大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
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「おんな城主直虎」大河ドラマ館閉館

JUGEMテーマ:大河ドラマ

今日は、浜松出世の館大河ドラマ館ユキロックこと中野直之を演じた矢本悠馬さんと奥山六左衛門を演じた田中美央さんが来館されました。




出世の館開館前から既に多くの列ができていました。

車でお二人が到着すると大歓声が!

田中さんは、六左のイメージ通り大きなお方。

一方矢本さんは、小柄で可愛らしいお方。

館内では、展示を見学された後、段ボールの兜をかぶってはしゃぐ場面も。

撮影は禁止でしたのでお二人の画像はありません。

代わりにドラマで使用した衣装の画像です。

わずかな時間の滞在でしたが、お二人の挨拶もありましたよ。

その後、井伊谷方面に移動。浜松市地域遺産センターへ。

浜松市地域遺産センターでは、開館記念特別展「戦国の井伊谷」の展示が本日をもって終了。



井伊谷に行く度にこちらで資料や情報を得たり、いろいろと利用させていただきました。

IMG_5101 地域遺産センター

IMG_5102 地域遺産センター

「井の国の空中散歩」の美しい映像を見ながらしばし休憩。


 




IMG_5115 西久留女木

IMG_5116 西久留女木

大河ドラマ館も本日をもって閉館となりました。

ここに到着した頃にはかなりの列ができていました。

大河ドラマ館横の展示ギャラリーでは、2時から閉館セレモニーが行われ、その後、ドラマ館内で、ユキロックと浜松市長並びに関係者との記念撮影が行われました。

私は一年を通じてこのドラマ館には今日で9回足を運びました。

県外からも多くの方が訪れ、リニューアルを重ねての展示がリピーターを増やしたのだと思います。


一年お疲れ様でした。そして楽しい思い出をありがとうございまいした。

気賀関所を通って

すると、自転車タクシーに乗り込む直虎ちゃんに遭遇!

頭がつかえて乗りにくそうでした(^^ゞ



家康くんも合流して記念撮影タイム!



楽しい一日に感謝\(^o^)/
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| 静岡 | 10:16 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
直虎逝く

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

12月17日「おんな城主 直虎」(第50回)

 

「石を継ぐ者」


 
井伊谷井戸

 
1582年、直虎46歳で死亡
龍潭寺に葬られました 月泉祐園禅定尼


直虎の「戦のない国」を造る意思は
 

 

 

 

 

万千代:直政に受け継がれました

 

 

| 静岡 | 03:19 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高天神城

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

掛川市の高天神城は、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、徳川軍と武田軍が攻防戦を繰り広げた舞台となった山城です。

 



標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれ、優美な山の形から鶴舞城の別称を持ち、国の史跡に指定されています。

 



2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(147番)に選定されました。

 



城の築城年代については諸説ありますが、室町時代後期には今川氏によって築かれ、家臣の福島助春が城代を務めたとされています。

 





永禄12年(1569年)今川氏は甲斐国の武田氏との同盟が手切となり、武田信玄は徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、今川氏は滅亡。今川氏の滅亡後は、徳川家康の持ち城となり、小笠原信興(長忠)が引き継ぎ城主となりました。

しかし、まもなく武田・徳川両氏は敵対関係に。
元亀2年(1571年)武田信玄が2万5000騎で包囲しますが攻略に失敗。

信玄の死後、息子の武田勝頼も天正2年(1574年)に高天神城を攻撃。
城主・小笠原信興は降伏し、高天神城は開城し、武田氏の遠州における最大の拠点になりました。
しかし、織田・徳川連合軍に大敗した勝頼は、その後衰退。

 



天正8年(1580年)9月、横須賀城を拠点とした徳川軍が城をぐるりと囲うように砦を築き、高天神城を攻撃。

籠城する武田軍に対し、兵糧攻めを行いました。

万千代(井伊直政)は水の手を切り、功績を挙げたとも伝わっています。

今川氏の旧臣である岡部元信(真幸)は、抗戦しましたが、勝頼からの援軍もなく、追い詰められた武田軍は、降伏を申し出ますが、家康はこれに応じませんでした。

兵糧が尽いた武田軍は、ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、岡部元信は討死し、高天神城は陥落。

わずかに生き残った城兵は助命されましたが、武者奉行・孕石元泰のみが切腹させられました。これは、家康が今川氏の人質であった時代に、孕石が人質であった彼に辛く当たったことを遺恨に思ってのことであったといいます。

落城後、高天神城は廃城となり、その後も城郭として整備されることはありませんでした。(Wikipedia参照)

 







曲輪跡、堀切、土塁が残っており、西の丸跡に高天神社があるそうですが、夕方近かったため、ここでストップしました。

 

by しずか

 

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| 静岡 | 11:46 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
松平信康公のお墓がある「清瀧寺」

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

二俣城址から北東に500mあまり。

この地に、松平信康公は葬られました。

 

 

 

 

当時は小さな草庵したが、その後家康が信康の霊を弔うため、廟所、位牌堂、諸堂を建立しました。

 

そして清らかな瀧があることから寺の名前を「清瀧寺」とし、信康のおくり名としました。

 

 

 

 

奥の階段を登ると「信康廟」があります。

 

 

 

 

 

しかしその先は、非公開となっています。

 

 

ここに、殉死した「吉良於初」のお墓もあるそうです。

 

 

 

 

 

 

 

清瀧寺の門前に、美しい池があります。

 

 

 

 

池の左奥に、糸のような一筋の滝が流れ落ちています。

これが「清瀧寺」の名前の由来となった瀧なのでしょうか。

裏山から湧き出た水で、未だに涸れたことがないといいます。

 

 

もしかして、信康の無念の涙?

 

 

 

 

また池の横には「井戸櫓」がありました。

 

 

話は少し時代を遡りますが、二俣城をめぐる元亀3年の攻防でのこと。

 

二俣城は高台にあるため、当時、城を守っていた徳川軍は井戸櫓を建てて釣瓶で天竜川から水を汲み上げていました。

それを知った武田軍は、釣瓶を破壊して城の水の手を切り、二俣城を陥落させたそうです。

 

井戸櫓とは、このようなものだったのですね。百聞は一見に如かずです

 

 

 

 

池の前には「信康堂」がありました。

 

 

中には、武者姿の信康像と、衣冠装束姿の信康像が安置されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
松平信康公の悲劇「二俣城址」

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

二俣城は、天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害にあり、しかも二俣は遠州平野の「扇の要」であったため、戦国時代には徳川・武田両氏の激しい攻防の舞台となりました。

 

 

 

城は、標高90mの台地の上に築かれていました。

 

 

 

 

 

急な階段をなんども駆け上がり・・

 

 

ようやく北曲輪に到着。

現在ここには「旭ヶ丘神社」が建立されています。

 

 

 

喰違い虎口から本丸跡にはいると、広い跡地があり、その向こうに天守台がポツンとひとつ残っていました。

 

 

 

天正7年(1579)9月15日、徳川家康の嫡男・信康は、この二俣城で自刃しました。

信康の母・築山殿が殺害された翌月の事でした。

 

 

家康の命を受けた服部半蔵正成が介錯人として二俣城へ遣わされたのですが、主君の嫡男に刀を当てることが出来ず、それを見かねた検死役の天方山城守道綱が代わって信康を介錯したとされています。

 

道綱はその後出家し、高野山へ籠りました。

 

 

その時、信康の小姓「吉良於初(初乃丞)」も殉死しました。

於初は15歳でした。

 

 

一般的には、信康とその母・築山殿が武田氏に通じていた事を理由に、織田信長が信康を切腹させるように家康に命じたとされていますが、近年では徳川家内部での混乱がこの悲劇を招いたのではないかという説が強くなってきています。

 

 

城跡には、土塁や水路が残っています。

 

 

 

 

 

二の丸跡には「城山稲荷神社」がありました。

 

 

 

 

信康は享年21歳。
遺体は、二俣城の峰続きにある草庵(後に家康が青瀧寺を建立)に葬られました。

 

 

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
築山殿のお墓がある「西来院」

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佐鳴湖のほとりで殺害された築山殿は、1.3Kmほど東にある「西来院」(浜松市中区広沢)に葬られました。

 

 

本堂

 

 

築山殿の廟堂「月窟廟(げっくつびょう)」

 

 

月窟廟は、築山殿の百回忌につくられました。

しかしその後戦災で焼けたため、昭和53年に復元されました。

 

築山殿の墓石

 

 

 

築山殿の父は、今川一族で重臣の関口刑部少輔親永。

母は今川義元の妹とされていましたが、今年の大河ドラマ「おんな城主直虎」によると井伊直平の娘とされています。

つまり築山殿は井伊直平の孫で、直虎の父「井伊直盛」と、いとこにあたります。

 

築山殿は、今川家の人質として駿府にいた徳川家康(当時は松平元信)の正室となり、やがて嫡男信康と長女亀姫をもうけました。

 

しかし桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康は岡崎城へ戻り織田信長と同盟を結んで今川氏に敵対するようになりました。

そこで築山殿の父・関口氏は今川氏真の怒りをかい、切腹に追い込まれました。

 

そのあたりから家康と築山殿の不和があったとされ、駿府から岡崎に行った築山殿は城には入れてもらえずに、城下の東に築山御殿を与えられて幽閉同然の生活を強いられたと言われています。

 

その後家康が浜松城に移っても、築山殿は嫡男信康とともに岡崎にとどまり、そしてこの悲劇を迎えました。

 

 

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
築山殿の悲劇「太刀洗の池」

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浜松医療センター駐車場の一角に「太刀洗いの池」の碑がたっています。

 

 

 


天正7年(1579)、徳川家康の嫡男・信康の正室・徳姫が、夫と義母(築山殿)が武田方に内通していると「十二か条の訴状」を父・信長に送ったため、信長は二人を処刑するよう家康に求めたといいます。


家康は苦悩した末、岡崎城にいる築山殿を浜松城へ呼び出し、その途上の佐鳴湖畔で、家臣・野中重政らに殺害させました。

天正7年(1579)8月29日のことでした。

 

 

 

当時の太刀洗の池は50屬曚匹旅さで、辺り一帯は薮に覆われていたそうですが、今はその面影はありません。

 

 

 

 

築山殿の血で濡れた太刀を洗った池が、現在の碑のたつ約10m南にあったと伝えられています。

 

そして翌月の9月15日、嫡男信康も幽閉先の二俣城で自害し、母子は無念の生涯を終えました。

築山殿38歳、信康21歳でした。

 

この痛ましい事件の背景には、信康夫婦の不和、築山殿・徳姫の嫁姑問題、さらに家康・築山殿との不和もあったのではと言われています。

 

しかも家康・信康の父子の対立、家臣団同士の対立などもあったとされ、従来言われてきた信長からの指示ではなく、徳川家内部での混乱がこの悲劇を招いたのではないかという説も近年強くなってきています。

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 静岡 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
徳川秀忠公誕生の井戸

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浜松市中区常磐町に「徳川秀忠公誕生の井戸」があります。

 

 

 

秀忠は家康の三男として天正7年(1579)常盤町地内で生まれました。

 

側を流れる新川には、かつて誕生橋と呼ばれる橋があり、その橋の西側一帯が誕生屋敷と呼ばれていたそうです。

産湯として、この辺りにあった井戸水が使われたという伝承をもとに「徳川秀忠公誕生の井戸」が復元されました。



 

 

母親の西郷の局は、三河の名家・戸塚五郎太夫忠治の娘で、浜松城に奉公に出て家康の目にとまり、側室となりました。

出生地については、浜松城二の丸の北側という説もあります。

 

家康の長男・信康は、秀忠が生まれた年に切腹しており、二男・秀康(幼名・於義丸)は母親の身分が低いため家康から嫌わて秀吉のもとに養子に出されていました。

 

従って、秀忠は幼名を竹千代と名付けられ、世子として育てられました。

 

 

 

 

 



              


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| 静岡 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
直虎の母裕椿尼

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11月5日大河ドラマ「井伊谷のばら」では、直虎の母:裕椿尼(ゆうちんに:財前直見)が亡くなりました。


 
財前直見さんの最後の言葉
「おとわ〜直虎まで、ずっと側で見守ってきました。そして最終回までずっと側で見守ってゆきます」。
(インタビュー記事より)

 
財前直見さん、長い間の出演お疲れさまでした。


 

 

裕椿尼が住んでいた松岳院跡


 
松岳院が直虎の母のことです

 
直虎の母:松岳院は法名です。1578年逝去

 
松岳院跡地は、龍潭寺の脇にひっそりとあります

 
松岳院跡地の脇には、龍潭寺の土塀がいまもしっかりと残っています。

 
龍潭寺山門

 
龍潭寺の井伊家の墓

 
直盛夫人が直虎の母:松岳院のお墓です。
左に井伊直虎の墓があります。
一番左が24代直政公(虎松・万千代)の墓

 

 
井伊家墓の配置図

 
養子:直親が直虎の夫となって井伊家を継ぐ予定でしたが、殺害され、やむなく直虎がおんな城主となりました。

 


 

| 静岡 | 11:49 | comments(7) | - |- pookmark↑PAGE TOP
虎松の育った松下家

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10月8日第40回大河ドラマ「天正の草履番」では、万千代(虎松)が天下一の草履番を目指して奇策を練りだしました。
草履置きを造りそこに名前を書いて置くアイディアからいかに早く草履を届けるかを考え、ついに思いつきました。それは、草履を手裏剣のように履く人の足元に正確に投げることでした。上司の草履を投げるのは問題かとおもいましたが、
そこは、万千代のあまりの鮮やかさに誰もが感嘆したことで納得しましょう。
そして万千代は、草履番の指南役に出世します。

 
今回の紀行は、万千代を育ててくれた松下家と万千代が大名になって治めた箕輪城(群馬県高崎市)でした。松下家は、前にも紹介していますが、再再再登板です。


 

松下家屋敷跡
松下嘉兵衛は小豪族で頭陀寺城の近隣の領地を支配していました。
井伊直政(虎松)は松下一門の松下清景の養子となり徳川家康公の側近として活躍しました。
豊臣秀吉が木下藤吉郎((14歳〜17歳)と名乗っていたころ、ここで奉公していました。
 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
100m四方ほどの敷地がありました
(現在は頭陀寺第一公園)

 

 
この辺りも松下家の敷地内でした


 
頭陀寺(道路突き当り)
松下家の屋敷敷地内にあります。もとはお城でした。

 
本堂

 
直政 家康 秀吉像(右から)
浜松市南区頭陀寺町


 
松下家屋敷地図

 
| 静岡 | 00:10 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP