文政10年(1827)、ジョン万次郎は土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の漁師悦助の二男として生まれました。
8歳の頃に父が亡くなったため、幼い頃より働いて病弱な母と兄を助けたと伝わります。
土佐清水市中浜地区にたつ「中浜万次郎生誕地」の碑
復元された万次郎の生家
しかし万次郎が14歳の時、仲間4人とともに漁船に乗って操業中に嵐に遭って遭難。
5日間漂流してたどり着いたのは現在の伊豆諸島の「鳥島」でした。
九死に一生を得て島に上陸したと言っても、そこは無人島。
食料はもちろん、飲み水さえ事欠くサバイバルな生活が待ち受けていました。
そんな日々を143日間耐え抜いたある日、米国捕鯨船が島の近くを通りかかりました。
万次郎たちは船に向かって、必死に助けを求めたのは言うまでもありません。
「万次郎少年像」(土佐清水市 ジョン万次郎資料館)
しかし米国捕鯨船には気づいてもらえず、仲間の誰もが諦めましたが、万次郎ひとりは諦めずに島を3kmも走り、船に合図を送り続けたといいます。
捕鯨船に救助された5人は、寄港したハワイで降りましたが、ホイットフィールド船長は、5人の中でも一番若く活動的で知恵がある万次郎を気に入り、また本人の希望もありアメリカへ連れて行きました。
当時日本は鎖国政策をとっていたため、残る4人は日本へ帰る方法もなく、ハワイに滞在しました。
さて万次郎はホイットフィールド船長の自宅があるマサチューセッツ州フェアヘーブンで暮らし、16歳で小学校へ、そして17歳で専門学校へ進学しました。
そこで航海術、測量術などを学び、19歳から捕鯨船に乗り、21歳には一等航海士となり副船長を務めました。
ジョン万次郎資料館には、その当時の生活をしのばせる資料が展示されています。
が・・写真NG。
ここだけは記念撮影コーナーです。
教育を受けて、仕事を得て、これでアメリカ社会で生きていく基盤ができたのですが、しかし万次郎の最終目標は「帰国」でした。
土佐で暮らしている病弱な母と兄が心配だったのでしょうね。
万次郎は、さらに帰国資金を稼ぐためゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに向かい、金鉱で600ドルを入手しました。
そしてその資金を持ってハワイの仲間を迎えに行き、小舟「アドベンチャー号」を買い求めて、小舟とともに上海行きの商船に乗船しました。
この時万次郎は23歳。
(ただしハワイに滞在していた4人のうち1人は死亡、1人はハワイで永住を希望したため、3人で出港しました)
商船が日本近海に差し掛かった時、3人は船から降りてアドベンチャー号に乗り換えて島に上陸。
そこは当時薩摩の統治下にあった琉球でした。
海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎たちは、薩摩藩の取調べを受けるため薩摩本土に送られました。
その時薩摩藩主であったのが、開明家であり西洋文化に興味を持つ島津斉彬でした。
斉彬は、万次郎たちから海外の情勢や文化などを聞き、中でも造船知識や英語力に注目して薩摩藩に取り入れたといいます。
万次郎たちは、薩摩藩での取調べの後さらに長崎に送られ、土佐から迎えに来た役人に引き取られて帰郷しましたが、さらに高知城下で河田小滝の聞き取りを受けるため2ヵ月滞在し、やっと中浜に帰る事が許されたといいます。
漂流していから11年、鎖国の日本に帰国してから1年半経過した嘉永5年(1852)、ようやく念願の母と再会。
万次郎は25歳になっていました。
足摺岬にたつ中濱万次郎像
帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、さらに嘉永6年(1853)黒船来航への対応に迫られた幕府からの召喚で旗本になりました。
その祭、生まれ故郷の地名「中濱」を苗字として「中濱万次郎」を名乗ることになります。
中濱万次郎は、軍艦教授所の教授に任命され、造船の指揮・測量術・航海術などを指導。
また英語の教授・通訳・翻訳など精力的に働き、幕末の志士や知識人たちに多大な影響を与えました。
波乱万丈の人生を不屈の精神で生き抜いた万次郎は、明治31年に72歳で死去しました。
お城・史跡 ブログランキングへ
応援のクリックお願いします。m(__)m