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豊臣秀頼公・淀殿の最後

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

1615年6月3日(新暦)正午ごろに天王寺・岡山口合戦が始まり、これが戦国の世の最後の戦いとなりました。始め優勢だった豊臣側も、兵力に勝る徳川側に押され、午後3時頃に壊滅、大阪城内に総退去しました。

徳川軍は城内に入り、深夜大阪城は陥落し,

翌日(6月4日)、豊臣秀頼は淀殿らとともに山里丸(大阪城天守閣北側)で自害しました。

1585(天正13)年、秀吉が関白に就任していらい30年続いた豊臣政権は滅亡しました。

 

 

秀頼・淀殿自刃の碑(山里丸)
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碑の裏に書かれた文章。
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徳川軍は、城の南から攻めてきたので、砲撃された天守閣を逃れ、天守閣の北で一段低い場所に追い詰められていった場所が山里丸です。
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山里丸から見た天守閣
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豊臣時代の大阪城
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大阪城山里丸

 

2016.12.23 Friday 02:07 | comments(3) | - | 

真田幸村の最後

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

大河ドラマ真田丸50回「最終回」、

幸村は、家康ただ一人に狙いを定め、一騎で突き進んでいきました。

 

 

1615(慶長20)年6月3日(旧暦5月7日)、真田幸村は、徳川家康を窮地に追い込んだが大兵力の徳川軍に対して力尽き、茶臼山近くの安居神社の一本松の下で休息している所を松平軍の武将に討ち取られました。(享年49歳)

 

安居神社内の真田幸村像と戦死跡の碑
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さなだ松(この下で討ち取られました)
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安居神社入口
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本殿
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安居神社


 
2016.12.23 Friday 01:55 | comments(3) | - | 

信繁対家康 最後の対決 (家康・秀忠本陣)

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:日本のTVドラマ

1615(慶長20)年6月3日(新暦)正午頃、いよいよ徳川軍が豊臣側を追い詰めいきます。徳川軍は、家康が茶臼山秀忠は岡山に本陣を構え最終決戦へと突入していきます。

 

岡山口では、徳川側は先鋒:前田利常ら、二番手:井伊直孝ら約28000、その後方に秀忠の本隊23000が配置された。豊臣方は、大野治房ら4600が攻めこんでいくが、徳川方は、力づくで持ちこたえ、井伊軍などの援軍もあって豊臣方を撃退していく。

豊臣方は、秀頼の出馬を待ったが、淀殿の説得に手間取り、秀頼が出馬したころには、秀忠本陣に突撃した豊臣軍は撃退されていた。そして、午後3時ころ、殿を務めていた毛利勝永軍も城内に総退却しました。

 

 

大阪夏の陣、最終決戦配置図
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茶臼山、岡山本陣図(大阪城から約3.5〜3Kの距離にあります)

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夏の陣では、はじめは天王寺口茶臼山は、真田軍が陣をはっていましたが、一進一退の末に数で勝る徳川方が豊臣軍を撃破しました。

大阪市天王寺公園内にあある茶臼山は、冬の陣では、真田幸村が本陣を構えたところで、夏の陣では、徳川家康が本陣を構えました

 

茶臼山
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小高い丘の上に家康本陣があったと思われます。
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頂上への登り口
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幸村は、家康との直接対決のために、家康の目前まで迫り、宿許筒(しょくしゃずつ ピストル)で狙撃しようとしました。家康は、これまでと思い自害しようとしますが、周りの家来が思いとどまらせました。
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御勝山古墳(秀忠が本陣を構えたところ)
(大阪市生野区勝山北3)

そこは、古墳で小高い岡になっています。囲いがされていて、入ることはできません。
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古墳の頂上に秀忠軍は、本陣を構えました。
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大阪城落城の時、ここで戦勝の祝いがなされたことから、雄勝山(おかちやま)と呼ばれるようになりました。

 

 

大阪夏の陣は、6月2日(新暦)道明寺・誉田合戦(ごんだ)合戦から始まり、

6月3日(新暦)は、正午に開戦、午後3時に大阪勢が総崩れし大阪城に撤退、

午後4時ごろに大阪城は炎上し、夏の陣は短時間で終結しました。


雄勝山の地図は こちらから

続きを読む >>
2016.12.20 Tuesday 03:44 | comments(3) | - | 

大坂夏の陣 若江の戦い

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

東大阪市の蓮城寺は、豊臣方武将・木村重成の菩提寺で、若江の戦いの際、重成はこの辺りに布陣しました。
 



母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれています。

慶長19年 (1614) 大坂冬の陣には玉造口を守備し奮戦。

元和1 年(1615) の大坂夏の陣で、長宗我部盛親らと出撃し、八尾・若江で井伊直孝藤堂高虎と戦って戦死しました。

境内には重成の位牌堂があります。
 


 



重成の肖像画、側が重成と夫人の位牌、左側が、加藤清正像
 


 


 



成は戦いの前に死を覚悟し、討ち取られた際も見苦しくないよう、頭髪を清めて香を焚き込めていたそうです。


蓮城寺から歩いてすぐの場所に、昭和7年(1932)に建てられた木村重成の銅像があります。
 



この辺りが、大坂夏の陣・若江の戦いの重成の本陣だったそうです。
 



若江の戦い
1615年5月6日午前5時頃、木村勢は若江に着陣、先鋒を3手に分け、敵に備えた。その右手に藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかけた。藤堂勢は兵の半数を失い敗走、藤堂良勝、良重は戦死した。 木村は玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようともくろんだ。

午前7時頃、井伊直孝は若江の敵への攻撃を決断、部隊を西に転進させた。井伊勢の先鋒は右手庵原朝昌、左手川手良列。木村勢を発見した川手は、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入した。堤上にいた木村勢は西に後退し、堤は井伊勢が占拠した。川手はさらに突進したが戦死した。そこに庵原も加わり激戦となった。木村重成は自身も槍を取って勇戦したが戦死した。山口弘定、内藤長秋も戦死し、木村本隊は壊滅した。

それまで戦闘を傍観していた幕府軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手木村宗明を攻めた。宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退した。(Wikipediaより)

 

八尾市幸町の木村公園に、木村重成の墓があります。

もとはここから東50m地点にあったのですが、 昭和42年第2寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移されたそうです。

この墓は、宝暦14年(1764)の重成の150回忌にあたって、重成の首を落とした安藤長三郎の子孫で、彦根藩士・安藤次輝が建てたもので、昭和14年、大阪府の史跡として指定されました。

重成の墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれています。
 


 



この左隣りには、重成と同日、戦死した重成の妹婿の山口左馬介の墓もあります。
 



続いて、徳川方の山口重信の墓を訪ねてみました。

第二寝屋川を挟んで、木村重成の墓の向かい側に位置しています。

木村重成の墓は八尾市、こちらは東大阪市になります。
 


 



山口伊豆守重信の墓

山口重信は元和元年(1615)「大坂夏の陣」の戦いで、徳川方の武将として豊臣方武将木村重成とこの地で戦い共に戦死しました。

この墓は重信の弟、弘隆により正保4年(1647)重信三十三回忌に建てられました。

三メートル角の礎石の上に亀の背(亀趺)が乗りそのうえに高さ三メートル、幅九十センチ、厚さ四十五センチの墓塔が建てられ銘文には若江堤の戦いの様子が幕府、大学頭、林道春(羅山)の文章を石川丈山の篆刻により刻まれており、篆額上には幡龍二尾を鐫した非常に貴重な墓塔です。

周囲の玉垣は重恒(重信の弟)が、燈籠は家臣の山口忠兵衛重成が承応三年(1654)に、花立は弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)にそれぞれ寄進したものです。

本体も碑文も当時のままであります。

平成十六年四月 若江南墓地管理委員会

 



山口伊豆守重信と若江の戦い

山口家は周防の守護大内氏の流れをくみ、重信の父但馬守重政が徳川家康より常陸国牛久に領地を与えられ大名となりますが、慶長18年(1613)嫡子重信の婚姻をめぐり幕法に反したとして領地を没収されます。

このため、武功を上げて旧に復するべく、元和元年(1615)大坂夏の陣に井伊掃部守直孝率いる徳川軍(兵3200人)に父子で参戦しました。

5月6日早朝、徳川軍は八尾楽音寺を発し。玉串川から若江堤へと進み、若江に布陣していた木村長門守重成率いる豊臣軍(兵4700人)と壮絶な戦闘を繰り広げました。

これが「若江の戦い」です。

この戦いで、先陣を競い合った重信は木村方の飯島三郎右衛門など5騎を討つ功をあげますが、武運拙く26歳の若さで戦死し、一方豊臣軍は木村重成が井伊方の家臣安藤長三郎に討ち取られ撤退しました。

寛永5年(1628)、重信の武功により父重政に牛久など1万5千石が復され、のち次男但馬守弘隆が本領1万石、三男備前守重恒が5千石を継ぎました。

墓は、兄重信の霊を弔うために弟弘隆が正保4年(1647)に墓碑を建立し、その後さらに弟重恒が承応3年(1654)に石柵を建立。家臣の山口忠兵衛重成が同年に石燈籠を寄進、弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)に石花瓶を寄進し、現在の姿となりました。

墓碑前の石柱は若江村庄屋西村九郎兵衛の建立です。

平成17年2月(案内板より)

この墓には、エピソードがあるそうです。
 



重信の墓が中央から折れて砕けてしまったことがあり、これは重成の怨念だと騒ぎになり、重信の墓を横向きに、重成の墓は後ろ向きにしたそうです。

 


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2016.12.16 Friday 10:30 | comments(4) | - | 

長宗我部軍と高堂高虎軍の戦い

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

大坂夏の陣最前線(地図1&2)で後藤又兵衛軍が破れ、戦いは、近鉄八尾駅近くの常光寺周辺で、豊臣方長宗我部軍と徳川方藤堂高虎軍が激突しましたが、長宗我部軍は、破れて後退しました。

 

徳川方の藤堂高虎が常光寺(地図3)で敵方の首を並べ首実験をしたと言われ、首の置かれた板は、後に天井の板として使われました。その板には、血痕がついていたため「血天井」と言われています。また、境内には、戦死した藤堂家の戦死者の墓があります。


 

大阪夏の陣図

3常光寺  4物見の松




常光寺(図3)
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本堂
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首実験
常光寺本堂北にある住職居間の廊下に、敵方の首を並べて首実験をしました。
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後に、首を並べた板を天井板として使用、その板には、おびただしい血がついていたため「血天井」と言われています。
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寺裏には、藤堂家の家臣の墓があります。
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武将級の墓
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藤堂高虎は、
1556(弘治2)年に近江国(滋賀県)で生まれ、浅井長政に仕える。
1576(天正4)年に信長の重臣羽柴秀吉の弟・秀長に300石で仕える
。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。
豊臣氏の家臣団が武断派、文治派に分裂すると、武断派として徳川家康側につく。関ヶ原合戦では、徳川方として活躍、これらの軍功により家康から宇和島領を含む今治20
万石に加増されている。
1614
(慶長19)年の冬の陣、翌年の大坂夏の陣で、徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、600人余りの死傷者を出しているが、戦後、その功績により32万石に加増されました。

 

 

常光寺付近は商店街です
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八尾の戦いで長宗我部軍が徳川方の動きを見ていた物見の松があったと言われている場所でがありますが、現在は、松は無く、碑のみがあります。




長宗我部盛親 物見の松(図4)
ここから500Mほど東に行ったところに、徳川方の陣地がありました。
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曽我部と書かれています





 


 

常光寺地図     大阪府八尾市本町5−8−1

物見の松地図 大阪府八尾市久宝寺2−2−23


 


 

2016.12.15 Thursday 12:33 | comments(5) | - | 

産湯稲荷神社の真田の抜け穴

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

天王寺区小橋町3丁目の産湯稲荷神社

 



産湯稲荷は俗に桃山といわれ、明治39年頃までは大阪屈指の大桃林があり、神社の境内には、「大坂六清水」のひとつに数えられた名水「産湯清水」が湧き出ていました。
 



昔、この付近の有力者であり、当地の開拓神である大小橋命(おほおばせのみこと)が誕生した時、境内の玉の井を汲んで産湯に用いたという伝えからこの名がついたとか。

この井戸もまた「真田の抜け穴」と伝えられています。

 

 

 

 


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2016.12.14 Wednesday 12:52 | comments(5) | - | 

大坂夏の陣 道明寺合戦(1)後藤又兵衛の碑

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

大坂冬の陣で、いったんは講和が成立したものの、家康はさらなる要求を突きつけていました。大阪城内にいる浪人衆の解散か秀頼が大阪城を出て、他の城に移るか。これを豊臣方が拒否すると、講和成立からまだ半年も経たない1615年(元和元)年家康は再び大阪城を攻めてきました。
 
以下戦いの詳細です。 豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、総大将松平忠輝、後見役伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていた。
 
4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩くことに決定した。

5月1日、豊臣軍では、後藤基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発した。

5月5日、河内国平野で宿営した後藤、毛利、真田らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めた。

道明寺の戦い

午前 5月6日午前0時、後藤基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着した。しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していない。そして、後藤は幕府軍が既に国分村に展開していることを知る。作戦が既に破綻してしまっていること認めた後藤は、石川を渡り小松山に登り陣を構えた。幕府軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。

午前4時、後藤は松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けた。奥田は戦死、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が来援し、かろうじて助かった。小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加え、小松山にとりつこうとした。後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤が被弾した。正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤基次は戦死、彼の部隊は壊滅した。 (Wikipediaより)

大阪の道明寺から玉手山丘陵に向かうと、その中心部に柏原市立玉手山公園があります。



元は玉手山遊園地でしたが、新たに公園として整備されました。
この玉手山公園が、大坂夏の陣の激戦が繰り広げられた古戦場です。
公園内の歴史の丘には、大阪夏の陣両軍戦死者の供養塔、後藤又兵衛の碑 や 後藤又兵衛しだれ桜、吉村武右衛門の碑などがあります。

後藤又兵衛基次はこの付近で繰り広げられた道明寺・小松山の戦いで徳川方の奥田忠次らを討ち取り奮戦しましたが、重傷を負い、家臣の吉村武右衛門の介錯により切腹しました。
 
大阪夏の陣両軍戦死者供養塔
 


後藤又兵衛基次之碑


 
後藤又兵衛しだれ桜


 
「後藤又兵衛基次は、一五六〇年四月十日兵庫県加西市で、後藤基国の次男として生まれた。槍の名人として、黒田孝高とその子長政に仕え、長政の九州博多へ着任に伴い一万六千石の大隈城主となった。その後、時代の変化につれ、自ら城を捨てて浪人となったが、一六一四年大坂冬の陣には、亡き秀吉の恩義に感じ、劣勢の秀頼に応援すべく豊臣方へ加勢し、木村重成とともに河内付近で徳川方と奮戦し、恐れられた。一時、和睦となったが一六一五年再び大坂夏の陣が始まり、堀を埋められた大坂方は、徳川軍の大軍を河内の峠で迎え撃つべく、五月六日未明、又兵衛は自ら先陣として約三千の手勢を連れて、この山まで来たが既に徳川方の先陣二万余の軍勢は、国分へ到着していたので、大坂方の二番手薄田隼人等の軍を待てずに、戦いの火ぶたは切られた。又兵衛の軍は奮戦したものの、多勢に無勢、遂に又兵衛は敵弾に当たり、自決し側近の吉村武右衛門が介錯してその首は、この地の西北の片山・深田へ埋めさせた。翌七日大坂城は落城した。」(案内板より)

又兵衛は、黒田氏の家臣として仕えましたが、黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、黒田家を出奔。この時、長政は又兵衛に対して奉公構という措置を取ったため、細川忠興・福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康などから召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政の横やりで仕官を邪魔され、大坂で長い浪人生活を余儀なくされ、京に着いた頃には六城川原のむしろ囲いの小屋で、乞食同然の生活をしていたといいます。それがこの戦により、再び又兵衛を武士として甦らせたのでした。

吉村武右衛門之碑




by shizuka

 


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2016.12.11 Sunday 23:54 | comments(4) | - | 

大坂冬の陣2/2 上杉・佐竹本陣跡

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

大坂冬の陣は、1614(慶長19)年12月19日(新暦)、大坂城西の木津川口で始まり、12月26日大坂城北東約12Kの鴫野(しぎの)、今福へと戦線が広がっていきました。徳川軍は、上杉軍5000、佐竹軍1500。上杉軍は鴫野で豊臣軍を押し返して勝利、佐竹軍の援軍要請に応じて出陣して、ここでも豊臣軍を押し返す勝ち戦をしました。

 

11月13日大河の紀行で紹介された八剱神社(やつるぎ)、若宮八幡神社を紹介します。

 


 

八剱神社(やつるぎ)東門

大阪市城東区鴫野東3−31−8(城東小学校東門前)

上杉景勝の陣が置かれた場所です。

 

本殿

 

西門(城東小学校東門前)


 
大坂城の刻印石

 
宮相撲が盛んだったようで「郷土宮相撲米川部屋頭取碑」があります

 
隠退記念十四代目朝日山四郎古衛門(力士のようです)

 




 
若宮八幡神社
大阪市城東区蒲生(がもう)4−3−16
常陸の国:佐竹義宣(よしのぶ)本陣であったことが社伝にあります。

 

 

 
関東常陸の国大名:佐竹義宣は豊臣政権下では、徳川、前田、島津、毛利、上杉と並ぶ六大将と呼ばれていました。関が原の戦いのときは、中立の立場をとったため、戦後は、常陸54万から出羽秋田20万石に厳封されました。

 
佐竹義宣本陣跡の旗

 

 
佐竹軍の兵士が楠を切り倒して焚火にしたため戦後、佐竹家より謝罪の刀が献納されましたが洪水のため消失しています。この楠から芽を出して成長しましたが、衰えのため伐採されてしまいました。

 
クスノキの大木が描かれた境内

 


 

今福・鴫野の戦いの地図

 

 

 


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2016.11.20 Sunday 02:00 | comments(6) | - | 

大坂冬の陣1/2 鴫野・今福の戦い

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

11月13日大河ドラマ「完封」は、大坂城北東の今福での戦いではじまりました。

 

幸村は、徳川方を真田丸におびき寄せて、戦いを挑むため挑発しました。それに乗った徳川方は真田丸を一気に攻め落とそうとして突撃します、しかし、そうさせたのが幸村の策で、二段構えの鉄砲隊が一斉射撃をしかけ、徳川方を退却させます。

 

幸村は、真田丸を出て、敵前で名乗りました、

真田幸村「我こそは眞田左衛門幸村なり」

 

上杉の陣でその様子を見ていた上杉景勝は

上杉「日本一の強者:真田左衛門幸村」

 

幸村は、家康への戦いで3度目の勝利を得ました。

 

今福の戦い激戦

1614(慶長19)年12月19日(新暦)に木津川口で始まり、12月26日には、大坂城から約12Kの鴫野・今福へと戦いの輪は広がっていきました。

 

今回は、紀行でも紹介された史跡を紹介します。

 

 

冬の陣碑

大阪市城東区鴫野東3−16−41(城東小学校東側)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三郷橋稲荷社

大阪市城東区今福西1−14

 

 

今福・蒲生(蒲生)の戦いの碑
後藤基次、木村重成奮戦の地跡

 

 

 

 


 
道路にへばりつくように建っている神社です

 

 

昔、使われた丸木舟がこの地から出土しました

 

 

 

今福・鴫野の戦いの地図

 

 


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2016.11.19 Saturday 03:39 | comments(5) | - | 

出城の名は、真田丸だ

[ 大阪 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

11月6日大河ドラマ「築城」は、ドラマ開始すぐに、大阪城内での軍議からスタートしました。幸村他浪人衆は、城から出て戦うことを決めますが、豊臣家臣団は、浪人衆を信用せず、籠城して戦うことを決めます。そこで、後藤又兵衛と幸村は、城の南に出城を築くことを提案しますが、茶々は認めません。そして、最後に秀頼は、幸村はじめ浪人衆の勝利への決意を知って言いました。

「この戦いの総大将は私だ、出城を造ることを認める」

 

幸村軍団は、出城造りに励み、完成させます。

「この城の名前はなんとしますか」

幸村「真田丸だ」

 

そこで、「真田丸」のタイトルが現れ、出演者が紹介され、いつもの真田丸の冒頭の場面が流れました。タイトルの「真田丸」を盛り上げる演出でした。

 

今回、紹介された紀行は、真田丸でした。以前に紹介しましたが、もう一度、真田丸の記事をアップします。

 

真田丸は、大坂城天守閣から南へ約2Kの所に真田山の地名が残っています。そこの明星学園の場所にあったようです。真田小学校など地名が残っています。

 

真田丸のあった場所にゆかりの史跡が残っています。

 

金網の右側が明星学園で、真田丸顕彰碑が建てられています


 
顕彰碑に東にある心眼寺には、真田幸村出丸城跡の碑が建っています


 
真田丸はこんな形だったろうと想像されています

 

三光神社には、幸村の像と大阪城まで通じていたとも言われている真田の抜け穴があります。

抜け穴(埋められたのか入ってすぐに行き止まりになります)

 

幸村像(鹿の角ついた兜はドラマでも同じ形です)

 

 

この辺りには、真田山小学校など、真田山の名前が残っています

 

 

真田山地図



 

2016.11.10 Thursday 03:23 | comments(6) | - | 
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