 


 



その他、鎌原一族の墓や出浦昌助の墓もあるそうですが、これらは見逃しました(-_-;)

 


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2016.10.10 Monday 00:58 | comments(4) | - | 

松代の旧前島家住宅(2)

[ 長野 ]

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現在の敷地は、幕末の屋敷地(763坪)の約半分に過ぎませんが、敷地内に1759(宝暦9)年建築の主屋をはじめ、土蔵、三社(神祠)、庭園等が現存しています。現存する建物・庭園の一部は、幕末期および昭和の修理によって改変を受けていますが、屋敷地全体としては、往時の武家屋敷の景観を良好に保持していることから、2006年(平成18年)4月20日に長野県宝に指定されました。

外観や庭園だけでなく、内部も見学できます。
 


 


 



次ノ間



食事の間


中では前島家の解説や湯茶サービスがありました。

 


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2016.10.08 Saturday 04:47 | comments(5) | - | 

松代の旧前島家住宅(1)

[ 長野 ]

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前島家は同家所蔵の系図によると、初代民部左衛門一宗のとき以来、上田、松代を通じて代々真田家に仕えた家臣であり、二代・前島作左衛門一之真田昌幸・信繁父子の九度山蟄居に、お供したと伝えられています。

江戸時代の禄高は、江戸中期に300石、幕末には200石だったそうです。

この屋敷は、真田信之の松代入封の際に拝領したと伝えられており、昭和初期まで、前島氏の居宅として使われてきました。

 


 


 


 


 


 


 





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2016.10.06 Thursday 12:32 | comments(4) | - | 

長谷寺(上田)の真田昌幸の墓

[ 長野 ]

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関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より真田昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されましたが、東軍に属した長男の信幸(信之と改名)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居となりました。

 



昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発ち、高野山へ。
昌幸の正室・山之手殿は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従いました。

上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却されました。
高野山での昌幸の配所は、蓮華定院という真田家の菩提所でしたが、間もなく山麓の九度山に代わりました。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったともいわれています。
また、昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。

昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄っていましたが、生活費に困窮し、信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出しており、信之は、毎年数十両単位の援助を行っていました。
配流当初には信之、本多正信を通して赦免運動を展開。山之手殿も赦免を嘆願していたので、昌幸は国許に帰還する希望を持っていたようです。

しかし、10年余り続いた流人生活は昌幸を衰えさせ、晩年は病気がちだったといいます。
慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死しました。享年65
死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだといいます。

墓所は長野県松代の長国寺で、上田の真田家廟所である長谷寺に納骨された経緯が記されています。

上田の長谷寺の真田家廟所

 



左から、真田幸隆夫人恭雲院、真田幸隆、真田昌幸の墓

真田 幸隆(さなだ ゆきたか/こうりゅう)
信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では「一徳斎」の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

恭雲院
海野棟綱や真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される。
『系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]。天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている。
天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡・佐久郡を支配していた織田家家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡・筑摩郡・木曽郡を与えられた木曽義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる。 

真田 昌幸
甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。
  (Wikipediaより)

 


 


 



また九度山の真田庵には、来月のツアーで行く予定でいます。

 

 

 

最後に・・・

 

草刈正雄さん、真田昌幸の熱演、お疲れ様でした!

 

 

 

 

 


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2016.09.29 Thursday 00:00 | comments(7) | - | 

信濃国分寺 第二次上田合戦 会見之地の碑

[ 長野 ]

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信濃国分寺の仁王門は、国道18号に面して、寺の境内地より入口に建っています。

仁王門



境内には、本堂をはじめ、三重塔・大黒天堂・鐘楼・観音堂・地蔵堂・宝蔵などの堂塔伽藍があります。

三重塔

 

高さ20.1メートル、和唐折衷様式の三重塔は国の重要文化財。

源頼朝の発願と伝えるほか、塔内には建久8年(1197年)の墨書があったと伝わり、様式から室町時代中期の建立と推定されています。

本堂



薬師堂、八日堂とも。1845年上棟した江戸末期の建造で、薬師如来を安置し、日光月光両菩薩を脇侍とし、十二神将を安置。
 

 


江戸初期の百体観音像を安置した観音堂の前に第二次上田合戦の会見之地の石碑が建っています。
 



第二次上田合戦の時、上田城に籠る真田昌幸・信繁父子と、東軍の使者として真田信幸と本多忠政が、会見した場所がこの信濃国分寺とされています。
 

 

この説明によると、国分寺の会見当時は三重塔以外は、粗末なお堂しかなかったそうです。

 

by shizuka

2016.09.12 Monday 07:00 | comments(4) | - | 

小松姫ゆかりの芳泉寺〜上田

[ 長野 ]

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慶長5年(1600)、会津討伐のため下野犬伏に布陣していた真田昌幸のもとに、石田三成が挙兵したという知らせが届きました。

昌幸は信幸・信繁を呼び寄せて話し合いをした結果、昌幸と信繁は西軍へ、信幸は東軍に付くことに決め、真田家は東西分かれて戦う事になりました。

これは信幸が徳川家の養女・小松姫を妻にしているのに対して、信繁は大谷吉嗣の娘を妻にしているため、このように東西に分かれる事になったと言われ、また、東西どちらが勝利しても真田家が生き残ることができるよう、意図的になされたとも言われています。

昌幸と信繁は徳川軍から離反して上田に帰る事にし、家康に従う信幸と袂を分かちました。

これを「犬伏の別れ」と言います。

 

さて「犬伏の別れ」の後・・

西軍についた昌幸が、東軍についた信幸の居城である沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望したそうです。

ところが留守を守る小松姫は鎧に身を包み、「義父であっても敵である。城に入れる事はできない」と断ったといいます。

しかたなく昌幸は引き上げ、近くに正覚寺で休憩を取っていると、そこへ小松姫が現れ、昌幸の願いを受け入れて孫と引き合わせたそうです。

この小松姫の筋を通した機転に、昌幸も大いに感心したと伝わります。

 

 

上田城近くの「芳泉寺」に、小松姫のお墓があります。

 

山門の天井には、徳川家の葵や真田家の六文銭の紋があります。

 

 

本堂

 

本堂左横から入ると

 

小松姫のお墓があります。

 

 

 

 

また上田城の南櫓にも、小松姫ゆかりの駕籠が展示されていました。

 

 

 

関ケ原で西軍が敗れて、昌幸・信繁が高野山:九度山へ追放されると、小松姫は食料や日用品などを送り、義父や義弟への配慮を怠らなかったと言われています。

小松姫の実父は猛将・本多忠勝なので、父ゆずりの勝気なイメージがありますが、案外優しくて良妻賢母だったようです。

 

 

      by  めりい

 

 

       


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2016.09.05 Monday 00:00 | comments(6) | - | 

日輪寺(上田)

[ 長野 ]
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日輪寺は天文14年(1545)、真田氏の祖とされる海野幸義によって創建され、幸義の法名・日輪寺殿から名付けられました。

真田昌幸が上田城に居城を移す際この地に移されたとされます。



山門を潜ると、正面に観音堂「普門閣」があり、 海野家の守り本尊・観音菩薩を安置しています。





観音堂


本堂は観音堂の手前の左側にあります。

本堂


ここにも六文銭が見られます。



勢至堂


天明3年(1783)、浅間山大噴火で犠牲になった人々を弔うため、海野町の仁右衛門が建立したもので、如意輪、勢至、聖観音像が安置されています。


by shizuka


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2016.07.20 Wednesday 00:52 | comments(3) | - | 

金昌寺(上田)

[ 長野 ]
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上田の金昌寺は、もとは武石村にあり、琴松寺と呼ばれていたものを真田昌幸が援助してこの地に移転したと伝えられています。





紅葉が綺麗でした。



境内には聖徳太子を祭る太子堂があり、彫刻家・竹内八十吉による鶴や亀、獅子、象などの彫刻が見られます。



信州のお寺で、境内に芝桜を植えてあるところを何軒か見ました。



また、キリシタンの墓と呼ばれるものがあります。



by shizuka



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2016.07.14 Thursday 06:26 | comments(8) | - | 
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