大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>
商品紹介
更新履歴
記録之分類
過去之記録
最近之評論
記録之輪
友達之輪
作者紹介
余他
無料ブログ作成サービス JUGEM
逃げの桂小五郎2 出石(兵庫県)

JUGEMテーマ:大河ドラマ

京都から逃げた桂小五郎は、兵庫県出石で潜伏していました。その家が今も残っています。

 

桂小五郎が隠れ住んだ家跡

 

 

Photo_2

1864(元治元)年7月8日(旧暦6月)、長州、土佐藩中心の尊皇攘夷派の志士が集まっていた池田屋に新撰組が急襲し多くの志士が殺傷されました。桂小五郎は、屋根伝いに逃走、近くの対馬藩に逃げこんで助かりました。

同年8月(旧暦7月)の禁門の変(蛤御門の変)で長州藩は敗れて、長州藩士狩りが始まると桂小五郎は、出石に逃げて250日間潜伏生活をしていました。

桂小五郎は、逃げるのが上手かったようです。出石に会津藩の追手が来たときくと城崎(兵庫県城崎温泉)にも逃亡しています。

桂小五郎潜伏した家の辺り(桂通り)



 

出石城

昔のままの風情が残っている町で小京都と言われています。
 
古事記、日本書紀にも出てくる古からある街です。

 

辰鼓楼(しんころう 時を告げる塔)と古い建物が残っています


出石そば
江戸中期(1706年)に、信州上田藩仙谷氏が国替えとなり出石に入国しました。その時に信州のそば職人がそばの技法を持ち込み、出石そばができました。今では約50軒のそば屋があります

 
出石の町並み
| 兵庫 | 00:02 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷一回目の島流し

JUGEMテーマ:大河ドラマ

7月8日の大河は、特別編でこれから出てくる坂本龍馬、勝海舟、岩倉朋美、桂小五郎について語る番組でした。そして、西郷どんが革命家に変わってゆき、江戸城を無血開城します。どんなふうに4人とからみ江戸幕府を倒してゆくのか楽しみです。

 

そこでこのブログも前半のまとめとして西郷どんが人間形成をした島流しについて書きました。

第一回は、身を隠すために奄美大島に行った時、5月13日「流人 菊池源吾」、5月20日「愛加那」、6月3日「別れの唄」放映されました。

第二回目は罪人として沖永良部島に流された時です。

 

1859年、西郷は幕府から身を隠すため、奄美大島に行き、愛加奈と結婚し子供をもうけます。

1860年、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、ますます幕府の権威がなくなってきました、

同年に皇女和宮と将軍家茂との結婚が決まり、

1862(文久2)年2月に結婚しました。

同じころに西郷は、奄美大島から鹿児島に帰りました。

 

皇女:和宮様の像が神戸市須磨区に建てられているので紹介します。

 

 

惜しまじな 国と民との 為ならば
身は武蔵野の露と消えゆとも

 

和宮様の像は、源義経が平家と戦った一の谷にあります。

 

一の谷から見た義経対平家の戦った浜

 

 

『和宮さんは、6歳で有栖川熾仁(たるひと)親王と婚約されていました。

幕府の強い要望で婚約を破棄し、17歳で徳川14代将軍家茂に嫁がれました。

 

その後、有栖川親王が官軍の総指揮官となられて江戸幕府への総攻撃をかけようとした時に、和宮様は、親王に嘆願して江戸の町を戦火から救われました。

 

昭和9年に外遊から帰った中村直吉氏が西欧の女性の姿にふれ、日本女性の美徳保持をいつまでもと願い、県下の三女学校にこの和宮像を寄贈されました。』

(案内板より)

和宮様の像が建てられている場所から西に行った所に有栖川親王の別邸があります。戦火を免れた像が元の婚約者であった有栖川親王様の面影のある別邸近くに像が建てられたのでしょうか。

 

有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)
戊辰戦争(1877年)の発端となった鳥羽伏見の戦いの東征軍大総督に任命される
西南戦争(1877年)では征討総督、その後は陸軍大将
明治28年、別邸(現舞子ビラ)で静養されましたが、ご逝去されました。(享年61歳)

 
有栖川宮は明治22年夏、この場所に来られ、明石海峡の景色に魅せられ別邸を建てることを決められました。

 
建設当時の有栖川別邸

 
有栖川邸より見た明石海峡(遠方に見える淡路島〉

 
現在の明石海峡

 
有栖川別邸跡に建てられた舞子ビラ(ホテル)

 

 

| 兵庫 | 02:08 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
後藤又兵衛の菩提寺 多聞寺 3/3

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

後藤又兵衛は、1615(慶長20)年、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、小松山(現:玉手山公園近隣)に2800の兵で布陣して戦うも、後続の明石全登、真田幸村らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の率いる鉄砲隊など10倍以上の相手に対し、又兵衛基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死しました。享年56。

 

10月30日大河「軍議」の紀行で又兵衛の菩提寺である多聞寺が紹介されていました。

 


 

多聞寺


 


 
本堂

 
後藤又兵衛位牌 (本堂に祀られています)
法名:西照院殿夏安道蓮大居士
「院殿」は殿しかつけられない法名、「西照」は大坂からみて西の方で活躍し、「夏 道」は大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、「安」らかに眠られたという思いがこめられている。

 

 
門と鐘楼

 
本堂裏にあるお地蔵さん

 
キリシタン地蔵
多門寺境内にあります。
黒田官兵衛がキリシタンだったため、黒田二十四騎の一人であった又兵衛もキリストを信仰していたのではないかと伝えられています。この地蔵は、地中より出土して、背中に十字のマークがあります。大坂夏の陣(1615年)の翌年、息子の太郎正方が又兵衛一周忌に多聞寺を建立して弔い、その時、キリシタンであった父:又兵衛の供養のためにこのキリシタン地蔵を境内地中に葬ったのではないかと伝えられています。(顔の部分は発見されていません)

 
多門寺地図
兵庫県加西市尾崎町288
| 兵庫 | 12:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
又兵衛の育った南山田城と蛇塚 2/3

JUGEMテーマ:大河ドラマ

黒田官兵衛(如水)の死から2年後の1606(慶長11)年、又兵衛基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。1614(慶長19)年、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城しました。

 

今回は、又兵衛が育った南山田城と又兵衛豪傑伝説の伝わる蛇塚を紹介します。

現在地の印のあるところがバス停です。
南山田バス停から(車でも徒歩でも行けます)

 

南山田城(福田寺の近くにあります)

父:基国が16世紀後半に築いたと言われており、100m四方の小丘に三つの曲輪跡と土塁が残っています。南側は児童公園広場となっており、まわりは、道路、住宅地となっています。
後藤神社
南山田児童公園となっています


 
蛇塚
又兵衛が弓で大蛇を射止めて、その大蛇を埋めたところと言われています。
石が積まれているだけです


| 兵庫 | 13:10 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
後藤一族の菩提寺 福田寺 1/3

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

10月30日大河「軍議」では、大阪城に集まった浪人の代表5人衆が秀頼の前で軍議を開きました。幸村は、家康の首を取るために城の外に出て戦うべきだと主張するが、後藤又兵衛(相川翔)は、天下の名城大坂城に立て籠もって戦うと主張して対立しました。

 

後藤又兵衛は、大河ドラマ「軍師 寛兵衛」でも登場しました。又兵衛の父は、三木の別所氏に仕えていましたが、秀吉軍に破れたため、又兵衛は父と分かれて黒田家(秀吉側)に仕えました。今回の紀行は、又兵衛に関係のあるところです。


 

福田寺(ふくでんじ)

後藤又兵衛基次の父:基国の居城:南山田城は、福田寺のすぐ近くにに在って、この寺は、後藤一族の菩提寺でした。
住所:兵庫県姫路市山田町南山田町807

 
門の前に供養塔があります

 
本堂

 
本堂裏手に又兵衛の父母の供養塔があります
階段を上がった右手に父母の供養塔はあります

 
小学校跡地の碑

 
後藤又兵衛史跡案内図
姫路から播但有料道路→船津で一般道へ降り右折→
下地図の現在地がバス停:南山田(横に下の案内板あり)
 

 
バス停:南山田からどの史跡へも車、徒歩で行けます。

 
福田寺はこの道からも行けます
 


 


| 兵庫 | 13:14 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
海軍操練所顕彰碑
JUGEMテーマ:大河ドラマ

メリケン波止場のみなと公園には、海軍操練所顕彰碑の石碑が建っています。

IMG_5964 海軍

右側は、陸奥宗光(兵庫県知事・外務大臣)の功績を称えた顕彰碑で、裏面には、神戸ゆかりの人物として、勝海舟、坂本龍馬、伊藤俊助(博文)、陸奥宗光の名が刻まれています。

IMG_5966 海軍

第4代兵庫県知事陸奥宗光公を讃える。
この地、海軍操練所に学び、のち、第4代兵庫県知事となって、県政の礎を築き、後年伊藤内閣の外務大臣として難局に処した公を偲んで、ここに顕彰する。

昭和48年5月吉日
第40代兵庫県知事 坂井村忠

国史を愛し郷土史を偲ぶ人びとに捧ぐ
昔、この周辺を摂津国、神戸村小野浜と呼んだ。東は脇浜、西は弁天浜で、現在の神戸港の玄関口である。
海の先覚者たちは、この浜が今に世界的な要港となるのを見通して、神戸海軍操練所を開設した。造船所、機関学校、兵学校もある広大なもので、その生とも200名以上を数えた。ここから明治維新に活躍した大人物が多数輩出している。
このハマは新しい日本の発祥の地である。

昭和48年5月吉日
洲崎喜夫
小野米吉 建之

左側の碑は、諏訪山にある海軍営之碑の複製。

IMG_5965 海軍

文久3年(1863)将軍・徳川家茂の大阪湾防備の視察に随行した勝海舟は、海軍の設立を強く訴えました。
しかし海軍操練所は、短期間のうちに閉鎖されることとなり、本来、海軍操練所内に設置されるはずのこの石碑は、海舟と深い親交のあった神戸村の豪商生島四郎太夫に預けられ、その後、大正4年(1915)に神戸区に寄贈されました。
現在は、神戸港を見下ろす諏訪山公園に建っています。

この海軍営之碑の字は、徳川家達によって書かれたものです。

IMG_5965 海軍営之碑 タテ


文久三年歳次癸亥四月二十三日
大君駕火輪船巡覧攝播海濱至干神戸相其
地形命臣義邦使作海軍營之基夫吾
邦方今急務莫急干海軍将以此營為始
英旨振起士風濱在干是可謂當時之偉圖而
千載之鴻基也顧
大君踞床指畫之處恐其久而湮沒也臣義邦
謹勒干石以貽永世去
元治元年歳次甲子冬十月八日
     軍艦奉行安房守勝物部義邦撰


勝海舟の直筆といわれるこの碑文には、この時、将軍家茂から直々に海軍操練所の建設を命じられたことが記されています。
 
| 兵庫 | 16:47 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
神戸海軍操練所
JUGEMテーマ:大河ドラマ

神戸海軍操練所は、江戸時代の1864年(元治1年)5月に、大阪湾湾岸防衛の必要から、江戸幕府が許可し、軍艦奉行の勝海舟によって、神戸に設置された海軍士官養成機関、海軍工廠(かいぐんこうしょう)であり、現在の神戸市中央区新港町周辺にありました。

操練所の塾生には、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨、北添佶摩、望月 亀弥太などがいます。

しかし、八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻した禁門の変の責を問われ、勝は軍艦奉行を罷免され、また塾生の中に動きをするものもいるとして、翌年1865年にわずか一年足らずで閉鎖されてしまいました。

京橋筋南詰には、大きな錨と本の形の碑があり、海軍操練所跡の由来が書かれています。

IMG_5972 海軍

IMG_5971 海軍

IMG_5970 海軍

IMG_5967 海軍

IMG_5969 海軍

IMG_5968 海軍

万延元年(1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。
その際、勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。
これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
文久3年(1863年)4月、攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防備のため阪神海岸を巡視した。
当時、海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。
かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。
惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。
今はただ、遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。

昭和四十三年十月建之

 
| 兵庫 | 16:45 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP
姫路藩の幕末(兵庫県)
JUGEMテーマ:大河ドラマ
8月9日の大河ドラマでは、1864(元治元)年12月の高杉晋作の下関での挙兵が放映され、討幕の気運が一挙に高まりました。

そんな頃、姫路城で有名な姫路藩の幕末はどんなだったのだろうとしずかさん(当ブログの共同ライター)の情報をもとに調べました。

姫路城は、1567(永禄10)年ころは、黒田官兵衛が城主を務めていました。その後、豊臣秀吉の播磨侵攻の拠点となります。
1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦の功績によって、外様の池田輝政が入府して、現在の世界遺産:姫路城をつくりました。
姫路城
2015年春 平成の大修理を終えて公開された白鷺城

その後、徳川譜代の大名が多く城主を務めます。
1749(寛延2)、徳川譜代の名門:酒井家が城主になり明治維新まで続いていきます。

幕政の重要な立場にいた姫路藩では、幕末でも「徳川の臣として徳川家とともに存亡をともにする」として、幕府側にたって行動していました。そんな中、わずかですが尊皇攘夷派がいたようです。

姫路藩の尊皇攘夷派の行動を示す紅粉屋暗殺事件があります。
1863(文久3)年1月、酒井家御用達の豪商:紅粉屋が暗殺されました。この事件に関わった尊攘派の藩士:河合伝十郎ら70名が捕えられ(甲子の獄)、1864(元治元)年12月26日、処刑されました。(同年12月16日に高杉晋作が下関で挙兵しています。)そして、尊皇討幕運動の芽がつまれてしまい、藩としては、戊辰戦争時も幕府側についた行動をしています。

事件のあった場所は、橋之町
(姫路城東 姫路北高校東辺り)

姫路北高校(姫路城東側)
北高

橋之町(北高東)

橋之町


姫路藩勤王志士終焉之地の碑(大蔵前児童公園内)
志士の碑

碑文


志士8名が葬られた本徳寺
8志士の墓
斬首となった2名の墓
河合伝十郎(享年24歳) 江坂栄次郎(享年23歳)
  
その他70名が、自刃、永牢などの処分をされ、多くが景福寺に葬られました。

本徳寺門
本徳寺門

本堂(相当大きいです)
本堂


紅粉屋暗殺事件で処刑された志士の多くが
埋葬された
景福寺



本堂


本堂裏に墓があってそこに志士たちが埋葬されています。


当寺は酒井家の菩提寺で、姫路藩藩主夫人が埋葬されています
城主の墓は、東京にあります


酒井家墓板


本徳寺、景福寺、志士顕彰碑の地図は 
こちらから

 
| 兵庫 | 11:50 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
幕府の大阪湾の防備ライン及び海軍操練所 
JUGEMテーマ:大河ドラマ

8月2日大河では、長州藩は、幕府への恭順を示すために3家老が自刃しました。久坂玄随らの尊皇攘夷の芽はつぶれたかに見えましたが、ここで高杉晋作が下関で挙兵して、長州藩の実験をにぎりました。形勢は、逆転、逆転、又、逆転で面白くなってきました。


1863(文久3)年、将軍徳川家茂による大坂湾の海防状況視察の際に、外国からの攻撃を防御するために、幕府は、海岸線に防衛ラインを築く必要性を感じ、勝海舟にその構築を命じました。その一つが神戸から明石海峡に築いた砲台であり、海軍操練所の設立です。

この年は、長州藩が米商船を砲撃、高杉晋作奇兵隊結成、七郷長州落ちなどの大事件が次々と起こった年です。

和田岬砲台(兵庫県神戸市兵庫区 三菱重工業内)
江戸末期の1864年(元治元年)に建設されました。
当時、外国艦船の来航に伴い、兵庫県神戸市辺りの沿岸を防備する必要に迫られ、徳川幕府により和田岬・川崎(湊川)・西宮・今津の各所に同型の砲台が建設されました。設計は勝海舟。完成には、約1年半の月日と2万5千両の費用を要しました。
現在残っているのは、和田岬砲台のみです。見学には、予約が必要です。
和田岬砲台


舞子砲台(兵庫県神戸市垂水区  JR舞子下車5分)
明石海峡大橋の北側に位置し淡路島との狭い明石海峡で外国船を砲撃しようと考えて設置されましたが、一度も使われませんでした。
1865年、幕命を受けた明石城主松平慶憲により築造された。設計は勝海舟。
舞子砲台

砲



砲台場所

砲台板


海軍営之碑(兵庫県神戸市 諏訪山公園内)
海軍操練所は、1863(文久3)年に、将軍:家茂から設立の許可が出て、翌年に着工された江戸幕府が建設した海軍の教育機関で、日本海軍の発祥のことを記念して勝海舟が海軍操練所内に建てた碑ですが、のちに、神戸港を見渡す諏訪山に移されました。
諏訪山海軍操練所碑
諏訪山海軍顕彰文



海軍操練所跡
日本最初の海軍操練所。坂本龍馬などが学んだが、生徒の中に反幕府を唱える者が多かったため、1865年に閉鎖されました。
海軍営碑

本 海軍跡碑



神戸港岸壁近くの公園に建っている碑
| 兵庫 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
桂小五郎が潜伏した出石
JUGEMテーマ:大河ドラマ

兵庫県養父市出石町の中に桂小五郎が隠れ住んだ家跡があります。
出石は、山間に囲まれて静かな城下町で、小京都と言われています。

4

桂小五郎が隠れ住んだ家跡
4_2

Photo4_3

Photo_2

1864(元治元)年7月8日(旧暦6月)、長州、土佐藩中心の尊皇攘夷派の志士が集まっていた池田屋に新撰組が急襲し多くの志士が殺傷されました。桂小五郎は、屋根伝いに逃走、近くの対馬藩に逃げこんで助かりました。

同年8月(旧暦7月)の禁門の変(蛤御門の変)で長州藩は敗れて、長州藩士狩りが始まると桂小五郎は、出石の町人の助けで京都を脱出し出石に逃げて250日間潜伏生活をしていました。愛人の幾松も訪ずれています。

桂小五郎は、逃げるのが上手かったようです。出石に会津藩の追手が来たときくと城崎(兵庫県城崎温泉)にも逃亡しています。

桂小五郎潜伏した家の辺り
4_4

 

木戸孝允(たかよし 桂小五郎) 幾松の墓
(京都霊山護国神社) 左奥に見えるのが幾松の墓
4_5

Photo_3

 



出石の地図は こちらから


ダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤ


お城・史跡 ブログランキングへ

スペードハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペードクローバーハートダイヤスペード
 
| 兵庫 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP