大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< December 2018 >>
商品紹介
更新履歴
記録之分類
過去之記録
最近之評論
記録之輪
友達之輪
作者紹介
余他
無料ブログ作成サービス JUGEM
人形町の西郷隆盛屋敷跡

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

現在、人形町の魚久本店〜日本橋小学校のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様、酒井氏の屋敷がありました。

IMG_1308 西郷隆盛屋敷跡

そして、明治の初期、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、人形町から小網町、蛎殻町辺りに、西郷がおよそ二年間、書生15人、下男7人と住んでいました。

魚久本店と日本橋小学校の前に説明板があります。

魚久本店
IMG_1304 西郷隆盛屋敷跡

IMG_1302 2018_05_02

日本橋小学校
IMG_1300 西郷隆盛屋敷跡

IMG_1301 西郷隆盛屋敷跡

IMG_1299 西郷隆盛屋敷跡

西郷隆盛屋敷跡
 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827〜1877)の屋敷がありました。
 明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
 維新後、西郷隆盛は郷里鹿児島にいましたが、明治4年(1871)に新政府から請われて上京し、参議に就任、同明治4年(1871)年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
 明治6年(1873)になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の施設派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治6年の改変)。
 下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年(1877)に西南戦争を起こし自害しました。
 平成19年3月 中央区教育委員会

IMG_1305 蛎殻町

IMG_1313 人形町

IMG_1312 口入宿
 


お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

| 東京 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
千疋屋と西郷隆盛

JUGEMテーマ:大河ドラマ

誰もが知っている高級フルーツ店といえば、千疋屋さんですね。

かつては、徳川御用達商を務めていたそうです。

甘いものを好んで食し、明治初期に人形町を生活の拠点としていた西郷隆盛が近所にあった千疋屋によく西瓜を買いに来たという逸話が残っています。

そこで、日本橋の千疋屋総本店に向かってみました。

IMG_1283 千疋屋

1834年(天保5年)、武蔵国埼玉郡千疋の郷(現在の埼玉県越谷市千疋)の侍であった初代大島弁蔵が 江戸、葺屋町(現日本橋人形町3丁目)に「水菓子安うり処」の看板を掲げ、果物と野菜類を商う店を構えたのが始まりで、1867年(慶応3年)に日本橋本町(室町)に店を移し、日本初の果物専門店となり、現在に至るそうです。

すると、入り口にこんな張り紙が。

IMG_1284 千疋屋

これはなんてラッキーなんでしょう!
屋敷跡までは調べてなかったので、嬉しい情報です!

その前に、せっかくここまで来たので、2Fのフルーツパーラーで休憩がてらランチでもと思ったのですが、大行列で、待ち時間50分と聞いて断念。

IMG_1287 千疋屋

同じく千疋屋さん経営の1Fの「カフェディフェスタ」でランチとスイーツをいただきました。

こちらはセルフ式お手頃価格のカジュアルな雰囲気のカフェです。

パイナップル入りのアラビアータと季節のフルーツのパフェ

IMG_1288 千疋屋

IMG_1289 千疋屋

お値段の割に本格的なお味。

待ち時間もなく座れましたし、意外と穴場なのかもしれませんね。


お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

| 東京 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷従道の邸跡(3)菅刈公園の和館

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

では、和館に行ってみましょう。

IMG_0367 和館

復元された日本庭園

IMG_0368 菅刈公園

庭園は、初夏の花に彩られ、

IMG_0370 菅刈公園

IMG_0371 菅刈公園

池には、カモや鯉が泳いでいます。

IMG_0374 菅刈公園

IMG_0375 菅刈公園

IMG_0380 菅刈公園

和館には、菅刈公園の成り立ちや西郷従道に関する資料を見ることができる展示室、庭園を一望することができる庭園展望室、お茶会・華道・句会などの利用に有料で貸し出している和室などがあります。

IMG_0379 菅刈公園

IMG_0381 菅刈公園

資料館

洋館の仕組み
IMG_0387 洋館の仕組み

明治期の様子
IMG_0383 明治期の様子

従道の書
IMG_0391 従道の書
 


お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m
| 東京 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷従道の邸跡(2)菅刈公園

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

続いてかつて西郷邸の和館や洋館があった菅刈公園(すげかりこうえん)へ。

IMG_0352 菅刈公園

青葉台二丁目のこのあたりは、江戸時代には「荒城の月」で知られる豊後国岡藩藩主・中川氏の下屋敷があったところであり、滝や池のある回遊式の大名庭園として、江戸時代の地誌に江戸の名所として紹介されていました。
その後、明治7年に西郷従道(じゅうどう)がこの土地を購入し、フランス人レスカスの設計による洋館と書院造りの和館が並んでいました。庭園についても、池・滝・大芝生地など大改修が行われ、「東都一の名園」と言われました。その後西郷家は1941年に渋谷に移転し、旧国鉄の職員宿舎などとなっていましたが、1997年に目黒区が土地を取得、公園として整備され、2001年3月31日に開園。
園内には芝生広場・子どもの遊び場・展示室・和室・庭園展望室をそなえた和館が設置されています。
(目黒区HP、Wikipedia参照)

IMG_0353 菅刈公園

IMG_0354 菅刈公園

IMG_0362 菅刈公園

IMG_0360 菅刈公園

IMG_0361 菅刈公園

園内には巨木が何本かあります。

IMG_0355 菅刈公園

IMG_0363 菅刈公園

IMG_0364 菅刈公園

IMG_0363 菅刈公園2

春は、桜の名所としても知られているそうです。

IMG_0357 しだれ桜

IMG_0358 しだれ桜

IMG_0359 しだれ桜


お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m
| 東京 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷従道の邸跡(1)西郷山公園

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

渋谷駅より東急トランセの代官山循環線で、「西郷橋」下車。

 





目黒区青葉台の西郷山公園を訪ねました。

 

 

 



旧山手通り側(東側)の入り口には、「グリーンカフェ西郷山」があります。

 



この一帯は幕末には豊後国岡藩主・中川氏の抱え屋敷であったところであり、明治時代、この土地が旧西郷邸、西郷隆盛の弟の西郷従道(じゅうどう)の敷地の北東部分にあたり、付近の人々が「西郷山」という通称で親しまれていたところから西郷山公園と呼ばれるようになりました。

 


 

斜面を利用してつくられた公園で、斜面には人工の滝が作られているほか、展望台や遊具が設けられています。

 



冬のよく晴れた日には遠くの富士山も望めるそうです。

 



西郷従道が兄・隆盛の再起を願って当地付近を購入。
しかし、西南戦争により隆盛が他界したため、従道自身の別邸として利用することになりました。
その後西郷家は1941年に渋谷に移転した為、当時の鉄道省(戦後の日本国有鉄道)の手に渡り、また第二次世界大戦による空襲により和館が焼失してしまいました。残された洋館は1963年に愛知県犬山市にある明治村に移築され、現在は国の重要文化財に指定されています。
第二次世界大戦終了後、1950年代には日本プロ野球の国鉄スワローズ選手合宿所として使用されたこともあったといいます。
その後、邸宅跡地の一部分が公園として整備され、西郷山公園として1981年5月28日に開園し、現在に至っています。

 





西郷山公園の由来
この付近は、明治のはじめ西郷従道が、郷里鹿児島に帰った兄隆盛の再起を願って、入手したものであります。
西郷隆盛が没した後、この地に従道が別邸を造りました。
当時は、約6万平方米の敷地に、洋館・和館などが建てられ、池のある回遊式の庭園は、付近随一の名園といわれ、いつしか人々は、この一帯を「西郷山」と呼ぶようになりました。
この旧西郷邸の跡地の一部に、目黒区が公園を造ることを伝え聞いた鹿児島県や県下14市から、西郷さんゆかりの地であるこの公園に、ぜひ記念樹を植えたいとして、約2百本の樹木が寄贈されました。
これらは、当公園の北側に鹿児島記念樹コーナーとして植樹されております。
この公園の建設に際し、ご協力いただきました関係各位に深く感謝の意を表すると共に、多くの人びとが利用されるよう願うものであります。

寄贈県市名
鹿児島県 鹿児島市 川内市 鹿屋市 枕崎市 串木野市 阿久根市 名瀬市 出水市 大口市 指宿市 加世田市 国分市 
西之表市 垂水市

昭和56年5月吉日
目黒区長 塚本俊雄

ドラマ「東京ラブストーリー」をはじめ、ドラマのロケの場として使われていることでも知られています。

なお、かつて西郷邸の和館や洋館があった場所は近接してある菅刈公園付近にあたります。

 

 

 


お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m
| 東京 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
円通寺 彰義隊の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

また彰義隊士の墓があります。

彰義隊士の墓



慶応四年(1868)五月十五日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、当寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をいただけた。
これが、逆に明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となった。
「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬(現在でも記念碑があるが、火葬場所で墓では無い)
遺骸266体を当寺に埋葬する。(円通寺サイトより)
 

 

IMG_1114 彰義隊士の墓

死節之墓


彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたが、当寺に移築されたもの。
やはり賊軍にて、おおぴらな供養が当時は出来なかった為と思われる。しかし官許のある当寺に移築する事により、彰義隊と合わせて供養が出来ることになった。

土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。(円通寺サイトより)

三河屋幸三郎の墓


文政6年生まれ。江戸神田の雑貨商。横浜での貿易で巨富をえる。上野戦争のあと,放置されていた彰義隊の戦死者を千住三ノ輪の円通寺に埋葬。三幸の通称で,侠商として旧幕臣らにしたわれた。明治22年5月5日死去。67歳。伊豆(いず)八丈島(東京都)出身。姓は浅岡。 (コトバンクより)
三幸、又は親分檀家などと呼ばれた、侠骨の義商。当寺に彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力した、その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力した。「死節之墓」は三河屋の別宅に在った物。(円通寺サイトより)

大鳥圭介の墓



江戸末期〜明治初期の軍人,政治家,外交官。播磨(はりま)赤穂の医師の家に生まれ,緒方洪庵の適々斎塾を経て,江川太郎左衛門に師事。江川の推薦を得て幕臣となり,戊辰戦争では榎本武揚に従う。明治政府出仕後は開拓使御用掛,工部大学長,学習院長,華族女学校長などを歴任,1889年特命全権公使として清国に渡り,日清戦争前夜の外交工作を画策。(コトバンクより)

松平太郎の墓


旧幕臣・陸軍奉行、榎本武揚らと函館を占領した。
蝦夷島「副総裁」に選出される。(総裁は榎本武揚)
西洋かぶれと目される榎本・大鳥に反感をもっていた幕臣の票が集まった為と思われる。

土方歳三らと「一本木」にて交戦するが敗走し五稜郭に戻る。

最後まで抵抗を主張するが榎本に説得され降伏する。
のち、静岡に隠遁して余生を送る。(円通寺サイトより)

小芝長之助
IMG_1132 小芝長之助

将軍家御庭番を務めていたが、戊辰戦争が勃発し、慶応4年(1868年)4月11日に江戸城の無血開城が決定すると、憤激のあまり城内に放火して脱走した過激派。
榎本武揚艦隊の蝦夷地渡航に同行し、箱館政権(蝦夷共和国)下では探索役主任と陸軍奉行並土方歳三の管轄である箱館市中取締役を兼任。
土方の戦死の知らせを聞いて、本営五稜郭より一本木関門まで遺体を引き取りに行った。
箱館戦争降伏後、松江藩預かりとなり、明治4年(1871年)4月に赦免。晩年、東京三ノ輪円通寺の墓守として生活していた。
大正元年(1912年)頃、日野の土方家を突然訪れ、土方歳三の位牌を目の前にして泣き崩れたと言う。その4年後、死去。享年88。(Wikipediaより)

新門辰五郎の碑
IMG_1129 新門辰五郎

幕末維新期の侠客。江戸町火消しの元締。本名町田辰五郎。錺職人の子として下谷に生まれ,上野輪王寺の寺僧町田仁右衛門の養子になる。鳶人足から人足頭,町火消十番組の頭になり,浅草寺の門番も勤める。江戸の火消しには幕府の定火消し,大名火消し,裕福な町衆が金を出しあって雇う町火消しの別があり,町火消しは下位に立たされていたが,辰五郎は浅草の香具師,大道芸人などから入る金を背景に勇み肌の男たちを十番組に配し,柳川藩の大名火消し相手の喧嘩で18名を死傷させて勇名をはせ,この罪で江戸所払になる。夜な夜な妻妾のところに戻るのが露見して捕まり,拷問されたが屈せず佃島人足寄場に送られる。弘化3(1846)年の本郷丸山火事で佃島に火が入ると,囚人を小金井小次郎らと指揮して消火に貢献,赦免される。 娘が将軍徳川慶喜の妾になっている縁で慶応年間(1865〜68),子分300人を連れて将軍警備で京都に行く。京都では河原町,大坂では堂島に居を構え,妾も置いて,将軍お抱えの江戸の親分として羽振りをきかせた。鳥羽伏見の戦に敗れて開陽丸で江戸に敗走する慶喜から,大坂城に忘れてきた馬印の大金扇を取ってくることを命じられ,これを持って子分と共に陸路東海道を江戸に着いた。慶喜が水戸に謹慎になった際,2万両の甲州金を輸送し,徳川家の駿府(静岡県)移住にも付き従い,最後まで佐幕派の義理を守った。浅草の自宅で没。


余談ですが・・・1963年3月に発生しした吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られ、敷地内に被害者の慰霊地蔵・よしのぶ地蔵があります。

IMG_1113 よしのぶ地蔵


一方、昭和13年、上野公園の寛永寺総門の黒門跡に、蜀山人の歌碑が建てられました。

 

| 東京 | 15:47 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
円通寺 寛永寺から移築した黒門

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 


東京都荒川区南千住の円通寺
 

 



寺伝によれば、延暦10年(791年)、坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。

巨大な観音像


 

 



明治維新の折、慶応4年(1868年)の戊辰戦争(上野戦争)で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりで、当寺の住職が火葬を行いました。
 

 

IMG_1145 円通寺

そのため、当寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、彰義隊士の墓もあります。

黒門

IMG_1107 黒門

慶応4年(1868年)5月15日上野東台に於て、彰義隊と官軍の激戦が展開され、その中心地に建っていたのが、この黒門です。
明治40年10月、帝室博物館より特に当寺に下賜せられたもの。
 

 

IMG_1108 黒門

弾痕が激戦を物語っています。
 

 


 

 



 

by しずか

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

| 東京 | 22:29 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷隆盛像と寛永寺

JUGEMテーマ:大河ドラマ

10月7日 第37回「江戸無血開城」が一週間遅れで放送されました。

 

吉之助は、三人に会いました。

 

天璋院からは「徳川を滅ぼさないでほしい」と頼まれました。

薩摩藩邸で勝からは「抵抗はしないので、江戸城を攻めないでほしい」

寛永寺で将軍:慶喜に面会して慶喜からは「戦わなかったのは、外国から日本を守るためだ」

 

西郷は、戦わずして江戸幕府を終わらせようと心に決めましたが戊辰戦争が起こってしまいます。

 

西郷が将軍:慶喜に面会した寛永寺は、3代家光の時(寛永2、1625年)に建立されました。
徳川家の菩提寺として増上寺とともに発展していき、最盛期の江戸時代後期には、上野公園のほぼ全域が境内となるくらい広大なものでした。

上野の山は、幕末の1868年(慶応4)の彰義隊と政府軍との戦いの場となり、幕府軍の敗北で終わり、主な建物は焼失してしまいました。

幕府軍の最高責任者の徳川慶喜が蟄居していた部屋が今でも保存されています。
明治維新後、境内は没収され公園用地となり寺は廃止状態におちぶれてしまいました。1875(明治6)年に本堂が復興されましたが、寺の規模は大幅に縮小されてしまいました。

 

寛永寺表門

 

 
根本中堂

 
彰義隊墓

 


 

上野公園 西郷隆盛像

 

 

 

 

 

 

| 東京 | 13:39 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
勝海舟ゆかりの四合(しあわせ)稲荷

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

六本木一丁目で下車し、ビルの合間を通り抜けて行くと、緑に囲まれた森に赤坂の氷川神社あります。





元禄の頃、この地は、忠臣蔵・浅野内匠頭の夫人 瑤泉院の実家である浅野土佐守邸跡で、大石内蔵助が討ち入り前に訪れて別れを告げたといわれています。

内匠頭切腹後、瑤泉院はここに預けられていました。

「雪の別れ」で有名な南部坂が近くにあります。
 
氷川神社社殿




この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。

江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗によって享保15年(1730年)に建てられました。
吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。
通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。
しかしただ簡素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。
また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。  
     平成22年(2010年)3月 東京都教育委員会 
 
氷川神社の境内に
勝海舟四合(しあわせ)稲荷名付けたという神社があります。
 


明治31年(1898年)、古呂故稲荷・地頭稲荷・本氷川稲荷・玉川稲荷の四社が合祀されています。
 


四合稲荷神社 御祭神: 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

1.古呂故(ころこ)稲荷 : 赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座
2.地頭(じぬし)稲荷 : 氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座
3.本(もと)氷川稲荷 : 本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座
4.玉川(たまがわ)稲荷 : 赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座
以上の四社を明治31年遷座合祀し、幕末より赤坂在住の勝海舟により、『四合(しあわせ)稲荷』と称えられた。 大正14年に、鈴降(すずふり)稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)、及び縁起(えんぎ)稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)の二社を、 また昭和9年に明徳(めいとく)稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を遷座合祀し、現在に至っている。 勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額も現存する。
(案内板より)

 

 

by しずか

 

お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

 

| 東京 | 11:12 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
勝海舟生誕の地〜東京都墨田区

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

東京都内を流れる隅田川。そのほとりに、勝海舟の像が建っています。

 

 

 

 

勝海舟は文政6年(1823)旗本・勝小吉の長男として江戸本所(東京都墨田区)に生まれました。
旗本とはいうものの、下級武士であるため、貧しい少年時代を過ごしたといいます。 


両国公園の一角に生誕の地の碑が建っています。
勝海舟生誕の地の碑


しかし貧しい少年時代でありながらも、島田虎之助に直心影流の剣術を学び、また永井青崖に弟子入りして蘭学を学びました。

神社の境内で夜通し剣術の稽古をしたという牛嶋神社跡

 


剣の師匠の勧めで禅修行にも励んだという弘福寺



万延元年(1860)勝海舟は、福沢諭吉らとともに、幕府の軍艦でアメリカに渡航するというチャンスに恵まれます。
アメリカで見たすべての事は大きな驚きであったでしょうし、大きな収穫もあった事でしょう。


その後は幕府の中で、広い視野を持つ開明派として活躍し、江戸城無血開城という大きな功績を残しました。

 

 

 


 


お城・史跡 ブログランキングへ

応援のクリックお願いします。m(__)m

 

 

 

 

 

| 東京 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP