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新城の満光寺(2)徳川家康を助けたニワトリ

[ 愛知 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

宝永3年(1706)第9世住職・禅柱和尚の時、満光寺は拡張され、庭園も現在の景観に造られたとされています。

庭園は、小堀遠州流で、書院庭園(北庭)と庫裡庭園(東庭)の二庭から成り立ち、愛知県の指定文化財に選ばれています。


このお寺には徳川家康にまつわる有名な逸話も残されています。

元亀年間、徳川家康がまだ若かりし頃、武田信玄との戦いに敗れて落ち延びてきた時、満光寺を見つけ、住職に一夜の宿を頼むと、気の毒に思った住職が快く受け入れてくれました。そして、真夜中に鳴いたの声に、武田軍から命を助けられたと伝えられています。家康はその恩に報いるため、寺領三石の扶持を与え、その後の家光の時代には20石を与えたと言います。


満光寺では、今も小国という平安時代に遣唐使が中国から持ち帰った鶏の子孫であるという鶏を見ることができるそうです。
そういえば、鳴き声がしたのですが・・・
確認すれば良かったorz

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2017.04.06 Thursday 22:21 | comments(4) | - | 

新城の満光寺(1)鈴木重勝が再興した満光寺

[ 愛知 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

愛知県新城市にある満光寺は、奥三河七観音霊場の五番寺です。



山門は新城市の指定文化財に登録されています。

 


元々は天台宗のお寺として建立されましたが、戦火に焼かれ、天文2年(1533)今川義元の家臣・柿本城主鈴木長門守重勝により曹洞宗の寺として再興されました。

重勝は、井伊谷三人衆のひとり、鈴木重時の父であり、重時の嫡子・重好がわずか12歳で後を継ぎました。
また、重勝の娘が、井伊直満に嫁ぎ、井伊直親を生みました。

 



本堂には、十一面観世音菩薩が祀られています。



本堂の裏側に、鈴木重勝らの墓が祀られています。 

開基堂




右から、鈴木重勝と妻、鈴木重好(鈴木重時の嫡男)と妻の墓

 

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2017.04.05 Wednesday 07:00 | comments(2) | - | 

岡崎城

[ 愛知 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

徳川家康は、天文11年(1542)三河国岡崎城主・松平広忠の長男として岡崎城で生まれました。

しかし6歳で人質として駿河の今川氏へ行く途中で織田方に捕らえられ、その後人質交換で織田から今川に引き渡されるなど、苦難の幼少時を過ごしました。

その後今川氏の元で元服し、今川氏一族の娘・瀬名(後の築山殿)と結婚。

1560年の桶狭間の戦いでの今川義元死去を機に岡崎に帰った時には19歳になっていました。

 

岡崎城

 

城の前にあるのは、家康の遺訓「人の人生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし・・」

 

岡崎城の天守は、田中吉政が城主の時代に創建されましたが、その後地震で倒壊したと考えられています。
その後元和3年(1617)本田康紀が城主の時に三層三階、地下一階で東に井戸櫓、南に付け櫓を付属した複合天守が再建されましたが、250年余後の明治初期に破却。

現在の天守は昭和34年に再建されたものです。

 

この礎石は、田中吉政時代の天守の心柱の礎石だそうです。

 

天守台の石垣は野面積みで、これもかなり古いようです。

 

5階の展望室から眺める景色

 

 

 

お城の庭には、家康公の「えな塚」があります。

 

 

そして家康公「産湯の井戸」

 

 

岡崎城の周りは「岡崎公園」として整備されています。

 

三河武士のやかた家康館

 

岡崎公園の表玄関「大手門」

 

徳川家康公像

 

家康公・竹千代像ベンチ

 

徳川家康の生誕地にちなんで、岡崎公園内にはこのような竹千代像が多く見られました。

 

 

   by  めりい

 

 

 

 

 


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2017.03.13 Monday 00:00 | comments(4) | - | 

史蹟桶狭間古戦場〜豊明市

[ 愛知 ]

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名鉄「中京競馬場駅」で降りて徒歩数分の所に、豊明市の「史蹟桶狭間古戦場」があります。

 

 

 

公園に入ってすぐ「七石表(一号碑)」と書いた案内板があります。

これが、今川義元の戦死した場所を示す石碑だと伝わります。

 

その後ろには、今川義元のお墓もありました。

 

七石表は桶狭間の合戦で戦死した7人の武将の位置を表示しているそうです。

一号碑は「今川義元」の戦死した位置。
二号碑は、今川家の重臣「松井宗信」の戦死した位置。
三号碑〜七号碑は、氏名不詳の今川方の武将が戦死した位置。

公園の中を見ると、あちこちに石碑が点在しています。

 

名前が分からない武将が、この辺りでバタバタと倒れていたってことですね。

 

 

 

 

「史蹟桶狭間古戦場」の向かい側には、今川義元の本陣があったという「高徳院」があります。

 

山門をくぐって、すぐに目についたのがこの本陣跡の碑。
今川義元公の直系19代の子孫の方によって建てられたそうです。

 

その奥には本堂

 

山門の横には、今川義元三百回忌に建てられたという供養塔がありました。

 

 

ところで、今川勢2万5千、信長勢3千といわれる大勢の戦いなので、桶狭間古戦場はいくつあっても不思議ではないのですが、「今川義元本陣跡」や「義元公戦死の地」はやっぱりひとつでしょう。

名古屋市か豊明市か、さてどちらなのでしょう?

歴史のロマンですね。

 

 

       by  めりい

 




 


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2017.03.08 Wednesday 00:00 | comments(4) | - | 

桶狭間古戦場公園〜名古屋市

[ 愛知 ]

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名鉄「有松駅」から南に歩いて15分。

ここに、駿河・遠江・三河の三国を支配する有力大名・今川義元が、尾張の小大名・織田信長に討ち取られたという「桶狭間古戦場」があります。

 

永禄3年(1560)5月19日、駿河の今川義元が2万5千(諸説あり)の大軍を率いて尾張に迫ると、織田信長はわずか2千足らずの兵で奇襲をかけ、義元を討ち取りました。
戦国時代の勢力図を塗り替えるこの一戦が展開されたのが、ここ桶狭間です。

当時、桶狭間山の裾野であるこの辺りは深田であったといわれ、そこに足を取られた義元は、信長軍にあっけなく首をはねられたといいます。


桶狭間古戦場公園には、織田信長と今川義元の銅像があります。

 

 

公園の片隅にある「今川義元戦死の地」

この右側の墓石は、昭和28年(1953)に偶然発見されたもので駿公墓碣(すんこうぼけつ)」と刻まれています。

造られた年月は不明で、当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めてひっそり供養したものではないかと言われています。

 

 

「義元公 首洗いの泉」

今川義元公の首級をこの泉で洗い清めたと言われています。

 

 

 

首荒いの泉の後方から道に出ると、今川義元が本陣を置いていた桶狭間山への案内板があります。

ただし現在、桶狭間山は開発されて住宅地となっているため山はありませんが、住宅の前の急な坂道や段差が当時を物語っています。

 

その住宅地の一角に「今川義元本陣跡」の碑がたっていました。

 

 

 

実は桶狭間古戦場は、ここ名古屋だけでなく、お隣の豊明市にもあります。

 

次回は豊明市の「史蹟桶狭間古戦場」の記事を書きたいと思います。

 

 

    by めりい

 

 

 

 


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2017.03.06 Monday 00:00 | comments(4) | - | 

岡崎城(1)本多忠勝の像

[ 愛知 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ

岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、徳川家康の生地です。

別名「龍城」。

1452年(享徳元年)または1455年(康正元年)龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。

1531年(享禄4年)松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。

1542年(天文11年)城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。

存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となりました。

現在は本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、岡崎公園として整備され、天守などが復興され、市民の憩いの場になっています。









からくり時計




ここには、さまざまな家康の銅像があるのですが、家康の像以外にも、本多忠勝の像もあります。



伊勢・桑名藩主。三河生。通称は平八郎。

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられています。

兜は、鹿角脇立黒漆塗兜。

徳川家康に仕え、三河一向一揆、姉川の戦、長篠の戦等で戦功をあげました。

忠勝は娘の稲姫(小松殿)を徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁がせました。
この婚姻については、対立抗争を続けていた徳川家康と真田昌幸が、豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを機に、両家の関係を緊密にするためだったといわれています。

また、この婚姻自体が秀吉の意向によるものという説もあります。

by shizuka



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2016.05.16 Monday 11:55 | comments(3) | - | 

吉田松陰参拝した熱田神宮

[ 愛知 ]
JUGEMテーマ:大河ドラマ
 
吉田松陰は、江戸遊学の途中、名古屋市熱田区の熱田神宮に立ち寄って参拝したといいます。

熱田神宮は、伊勢神宮に次ぐ由緒ある大宮で、三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代とする天照大神です。
(剣は壇ノ浦の戦いで遺失したという説、神宮に保管されたままという説もあります)

本宮


本宮は神明造り、銅板葺きです。



西楽所




信長塀




太郎庵椿




江戸中期の茶人、高田太郎庵が愛好したことから名付けられた樹齢300,年を越えるヤブツバキの一種で、正門から入ってすぐ左手の下知我麻神社の庭にあります。

境内で有名な木の中には、樹齢1000年以上で、弘法大師のお手植えという大楠や、花は咲いても実のならないならずの梅などがあります。

ならずの梅




大楠


この地から桑名宿まで東海道では唯一の海上路でした。

by shizuka



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2015.01.21 Wednesday 10:00 | comments(8) | - | 

蜂須賀小六と秀吉 出会いの像

[ 愛知 ]
 
尾張の愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の農家に生まれた秀吉。
いろいろな仕事を転々とした後、今川義元の家来・松下嘉兵衛の下で奉公したのですが、上手くいかなくなり、その家から出ることとなりました。

尾張に向かう途中、秀吉は岡崎の矢作川(やはぎがわ)の橋で野武士の頭領・蜂須賀正勝(通称:小六)と出会いました。
失意の秀吉は今後、誰のもとに仕えればよいのか小六に尋ねると、小六は「織田信長」と答えました。
その後、秀吉は信長に仕え、小六は秀吉の下で働きました。

しかし、当時の矢作川は架橋されておらず、二人が橋の上で出会ったのは、後世の伝説だという説もあります。
一説では、秀吉が織田氏に仕える以前、秀吉の父・木下弥右衛門が小六の父・蜂須賀正利の配下であった縁で正勝に仕えたといいます。

岡崎の矢作橋には二人の出会いの像が建っています。



蜂須賀小六

小六は大永6年(1526年)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれました。
濃尾国境付近の土豪として木曽川筋の川並衆を掌握。斎藤道三、織田信賢、織田信清、織田信長に仕え、桶狭間の戦いにも参加。
やがて秀吉の家臣となり、墨俣城の築城に川並衆と協力し、越前天筒山城・金ヶ崎城攻め、近江横山城の攻略、および、長島一向一揆攻めで、秀吉に従軍して功績をあげ、秀吉が近江長浜城主となると、長浜領内に所領を与えられました。
上月城攻め、三木城攻め、因幡鳥取城攻めにも従軍して活躍し、その功により龍野城主となります。

備中高松城の水攻めの案や指揮は、官兵衛よりもむしろ小六が主導したともいわれています。
by しずか


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2014.02.21 Friday 15:17 | comments(6) | - | 

高須四兄弟と名古屋城

[ 愛知 ]
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 松平容保には、高須四兄弟と呼ばれる兄弟がいます。

兄・徳川慶勝(よしかつ)と茂徳(もちなが)は、美濃高須藩から尾張藩に養子に入り、慶勝は14代尾張藩藩主となり、勤王に走りました。

容保




慶勝



茂徳は、安政の大獄により、尾張藩主であった慶勝が隠居謹慎となったため、15代尾張藩藩主となりました。

茂徳



慶勝は、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、文久2年(1862年)に「悉皆御宥許」の身となり、上洛し、将軍家茂の補佐を命じられました。

茂徳は、実子が早世し、義宜(兄・慶勝の子)を養子としました。
文久3年(1863年)に隠居し、養子義宜に藩主を譲りました。
慶応2年(1866年)一橋家から徳川宗家を相続した慶喜に代わって、弟の松平容保の斡旋で一橋徳川家第10代当主となり、茂栄(もちはる)を名乗り、徳川慶喜の助命嘆願に尽力しました。

慶勝にしてみれば、実子の義宜が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握りました。
維新後、茂徳とともに、朝敵となった容保、定敬の助命に奔走しました。

また、容保には、桑名藩主で京都所司代を務めた弟・松平定敬(さだあき)もいます。

定敬



定敬は、文久3年(1863年)の将軍・徳川家茂の上洛の際には、京都警護を勤めるために随行。元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、京都守護職の容保、徳川慶喜と連携し、朝廷を援護する勢力を形成しました。

後に容保、定敬は、新政府軍に徹底抵抗し、戊辰戦争を戦うことになり、兄弟の運命は時代に翻弄されることになります。(Wikipedia参照)

名古屋城は、今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男・義直のために天下普請によって築城したとされています。東海道の要所として、また大阪方への備えとして加藤清正、福島正則、前田利光などの大名たちに土木工事を命じ、天守閣や諸櫓の建築工事は1612年にほぼ完成しました。
以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城となり、明治維新を迎えるまで栄えましたが、第二次世界大戦の昭和20年の名古屋大空襲の際、ほとんどの建物が消失してしまいました。幸い、三つの櫓、三つの門は消失を免れ、重要文化財となっています。

天守閣は昭和34年に再建されました。

名古屋城は、関ヶ原の合戦後、1609年、家康が東海道の要所として、また大阪方への備えとして加藤清正、福島正則、前田利光などの大名たちに土木工事を命じ、天守閣や諸櫓の建築工事は1612年にほぼ完成しました。
その後、明治維新を迎えるまで、徳川家の居城として栄えましたが、第二次世界大戦の昭和20年の名古屋大空襲の際、ほとんどの建物が消失してしまいました。幸い、三つの櫓、三つの門は消失を免れ、重要文化財となっています。







天守閣は昭和34年に再建されました。
シンボルはもちろん金の鯱です。

城に鯱を掲げるようになった室町時代当初は、火除けの呪いであったのが、後に城主の権威の象徴となったそうです。




資料館に展示されている金の鯱


消失を免れた表二之門、西南隅櫓です。

表二之門は、門柱、冠木とも鉄板張り。
袖塀は土塀で鉄砲狭間を開いて要害としての堅固さを示しています。





西南隅櫓は、屋根二層、内部三階。
西、南両面に軍事用の「石落とし」を張り出し屋根を付けています。
濃尾地震で崩壊しましたが、修理復旧されました。







加藤清正の像

天守閣の石塁の構築を命じられた加藤清正は、巨石の運搬し際し、自ら音頭をとって木遣を歌わせ民衆の引網をとって運んだと伝えられていますが、この石塁の施工大名は黒田長政なので、単なる説話ではないかということです。



清正石


石垣には記号を刻んだ石があちこちにあり、これは築城にあたった大名たちが、自分の運んだ石を他の大名のものと区別するためにつけた目印だそうです。



by しずか

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2013.04.03 Wednesday 00:00 | comments(5) | - | 

頼朝産湯の井戸・龍泉寺の亀井水(愛知県)

[ 愛知 ]
 源頼朝生誕地といえば、熱田の誓願寺というのが通説ですが、瑞穂区井戸田町の龍泉寺にも頼朝産湯の井戸と伝わる亀井水があります。

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亀井水(かめいすい)

「府城の南一里三十町(約7キロ余)本井戸田なる村あり。井水すべて清らかなり。名ある清水七ヶ所ばかりあれど、亀井という清水こそ、名高くうるはし」(尾張志)。
龍泉寺山門の脇にある亀井水はまた、源頼朝の産湯の水を汲んだ井戸とも伝えられている。
第二次大戦後しばらくの間名の通り、「亀」が水面をおおうほどに無数に生息していたものである。
(案内板より)

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龍泉寺(りょうせんじ)

行基菩薩の開基した真言宗薬師寺である。
平安時代に弘法大師の巡錫があり、密教道場として薬師寺に、龍泉庵、龍雲庵、妙善庵、福伝庵、蔵伝庵の五つが開かれた。
いつしか本寺と塔頭(たっちゅう)は滅び、その中の龍泉寺のみが残り、室町時代に亀井山(きせいざん)龍泉寺となる。
室町時代の末に、妙仙和尚(永禄2(1519)年に寂)の時、熱田の曹洞宗捕陀山円通寺の末寺となる。
ご本尊薬師如来は聖徳太子の御作、脇仏の不動明王は弘法大師の御作、地蔵菩薩は聖徳太子の御作。
(案内板より)

歯痛地蔵

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このお地蔵さんを撫でると歯の痛みが治まるといわれています。
このお地蔵さんは、太平洋戦争よる爆撃によって顔の半分を失い、体もまっぷたに割れ、龍泉寺の本堂も燃えてしまったそうです。

by shizuka

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2012.10.26 Friday 00:39 | comments(5) | - | 
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