大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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橋本左内

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

天保5年(1834年)橋本左内は越前藩医・橋本長綱の子として越前国に生まれました。
子どもの頃より秀才の誉れ高く、16歳のときに大坂の適塾で緒方洪庵や杉田成卿に師事して蘭学や西洋医学を学びました。
19歳で父の跡を継いで藩医となると、藩主・松平春嶽に取り立てられて藩政に参画。
積極的に西洋文明を導入して、藩政改革に取り組みました。


橋本左内の像(福井市左内公園)

 


これは、左内が15歳のときに書いた「啓発録」です。
学問を志した左内が、これからどのように生きていくかという心構えを綴ったものです。

 


将軍継嗣問題が起きると、松平春嶽の命令を受けて、一橋慶喜を将軍にしようと江戸や京都で奔走。。
しかし徳川喜福を将軍にしようとした井伊直弼が大老になると、左内は捕らえられ安政6年(1859)26歳の若さで処刑されました。

 

 

 


左内公園のすぐ近くに、菩提寺「善慶寺」もあります。


戒名は景鄂院紫陵日輝居士。明治24年(1891年)贈正四位。

 

 

 

 

 

 

 


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| 福井 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
真田信繁の首塚があった「考顕寺」〜福井市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

福井市立郷土歴史博物館の「大坂の陣と福井藩」展を観覧した後、福井市足羽1丁目にある「考顕寺」へと向かいました。

秀吉が柴田勝家の北庄城を攻めた時に本陣を置いたという「足羽山」

その麓に考顕寺があります。

 

 

考顕寺は初代福井藩主・結城秀康の菩提寺であり、また大坂の陣で真田信繁を討ち取った福井藩の家臣・西尾仁左衛門の菩提寺でもありました。

 

大手柄をたてた仁左衛門は、信繁の首を福井に持ち帰り、西尾家の菩提寺である考顕寺に埋め、首塚としました。

そこに安置されたのが「真田地蔵」です。

しかし長い年月のうちに、境内のどこに首塚があったのか分からなくなり、真田地蔵は福井市立郷土歴史博物館に寄贈されました。

しかも西尾家に伝わる文書によると、首塚に埋められたのは実は真田信繁の鎧袖で、本物の首は真田一族に奪い返されるのを恐れて、別の場所に埋葬されたとか。

その場所は西尾家一子相伝の秘密なのだそうです。

う〜〜ん。いったい信繁の首はいずこへ・・

 

本堂

本堂は工事中のようなので、お邪魔にならないように足早に立ち去りました。

 

境内に、真田地蔵とよく似たお地蔵さまがおられました。

 

 

     by   めりい

 

 

 

 

 


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| 福井 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
「大坂の陣と福井藩」展〜福井市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

福井市立郷土歴史博物館で開かれている「大坂の陣と福井藩」展(2016年7月22日〜8月31日)に行ってきました。

 

 

玄関に貼ってあったポスター

左を向いている武将は、福井藩を率いて大坂の陣に出陣した2代目福井藩主・松平忠直

右を向いている武将は、真田信繁。

いずれも「大阪夏の陣図屏風」に描かれている人物像です

 

ところで、ポスターの右下をご覧ください。

お地蔵さまが両手を合わせておられますね。

これが「真田地蔵」です。

これを見るために、福井市へ行ってきました。

 

真田信繁を討ち取ったのは、福井藩の家臣・西尾仁左衛門とされています。

大手柄をたてた西尾仁左衛門は、その首を西尾家の菩提寺「考顕寺」(福井市足羽1丁目)に埋め、首塚としました。

そこに安置されたのが、この「真田地蔵」です。

 

今回の展覧会では、その「真田地蔵」と、真田信繁が持っていたとされる「采配」、そして西尾仁左衛門がその時持っていた短刀「銘左」・・つまり、それで信繁の首を切った?・・が展示されていました。

 

真田地蔵は高さは90cmくらい。笏谷石制で、背面には信繁の法名「大機院」が刻まれています。

采配には、赤褐色の血の跡のようなものがたくさんついていました。

短刀は小さいものですが、今も光輝く鋭利な刀です。

両方並べて見ると、ちょっとドキッとします。

 

 

館内は写真NGですが、唯一OKだったのが結城家に伝わる「御手許の槍」(復元)

