大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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徳川慶喜の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

徳川慶喜の墓は、寛永寺の墓地である谷中墓地にあります。

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慶喜は華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため、自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残し、一般皇族と同じような円墳が建てられました。

中に入ることはできませんが、門越しに見ることはできます。

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正面には徳川慶喜公事蹟顕彰碑があります。

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その奥の左側が徳川慶喜の墓で、右にあるのが美賀子夫人の墓です。

慶喜の墓

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美賀子夫人の墓

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徳川慶喜墓

徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応二年(1866)、第一五代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応四年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。
明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
 お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。(東京都教育委員会)


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| 東京 | 10:08 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
徳川慶喜終焉の地

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

西郷どんの最終回に、久しぶりにヒー様こと徳川慶喜が登場しましたね。

描いていたのは、何と「牛男」の絵という面白い場面でした(^^ゞ

その慶喜の終焉の地を数年前に訪ねました。

晩年の有爵者大礼服を着た慶喜
Yoshinobu_Tokugawa_2.jpg

東京都文京区春日2丁目の、国際仏教学大学院大学の前に、「徳川慶喜終焉の地」の案内板が立っています。

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徳川慶喜終焉の地  春日2-8
 
徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
その後、御三家の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、駿府(静岡)に隠棲した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
慶喜は、後に公爵、勲一等旭日大勲章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。

 
文京区教育委員会 平成19年3月

文京区コミュニティバス「Bーぐる」を使うと便利です。

http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_kumin_jigyou_b-guru.html


徳川慶喜の余生
明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍たちとは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で、旧幕臣の訪問を受けても渋沢栄一など一部の例外を除いては、ほとんど会おうとしなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で、「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。
明治30年(1897年)11月に東京の巣鴨に移り住む。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。
明治34年(1901年)12月に小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷に転居し、ここが終焉の地となった。現在、敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになった。
明治43年(1910年)12月8日、七男の慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。
大正2年(1913年)11月22日、感冒(急性肺炎を併発した)にて死去。享年77(満76歳25日)。徳川歴代将軍としては最長命であった。 (Wikipediaより)


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| 東京 | 08:37 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大久保利通の墓

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

1878年(明治11年)5月14日、紀尾井坂で暗殺された大久保利通の墓は、東京都港区の青山霊園にあります。


5月15日に大久保に正二位右大臣が追贈され、大久保および御者の中村の慰霊式が行われ、17日に両者の葬儀が行われました。

大久保の葬儀は大久保邸に会する者1,200名近く、費用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀となりましたが、西郷隆盛と敵対していた大久保は故郷には受け入れられず、遺骨は鹿児島に帰されませんでした。

大久保の墓の入り口には、鳥居があり、広大な青山霊園の敷地の中でも別格の規模の墓となっています。

IMG_4217 大久保利通の墓

「贈右大臣正二位大久保公墓」とあります。

IMG_4218 大久保利通の墓

台座が亀の形をしている亀趺墓(きふぼ)となっています。

IMG_4217 大久保利通の墓2

「趺 (ふ)」とは石碑の台のことで、それが亀型である「亀趺」は、中国では1500年以上前から用いられており、現在も中国の石碑にはよく見られ、日本では、江戸時代に伝わって以降、大名家の墓に使われているそうです。

IMG_4216 大久保利通の墓

東京都指定旧跡 大久保利通墓

大久保利通(1830−1879)は鹿児島藩大久保利世の長男として鍛冶屋町に生まれました。西郷隆盛とともに公武合体運動から倒幕運動に進み、岩倉具視らとは、王政復古を成功させます。明治政府が成立すると参与・参議として中核を担いました。明治四年に岩倉欧米使節団の副使として諸外国をめぐり、帰国後は内政の充実を唱え征韓論の西郷らと対立します。内務卿として権限を振るい、佐賀の乱や西南戦争などの反政府騒動を鎮圧する一方、地租改正反対一揆に対して地租を引き下げて農民を擁護し、板垣退助らと国会開設などの協議(大阪会議)を行います。大久保は、官僚政治家として日本の資本主義国家への基礎を築きましたが、明治11年、島田一郎らに紀尾井坂で暗殺されました。
西郷隆盛・木戸孝允とともに、明治維新の三傑といわれています。
平成24年3月 建設 東京都教育委員会


青銅製の顕彰碑もあります。

IMG_4220 大久保利通の墓

 


 


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| 東京 | 08:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大久保利通の最期〜紀尾井坂の変

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。

現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。

 

 

午前8時ごろ、大久保の馬車が紀尾井坂にさしかかったところ、男2人が、いきなり刀で馬の前脚に斬りつけてきました。

馬車が急停車すると、さらに他の男4人が手に短刀を握って馬車に走り寄り、扉から出ようとした大久保の眉間を斬りつけ馬車から引きずり出し滅多切りにしました。

こうして大久保は49歳の生涯を閉じたのです。

暗殺された時、大久保の懐中には西郷の書簡があり、それが血で真っ赤になっていたと、後に高島鞆之助が語っています。


下手人は、石川県士族島田一良ら6名。

実行犯が懐中にしていた趣意書は、有司専制や政治の私物化、国財の浪費や外交政策に憤り、これを進める「奸吏」の巨魁として大久保を倒すと記されていました。

彼らは、かねて鹿児島私学校派に共鳴し、西南戦争に呼応挙兵をするつもりでしたが果たせず、大久保暗殺に計画を切り替えたといいます。

同年7月、全員斬罪に処せられました。

 

 

 

 

 

明治21年(1888)、大久保利通の遺徳をしのび業績を称えるため、大久保の同僚であった官僚たちによって、暗殺現場周辺のこの場所に「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建設されました。

 

 

 

(参考図書)

小川原正道著・西南戦争

芳即正・毛利敏彦編著・西郷隆盛と大久保利通

 

 

 

 

 

 


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| 東京 | 19:58 | comments(1) | - |- pookmark↑PAGE TOP
人形町の西郷隆盛屋敷跡

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現在、人形町の魚久本店〜日本橋小学校のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様、酒井氏の屋敷がありました。

IMG_1308 西郷隆盛屋敷跡

そして、明治の初期、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、人形町から小網町、蛎殻町辺りに、西郷がおよそ二年間、書生15人、下男7人と住んでいました。

魚久本店と日本橋小学校の前に説明板があります。

魚久本店
IMG_1304 西郷隆盛屋敷跡

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日本橋小学校
IMG_1300 西郷隆盛屋敷跡

IMG_1301 西郷隆盛屋敷跡

IMG_1299 西郷隆盛屋敷跡

西郷隆盛屋敷跡
 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827〜1877)の屋敷がありました。
 明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
 維新後、西郷隆盛は郷里鹿児島にいましたが、明治4年(1871)に新政府から請われて上京し、参議に就任、同明治4年(1871)年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
 明治6年(1873)になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の施設派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治6年の改変)。
 下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年(1877)に西南戦争を起こし自害しました。
 平成19年3月 中央区教育委員会

IMG_1305 蛎殻町

IMG_1313 人形町

IMG_1312 口入宿
 


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| 東京 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
千疋屋と西郷隆盛

JUGEMテーマ:大河ドラマ

誰もが知っている高級フルーツ店といえば、千疋屋さんですね。

かつては、徳川御用達商を務めていたそうです。

甘いものを好んで食し、明治初期に人形町を生活の拠点としていた西郷隆盛が近所にあった千疋屋によく西瓜を買いに来たという逸話が残っています。

そこで、日本橋の千疋屋総本店に向かってみました。

IMG_1283 千疋屋

1834年(天保5年)、武蔵国埼玉郡千疋の郷(現在の埼玉県越谷市千疋)の侍であった初代大島弁蔵が 江戸、葺屋町(現日本橋人形町3丁目)に「水菓子安うり処」の看板を掲げ、果物と野菜類を商う店を構えたのが始まりで、1867年(慶応3年)に日本橋本町(室町)に店を移し、日本初の果物専門店となり、現在に至るそうです。

すると、入り口にこんな張り紙が。

IMG_1284 千疋屋

これはなんてラッキーなんでしょう!
屋敷跡までは調べてなかったので、嬉しい情報です!

その前に、せっかくここまで来たので、2Fのフルーツパーラーで休憩がてらランチでもと思ったのですが、大行列で、待ち時間50分と聞いて断念。

IMG_1287 千疋屋

同じく千疋屋さん経営の1Fの「カフェディフェスタ」でランチとスイーツをいただきました。

こちらはセルフ式お手頃価格のカジュアルな雰囲気のカフェです。

パイナップル入りのアラビアータと季節のフルーツのパフェ

IMG_1288 千疋屋

IMG_1289 千疋屋

お値段の割に本格的なお味。

待ち時間もなく座れましたし、意外と穴場なのかもしれませんね。


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| 東京 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷従道の邸跡(3)菅刈公園の和館

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では、和館に行ってみましょう。

IMG_0367 和館

復元された日本庭園

IMG_0368 菅刈公園

庭園は、初夏の花に彩られ、

IMG_0370 菅刈公園

IMG_0371 菅刈公園

池には、カモや鯉が泳いでいます。

IMG_0374 菅刈公園

IMG_0375 菅刈公園

IMG_0380 菅刈公園

和館には、菅刈公園の成り立ちや西郷従道に関する資料を見ることができる展示室、庭園を一望することができる庭園展望室、お茶会・華道・句会などの利用に有料で貸し出している和室などがあります。

IMG_0379 菅刈公園

IMG_0381 菅刈公園

資料館

洋館の仕組み
IMG_0387 洋館の仕組み

明治期の様子
IMG_0383 明治期の様子

従道の書
IMG_0391 従道の書
 


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西郷従道の邸跡(2)菅刈公園

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続いてかつて西郷邸の和館や洋館があった菅刈公園(すげかりこうえん)へ。

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青葉台二丁目のこのあたりは、江戸時代には「荒城の月」で知られる豊後国岡藩藩主・中川氏の下屋敷があったところであり、滝や池のある回遊式の大名庭園として、江戸時代の地誌に江戸の名所として紹介されていました。
その後、明治7年に西郷従道(じゅうどう)がこの土地を購入し、フランス人レスカスの設計による洋館と書院造りの和館が並んでいました。庭園についても、池・滝・大芝生地など大改修が行われ、「東都一の名園」と言われました。その後西郷家は1941年に渋谷に移転し、旧国鉄の職員宿舎などとなっていましたが、1997年に目黒区が土地を取得、公園として整備され、2001年3月31日に開園。
園内には芝生広場・子どもの遊び場・展示室・和室・庭園展望室をそなえた和館が設置されています。
(目黒区HP、Wikipedia参照)

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IMG_0360 菅刈公園

IMG_0361 菅刈公園

園内には巨木が何本かあります。

IMG_0355 菅刈公園

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春は、桜の名所としても知られているそうです。

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IMG_0358 しだれ桜

IMG_0359 しだれ桜


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西郷従道の邸跡(1)西郷山公園

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渋谷駅より東急トランセの代官山循環線で、「西郷橋」下車。

 





目黒区青葉台の西郷山公園を訪ねました。

 

 

 



旧山手通り側(東側)の入り口には、「グリーンカフェ西郷山」があります。

 



この一帯は幕末には豊後国岡藩主・中川氏の抱え屋敷であったところであり、明治時代、この土地が旧西郷邸、西郷隆盛の弟の西郷従道(じゅうどう)の敷地の北東部分にあたり、付近の人々が「西郷山」という通称で親しまれていたところから西郷山公園と呼ばれるようになりました。

 


 

斜面を利用してつくられた公園で、斜面には人工の滝が作られているほか、展望台や遊具が設けられています。

 



冬のよく晴れた日には遠くの富士山も望めるそうです。

 



西郷従道が兄・隆盛の再起を願って当地付近を購入。
しかし、西南戦争により隆盛が他界したため、従道自身の別邸として利用することになりました。
その後西郷家は1941年に渋谷に移転した為、当時の鉄道省(戦後の日本国有鉄道)の手に渡り、また第二次世界大戦による空襲により和館が焼失してしまいました。残された洋館は1963年に愛知県犬山市にある明治村に移築され、現在は国の重要文化財に指定されています。
第二次世界大戦終了後、1950年代には日本プロ野球の国鉄スワローズ選手合宿所として使用されたこともあったといいます。
その後、邸宅跡地の一部分が公園として整備され、西郷山公園として1981年5月28日に開園し、現在に至っています。

 





西郷山公園の由来
この付近は、明治のはじめ西郷従道が、郷里鹿児島に帰った兄隆盛の再起を願って、入手したものであります。
西郷隆盛が没した後、この地に従道が別邸を造りました。
当時は、約6万平方米の敷地に、洋館・和館などが建てられ、池のある回遊式の庭園は、付近随一の名園といわれ、いつしか人々は、この一帯を「西郷山」と呼ぶようになりました。
この旧西郷邸の跡地の一部に、目黒区が公園を造ることを伝え聞いた鹿児島県や県下14市から、西郷さんゆかりの地であるこの公園に、ぜひ記念樹を植えたいとして、約2百本の樹木が寄贈されました。
これらは、当公園の北側に鹿児島記念樹コーナーとして植樹されております。
この公園の建設に際し、ご協力いただきました関係各位に深く感謝の意を表すると共に、多くの人びとが利用されるよう願うものであります。

寄贈県市名
鹿児島県 鹿児島市 川内市 鹿屋市 枕崎市 串木野市 阿久根市 名瀬市 出水市 大口市 指宿市 加世田市 国分市 
西之表市 垂水市

昭和56年5月吉日
目黒区長 塚本俊雄

ドラマ「東京ラブストーリー」をはじめ、ドラマのロケの場として使われていることでも知られています。

なお、かつて西郷邸の和館や洋館があった場所は近接してある菅刈公園付近にあたります。

 

 

 


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円通寺 彰義隊の墓

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また彰義隊士の墓があります。

彰義隊士の墓



慶応四年(1868)五月十五日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、当寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をいただけた。
これが、逆に明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となった。
「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬(現在でも記念碑があるが、火葬場所で墓では無い)
遺骸266体を当寺に埋葬する。(円通寺サイトより)
 

 

IMG_1114 彰義隊士の墓

死節之墓


彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたが、当寺に移築されたもの。
やはり賊軍にて、おおぴらな供養が当時は出来なかった為と思われる。しかし官許のある当寺に移築する事により、彰義隊と合わせて供養が出来ることになった。

土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。(円通寺サイトより)

三河屋幸三郎の墓


文政6年生まれ。江戸神田の雑貨商。横浜での貿易で巨富をえる。上野戦争のあと,放置されていた彰義隊の戦死者を千住三ノ輪の円通寺に埋葬。三幸の通称で,侠商として旧幕臣らにしたわれた。明治22年5月5日死去。67歳。伊豆(いず)八丈島(東京都)出身。姓は浅岡。 (コトバンクより)
三幸、又は親分檀家などと呼ばれた、侠骨の義商。当寺に彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力した、その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力した。「死節之墓」は三河屋の別宅に在った物。(円通寺サイトより)

大鳥圭介の墓



江戸末期〜明治初期の軍人,政治家,外交官。播磨(はりま)赤穂の医師の家に生まれ,緒方洪庵の適々斎塾を経て,江川太郎左衛門に師事。江川の推薦を得て幕臣となり,戊辰戦争では榎本武揚に従う。明治政府出仕後は開拓使御用掛,工部大学長,学習院長,華族女学校長などを歴任,1889年特命全権公使として清国に渡り,日清戦争前夜の外交工作を画策。(コトバンクより)

松平太郎の墓


旧幕臣・陸軍奉行、榎本武揚らと函館を占領した。
蝦夷島「副総裁」に選出される。(総裁は榎本武揚)
西洋かぶれと目される榎本・大鳥に反感をもっていた幕臣の票が集まった為と思われる。

土方歳三らと「一本木」にて交戦するが敗走し五稜郭に戻る。

最後まで抵抗を主張するが榎本に説得され降伏する。
のち、静岡に隠遁して余生を送る。(円通寺サイトより)

小芝長之助
IMG_1132 小芝長之助

将軍家御庭番を務めていたが、戊辰戦争が勃発し、慶応4年(1868年)4月11日に江戸城の無血開城が決定すると、憤激のあまり城内に放火して脱走した過激派。
榎本武揚艦隊の蝦夷地渡航に同行し、箱館政権(蝦夷共和国)下では探索役主任と陸軍奉行並土方歳三の管轄である箱館市中取締役を兼任。
土方の戦死の知らせを聞いて、本営五稜郭より一本木関門まで遺体を引き取りに行った。
箱館戦争降伏後、松江藩預かりとなり、明治4年(1871年)4月に赦免。晩年、東京三ノ輪円通寺の墓守として生活していた。
大正元年(1912年)頃、日野の土方家を突然訪れ、土方歳三の位牌を目の前にして泣き崩れたと言う。その4年後、死去。享年88。(Wikipediaより)

新門辰五郎の碑
IMG_1129 新門辰五郎

幕末維新期の侠客。江戸町火消しの元締。本名町田辰五郎。錺職人の子として下谷に生まれ,上野輪王寺の寺僧町田仁右衛門の養子になる。鳶人足から人足頭,町火消十番組の頭になり,浅草寺の門番も勤める。江戸の火消しには幕府の定火消し,大名火消し,裕福な町衆が金を出しあって雇う町火消しの別があり,町火消しは下位に立たされていたが,辰五郎は浅草の香具師,大道芸人などから入る金を背景に勇み肌の男たちを十番組に配し,柳川藩の大名火消し相手の喧嘩で18名を死傷させて勇名をはせ,この罪で江戸所払になる。夜な夜な妻妾のところに戻るのが露見して捕まり,拷問されたが屈せず佃島人足寄場に送られる。弘化3(1846)年の本郷丸山火事で佃島に火が入ると,囚人を小金井小次郎らと指揮して消火に貢献,赦免される。 娘が将軍徳川慶喜の妾になっている縁で慶応年間(1865〜68),子分300人を連れて将軍警備で京都に行く。京都では河原町,大坂では堂島に居を構え,妾も置いて,将軍お抱えの江戸の親分として羽振りをきかせた。鳥羽伏見の戦に敗れて開陽丸で江戸に敗走する慶喜から,大坂城に忘れてきた馬印の大金扇を取ってくることを命じられ,これを持って子分と共に陸路東海道を江戸に着いた。慶喜が水戸に謹慎になった際,2万両の甲州金を輸送し,徳川家の駿府(静岡県)移住にも付き従い,最後まで佐幕派の義理を守った。浅草の自宅で没。


余談ですが・・・1963年3月に発生しした吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られ、敷地内に被害者の慰霊地蔵・よしのぶ地蔵があります。

IMG_1113 よしのぶ地蔵


一方、昭和13年、上野公園の寛永寺総門の黒門跡に、蜀山人の歌碑が建てられました。

 

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