江戸時代には「西の日本号、東の御手許」と称された大身の槍で、槍の穂は長さ140cm、柄をつけると全長が333.3cmという長大な槍です。
代々結城氏の名跡を継いだ子孫から松平家に受け継がれたのですが、昭和20年の東京大空襲によって焼失したため、平成27年に復元品が作成されました。

・・って、これは真田信繁とは関係がありませんが、これしか写真がないので悪しからず・・・(>_<)

 

 

さて次は、真田信繁の首塚があったという「考顕寺」へ向かいました。

 

 

     by   めりい

 

 

 

 


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| 福井 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大谷吉継の菩提寺・永賞寺〜敦賀市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

大谷吉継は、病いがちのため信仰心が厚く、神社仏閣に多くの寄進をしたと言われています。

敦賀市にある永賞寺も、他の場所にあった永昌寺をここに移して改名し、天台宗から曹洞宗へと改宗して菩提寺としたと伝わります。

 

 

境内には、慶長14年の造立とされる九重の塔があります。

これは、関ヶ原の合戦で敗れた大谷吉継の供養塔であるとの伝承があります。

 

 

 

慶長5年(1600)大谷吉継は、家康率いる上杉討伐軍に参加するため、3千の兵を率いて領国を出発しました。

途中、親友石田三成の居城である佐和山城へ立ち寄ると、そこで持ち掛けられたのは家康に対する挙兵の話。

それは無謀であり勝機ないと、3度にわたって説得したのですが三成の意思は固く、とうとうその熱意にうたれて、勝ち目のない戦いと分かっていながら三成の西軍に与したと言われています。

関が原の戦いでは裏切りが多発し、それが勝敗を決する要因となりましたが、最後まで西軍として堂々と戦い、そして死んで行った大谷吉継。

その「義」と、戦国の世には珍しい「友情」に、今でも称賛を送る人が多いようです。

 

 

    by   めりい

 

 

 

 


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| 福井 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
大谷吉継ゆかりの敦賀城〜敦賀市

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

戦国乱世にありながらも、義に厚い武将として今も高い人気を誇るのが大谷吉継です。

知略に優れた武将として秀吉政権の下で実績を重ね、数々の軍功をあげて、天正17年(1589)には30歳の若さで敦賀城主となりました。


敦賀市には大谷吉継ゆかりの史跡がたくさんあります。

「みなとつるが山車会館」にある大谷吉継の像
大谷吉継

 

 

敦賀城は、現在の西小学校や真願寺辺りにありました。

 

西小学校前にある敦賀城の案内碑。

 

敦賀城には三層の天守閣があったとされています。

 

 

近くの真願寺は、敦賀城の乾門跡に建てられたお寺です。

 

門前に立つ敦賀城跡の碑。
敦賀城跡


庭にある敦賀城の礎石。
敦賀城礎石

 

 

また来迎寺の山門は、敦賀城の中門が移築されたと伝えられています。
城の御殿にあったといわれる障子(腰高障子)も残されているそうです。

来迎時

 

 

 

八幡神社にあ る敦賀城表門の礎石

敦賀城表門の礎石

 

 

大谷吉継が敦賀の領主であった期間は約12年ですが、その間に敦賀城下の整備拡張を図り、現在の町並みの基礎を築いたと言われています。

 

 

        by  めりい

 

 

 

 


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| 福井 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
北之庄城址
JUGEMテーマ:NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」




賤ヶ岳の合戦で勝利を治めた秀吉は、その余勢を駆って越前まで北上し、勝家の居城・北之庄城が見渡せる足羽山(あすわやま)に本陣を置きました。

後方の山が足羽山です。





4月23日の夜、覚悟を決めた勝家は、せめて武将らしい最後を飾ろうと天守に家臣や侍女たちを集め、最後の酒宴を催しました。
ありったけの楽器を集め奏でて歌い舞い、まるで戦勝祝いのようであったと伝わります。

そして明け方近く城に火がかけられると、燃えさかる炎の中で、勝家とお市の方は家臣らとともに自害して果てました。



北之庄城址公園の柴田勝家公の像






資料館には、落城前夜に詠んだと伝わる辞世の句碑があります。



勝家
夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山時鳥

お市の方
さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそう 時鳥かな





北之庄城は、五層九重(七層の説もあり)の天守がそびえる名城で、安土城に匹敵する巨城であったと云われています。
しかし築城後、わずか8年で秀吉に攻め落とされたため、幻の名城と云われています。
その後、ほぼ同じ位置に福井城が築城されたため、北之庄城の遺構は、ほんの一部しか見られません。


福井城の下層から発見された北之庄城の石垣





また北之庄城址公園には、勝家の事績として「九十九橋」も再現されています。


「九十九橋」は、天正年間に勝家によって築かれた、北半分は木材、南半分は石材という「半木半石」の橋です。
これは、水流の強弱によって石と木を使い分けられたとも考えられ、また敵の攻撃を阻止する軍事上の策とも考えられるそうです。
当時は奇橋として「日本三大名橋」のひとつに数えられていました。


欄干部分は往時から残されていた旧石材です。







織田軍きっての猛将といわれた勝家ですが、武勇だけでなく民政にも手腕を発揮し、善政をしいていた様子が伺えます。









 

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| 福井 | 00:00 | comments(10) | - |- pookmark↑PAGE TOP
一乗谷朝倉氏遺跡


 

永禄8年5月、第13代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆らによって暗殺されたため、仏門に入っていた弟の覚慶が還俗して義秋(後、義昭と改名)を名乗り、将軍家を再興するため大名家を転々としながら上洛の機会を覗っていました。


義秋が越前朝倉氏の庇護を受けていた時、ここから上洛に協力してくれる大名を募って有力大名へ書状を送りました。

それが播磨国・御着城主の小寺政職にも姫路城主の黒田職隆にも届き、ちょっとした軋轢がうまれたと・・・ドラマではそのようなストーリーになっていました。それはさておき・・



越前朝倉氏の城下町「一乗谷」は、福井市街の東南10Kmにところにあります。
朝倉氏5代、103年にわたって越前の中心として繁栄し、北陸の小京都とも呼ばれました。

その遺跡はそのまま埋もれていましたが、昭和42年より発掘調査が進められ、昭和46年には一乗谷を含む278haが国の特別史跡に指定されました。



朝倉館跡「唐門」
朝倉氏滅亡後、義景の菩提を弔うため建てられた寺の門(旧松雲院門)です。






第5代当主・朝倉義景の館跡と庭園





近くに、朝倉義景のお墓もあります。





湯殿跡庭園
4代目孝景の頃の回遊式林泉庭園で、一乗谷で最も古い庭園とされています。





中の御殿跡
朝倉義景の実母・光徳院の屋敷跡と伝えられています。





諏訪館跡庭園
朝倉義景の夫人・小少将の屋敷跡と伝えられています。
庭園は一乗谷で最も規模が大きい回遊式林泉庭園で、朝倉氏の文化水準の高さが伺えます。





道の向こう側には、当時の城下町の様子が復元されています。





復元町並を歩いてみました。





ここでは、武家屋敷や商人屋敷などが復元されています。





発掘された堀の石垣や建物礎石をそのまま使い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基いて忠実に復元しているそうです。











一乗谷の復原町並は、数年前、携帯電話CMの舞台となりました。
白い犬のお父さん・・といえば、思い出していただけるでしょうか(笑)





町並み全体の模型もありました。




これだけの威容を誇った朝倉氏も、姉川の合戦、そして刀根坂の戦いで信長に敗れ、城下町も焼き討ちにあい灰燼に帰しました。




一乗谷朝倉氏遺跡には、足利義昭を招いて観桜の酒宴を催した「南陽寺跡庭園」や義昭が数ヶ月滞在した「御座所跡」などがあるのですが、残念ながらこの時パスしました。

とにかく広大な遺跡群で、隅々まで見ると6時間くらいかかるそうです。
ここを訪れる際には十分な時間をとることをお勧めします。



       


                 by merry

 

 



 


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| 福井 | 00:00 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
伊勢時雄と横井小楠
JUGEMテーマ:八重の桜


山本覚馬の娘・みねは、同志社英学校の卒業生で牧師となった伊勢時雄と結婚しました。
しかし、長男・平馬を出産したあと若くして亡くなります。

ドラマを見ていたら、みねの墓標には「横井峰子」と書かれていました。

伊勢時雄は、熊本藩士「横井小楠」の長男で、のち横井時雄を名乗ります。
みねは、結婚した時には「伊勢」で、亡くなった時には「横井」だったようです。



ところで、時雄の父・横井小楠は維新十傑の一人に数えられる、有名な人物です。
坂本龍馬とも交流があり、龍馬の「船中八策」は、小楠の「国是七条」が原案になっているといわれています。



福井城址の近くに「旅立ちの像」と題して「三岡八郎(左)」と「横井小楠(右)」の像があります。







後、みねの遺児・平馬は山本覚馬の養子として迎えられます。
覚馬のもう一人の娘・久栄も若くして亡くなるので、結局山本家を継ぐのは、平馬ひとりだけだったのです。






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| 福井 | 20:57 | comments(8) | - |- pookmark↑PAGE TOP
常高寺
  

お江が亡くなって7年後の寛永10(1633)、常高院(お初)も京極家の江戸屋敷で死去しました。

享年66歳。三姉妹の中で一番長生きでした。

 

遺骸は木曽路を超えて小浜城に運ばれ、常高寺において葬儀が執り行われました。

城主忠高を始め、家臣もことごとく喪服にて葬列に参加したと云われています。

 

常高寺


 

常高寺は寛永7(1630)、常高院(お初)の発願によって建立されたお寺です。

常高院は「もし将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に留めおいて下さい」と遺言に残しているそうです。よほどこの地がお気に入りだったようですね。

 

常高寺の裏、後瀬山の麓に常高院のお墓があります。

 

常高院のお墓は高さ4m、笏谷石で造られた宝篋印塔です。

前面、側面の三方に十字を浮かした模様が刻まれていて、キリシタンであった事を示しているように思えます。

 

常高院のお墓に向かい合うように、7人の侍女のお墓があります。


 

また周りを多くの尼僧の墓がとり巻いていて、いかに常高院(お初)が慈しみ深く、また多くの人に愛されたかが分かるような気がしました。



 

常高寺には、常高院肖像画や自筆の手紙、そして「かきおきのこと」が展示されていました。

「かきおきのこと」とは、常高院が自分の死後周りの人たちをよろしく頼みたいと、亡くなる一ヶ月前に京極忠高に宛てて書かれた遺言状です。

 

そこ文中に「さくあん事なにの御やうにもたち候ハす候て・・たのみ入申候」

(作庵は何の用にもたたず迷惑な存在であろうが・・自分の死後くれぐれも頼みます)と書かれているのですが・・

ここまで心配する作庵とは・・?

 

次回は、その作庵を辿る記事です。

                      by merry



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| 福井 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
小浜城
 

小浜城

 

慶長5(1600)に若狭国を拝領して後瀬山城に入った京極高次は、翌年、手狭で不便な山城の後瀬山を廃し、海に面した新たな居城・小浜城の築城に着手しました。

 

北川や南川を堀代わりに利用し、西側は小浜湾を臨む風光明媚な水城(みずき)でした。


慶長12年、小浜城は一応の完成を見ましたが、翌年に京極高次が死去。

城の整備拡張は2代目藩主・忠高に引き継がれましたが、寛永11(1634)城の完成を見ないままに出雲松江に移封になりました。
その後は三代将軍家光の側近だった酒井忠勝が入国し、築城を受け継ぎました。

 

江戸城伏見櫓をまねたと云われる三層の天守閣は寛永13(1636)に竣工。
そして着手から44年後の正保2年
(1645)ついに城郭全体が完成し、のち明治に至るまで小浜城は酒井氏の15260年間の居城となりました。

 

今はその天守跡の石垣だけが残っています。






 

城跡の隣に酒井忠勝を御祭神とした小浜神社があります。

 

 

また、酒井家邸宅を移築した酒井会館もありました。


 

小浜神社にパンフレットが置いてあったので、一部頂いて帰りました。

あとでじっくり読んだら、神社の本殿の横に、小浜城ゆかりの嘉門の井戸やころび橋などもあったようです(涙)

これから行かれる方は、ぜひチェックしてくださいね。

               by merry


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| 福井 | 15:46 | comments(10) | - |- pookmark↑PAGE TOP