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真田信之の菩提寺 妙心寺の大法院

[ 京都 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

大法院は、妙心寺塔頭のひとつで、真田幸村(信繁)の兄で松代藩主であった真田信之の菩提寺を拝観して来ました。
 



普段非公開ですが、春と秋の紅葉の時期のみ特別公開されます。

信之の遺命に従い、長男・真田信吉の長女・長姫により創建されました。

「大法院」という院号は、信之の法名「大法院殿徹岩一洞大居士」に因むものです。

 

方丈の襖絵には、江戸時代中期の絵師・土方稲領による「叭叭鳥図」(ははちょうず)が描かれています。
 



紅葉に彩られる美しい露地庭園を眺めながら、抹茶とお菓子をいただけます。
 


 



茶室

 

 

大法院の境内には、松代藩の真田家一門や、幕末の松代藩士で攘夷派に暗殺された兵法学者・佐久間象山の墓があります。

真田信之



真田信吉(信之の長男)



真田信利(信吉の次男)



長姫(信吉の長女)



佐久間象山




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2016.12.28 Wednesday 13:02 | comments(4) | - | 

長宗我部盛親の墓 蓮光寺〜京都市

[ 京都 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

京都市下京区の「蓮光寺」に、長宗我部盛親のお墓があります。

 

 

 

長宗我部盛親は、土佐の戦国大名・長宗我部元親の四男に生まれ、父の死後にその家督を継いで長宗我部氏の当主となりました。


関ケ原の戦いでは西軍につきましたが、毛利隊の後方に布陣したため動くことが出来ず、戦闘に参加しないまま敗走するはめになりました。

敗戦後は井伊直政を通じて交渉し、家名存続を訴えましたが、国替えに不満をもつ家臣によって浦戸一揆が起こったため、長宗我部家は取り潰しとなりました。

 

浪人となった盛親は、長宗我部家の再興を期して京都で「大岩祐夢」と号して寺子屋を営んでいました。
この間に蓮光寺の住職・蓮光上人と親交があったといいます。

 

 

慶長19年(1614)、大坂の豊臣方と徳川方との間で不穏な動きが起こると、盛親は、豊臣方の誘いに応じてわずか6人の従者と共に京都を脱出して大阪城に入城。

これに応じて長宗我部家の再興を願う旧臣たちが続々と集まり、真田信繁・後藤基次・毛利勝永・明石全登らと共に「五人衆」に数えられる主力部隊となりました。

 

しかし、夏の陣の八尾・若江の戦いでは奮戦して藤堂高虎に大打撃を与えましたが、大阪城は落城。

盛親は八幡で捕らえられて、京都の六条河原で斬首となりました。

 

 

生前に親交があった蓮光上人は、所司代板倉勝重に請い、首級をもらい受けて蓮光寺の墓地に葬りました。

記録によると、首だけでなく遺体もともに葬ったとされているそうです。
時に盛親41歳。法名は領安院殿源翁崇本大居士

 

 

 

また境内には、平清盛ゆかりの「駒止地蔵尊」もあります。

 

 

 


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2016.12.18 Sunday 00:00 | comments(7) | - | 

高松神明神社 真田幸村(信繁)の知恵の地蔵尊

[ 京都 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

京都の高松神明神社の境内に地蔵堂があります。

 

 

 

この神明地蔵尊は、宥玉法印が九度山の伽藍陀山・真田庵に安置されていた真田幸村(信繁)の念持仏を拝領してきたもので、「幸村(信繁)の知恵の地蔵尊」として祀られています。

 

 

 

台石をさすって、子達の頭を撫でると、知恵を授かるといわれています。

 

 

本殿


境内には、真田絵馬が飾られていました。

 

 



絵馬の真ん中の真田家の家紋・結び雁が抜けるようになっており、抜いたものはお守りとして持ち帰ることができます。
 

 

 

 


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2016.12.08 Thursday 11:58 | comments(6) | - | 

方広寺の遺構が残る京都国立博物館

[ 京都 ]

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京都国立博物館は、豊臣秀吉が創建した方広寺の南側に建てられています。

案内板に描かれていた「方広寺復元図」によると、大仏殿(青い四角)を中心とする境内は広大で、石垣(青い四角の枠)で四方が囲まれていました。

そして京都国立博物館の新しい展示館・平成知新館が、方広寺の境内にスッポリと入っているのが分かります。

 

大和大路通に面する方広寺の石垣は今もこのように現存しています。(の位置から撮りました)

 

大和大路通に面して建つ京都国立博物館「正門」

 

「正門」向かって左横には方広寺南辺を区切る石垣があります。

現在はここで途切れていますが、当時はこの延長線上に、平成知新館の入口付近まで繋がっていたようです。

 

平成知新館建設工事に先立つ調査によると、その南辺の場所から長い石垣の下部石積みが発掘されたそうです。

現在はその石垣跡を示す石列(矢印の部分)が復元されています。

 

現在の平成知新館の入口付近には「南之門」がありました。

調査によると、やはり地下1mの深さから、南之門跡や回廊跡を示す柱の根石が発掘されたそうです。

 

 

入口の東側に水盤があり、その中に金属製の円環が規則正しく並んでいます。

これは柱の遺構の正確な位置を示しているもので、実物は地中で大切に保存されてるそうです。

 

そしてこれが大河ドラマの紀行で紹介されていた噴水です。

問題となった鐘は、この辺りにあったとか・・

 

他には、方広寺大仏殿で使われていた「鉄輪」が展示されていました。

 

 

 

       by  めりい

 

 

 

 


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2016.10.12 Wednesday 00:00 | comments(6) | - | 

家康が因縁をつけた方広寺梵鐘の文字

[ 京都 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

40回「幸村」では、方広寺再興のために造った鐘の文字に家康が因縁をつけ、激怒して、大坂城攻めを決断しました。信繁は、その戦いに誘われましたが断ります。しかし、きりの言葉から参戦に応じる決心をして、名前も「幸村」と改名しました。

 

1586(天正14)年、東大寺の大仏(14.7m)を模して、秀吉が創建した方広寺の大仏は、金箔を塗り彩色された19mのものでした。しかし、1596(慶長元)年の地震で破壊されました。
1611(慶長15)年に徳川家康の勧めで秀頼が秀吉追悼供養にと19mの金銅大仏を再興しました。

1614(慶長19)年に鋳造された大梵鐘には、「国家安康 君臣豊楽」の文字が刻まれており、これが徳川家康への呪いを込めた文章であるとして豊臣討伐の口実に利用されました。

大仏殿と大仏はその後、地震や火事にあい現在は、残っていません。
(方広寺拝観の栞より)


 

 

国家安康 君臣豊楽の文字が当時のままの状態で鐘に刻まれています。
家康の文字が分断され、豊臣が栄えるとこじつけ的な解釈をされました。

方広寺
 

 

 
方広寺の石垣

 

寺の所蔵品

秀吉
 

 

秀頼

 



     
大仏                 眉間仏                      
秀頼が秀吉供養のために造った大仏の1/10のもの、

眉間仏は、大仏の眉間に入れられていた仏像です。残っている数少ない遺品です。

 

 

 

 

 


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2016.10.10 Monday 03:05 | comments(5) | - | 

勝竜寺城

[ 京都 ]

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勝竜寺城は、現在の京都府長岡京市勝竜寺にあった城で、細川忠興ガラシャ夫妻ゆかりの城として知られています。

天正6年(1578年)8月、細川藤孝の嫡男・忠興と明智光秀の娘・お玉(細川ガラシャ)がこの城で結婚式を挙げ、2年間新婚時代を過ごしたとされています。

後年の山崎の合戦では明智光秀がここに本陣を構えました。

細川藤孝は天正9年(1581年)に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。
江戸時代に入った寛永10年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。この際に不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、慶安2年(1649年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、当城北東に位置する神足神社境内に空堀や土塁が残る。
また、細川忠興・ガラシャ夫妻にちなんだ「長岡京ガラシャ祭」が毎年秋に開催され、当時の様子を模した行列巡行などが行われている。(Wikipediaより)


模擬隅櫓と堀跡


 


 


 


 


 


 


 


地下水100%の「ガラシャおもかげの水」


 


 


 



細川忠興・ガラシャ像

 


 

 

by shizuka

2016.08.23 Tuesday 06:59 | comments(6) | - | 

伏見桃山城(模擬天守)

[ 京都 ]

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今から50年余り前の1964年、京都市伏見区の地に遊園地「伏見桃山キャッスルランド」がオープンしました。

その時に、遊園地のシンボルとして伏見城をイメージした模擬天守・伏見桃山城が建てられました。

 

しかし1978年をピークに年々入場者が減少し、2003年閉園となりました。

 

閉園後、伏見桃山城は取り壊されるという話もあったのですが、保存したいという市民の願いもあり、伏見のシンボルとして引き継がれました。

 

 

2年前(2014年9月7日)、築城50周年を記念してお城祭りが開催されました。

これは、その時の写真です。

 

城門


 大河ドラマの中で「伏見城」として写っていたのが、この伏見桃山城です。

 

左側の小天守


右側の大天守

 

 


耐震基準を満たしていないため、普段は中に入れないのですが、この日は1階のフロアーだけ公開されていました。

 

伏見城発掘品


金箔がついた瓦も・・・


金箔瓦には、扇の模様が描かれています。

 


「黄金の茶室」(復元)


豪華ですね〜

 

天井も金ぴか〜

 

 

中央ステージではイベントが開催されていて、大勢の人垣ができていました。

 

秀吉が築城した伏見城とは違い、歴史的な価値はありませんが、秀吉の時代をイメージして楽しむ事ができます。


一時は廃城となるかと思った伏見桃山城。

残されて本当に良かったと思いました。

 

 

 

    by  めりい








 


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2016.08.19 Friday 00:00 | comments(3) | - | 

伏見城の石垣跡

[ 京都 ]

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京都市伏見区にある「桃山東小学校」の校庭に、伏見城の石垣があります。




昭和52年(1977)、ここよりすぐ北の土地区画整理事業の作業中に、偶然伏見城の石垣列が、それも100m以上にわたって見つかったそうです。




そのうち15mがここ、桃山東小学校の校庭に移築・復元されました。






石垣が発見された場所は、木幡山に築城された伏見城の東南外壁にあたり、惣構の遺構だと考えられているそうです。
   by    めりい



 


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2016.08.17 Wednesday 00:00 | comments(7) | - | 

伏見城の遺構

[ 京都 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

 

秀吉によって建てられた伏見城は、現在のJR桃山駅の南側あたりにあったと言われています。

宇治川を望む高台で、観月の名所だったことから、一帯は「指月」と呼ばれていました。

城は金箔瓦で覆われ、たいへん豪華なつくりであったといわれています。

 

現在ある伏見桃山城キャッスルランド跡の模擬天守

(中には入れません)



 

 

しかし翌年M7.5の直下型地震に襲われ、城は倒壊。

秀吉は、再び指月の北側・木幡山に伏見城を再建しました。

現在明治天天皇陵となっているあたりが城の中心地であったと言われています。

 

明治天皇陵

 

 

しかし秀吉がその城に住んだのはわずか2年。

慶長3年(1598)秀吉は伏見城で死去しました。

 

秀吉の死後、徳川家康が伏見城に入って政務を執りましたが、慶長5年の関ケ原前哨戦で西軍に攻められ、城の大半は焼け落ちたと言われています。

その後、家康によって城は再建されましたが、1624年に廃城となり、城の建物や部材は福山城、淀城、二条城などに移築されました。

 

 

 

 

京都市伏見区にある御香宮神社の表門は、伏見城の大手門が移築されたと伝わります。


 

 

また二条城へは、伏見城天守が移築されましたが、寛延3年(1750)落雷により焼失。

唐門もまた伏見城の遺構と言われ、現在、重要文化財に指定されています。

 

二条城唐門

 

 

 

西本願寺にある唐門も、伏見城の遺構と言われ、国宝に指定されています。

 

 

装飾彫刻の色彩も鮮やかに残っていて、在りし日の秀吉の威光がしのばれます。

 

 

 

     by    めりい



 

 


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2016.08.15 Monday 00:00 | comments(6) | - | 

秀吉豊国廟と樹下社

[ 京都 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

8月7日大河「終焉」 ついに秀吉の死期が近づき、家康と三成の駆け引きがはじまります。三成は、真田昌幸に家康暗殺を依頼しました。出島(寺島進)は、昌幸の心を察して、徳川屋敷に忍び込みますが、そこには本多忠勝(藤岡弘)が待ち構えておりました。この場面、なかなか迫力がありました。

そして、秀吉(小日向文世)は、「秀頼を頼む」と周りに言って、ついに62歳でこの世を去りました。絶頂期の秀吉から老いていく秀吉を見事に演じた小日向文世さんに拍手をおくります。

 

今回の紀行は、秀吉のお墓:豊国廟と新日吉神宮にある樹下社です。

 

秀吉

 

豊国廟
1598(慶長3)年8月18日、百姓から身を起こし関白を越え太閤まで登りつめた秀吉がついになくなりました。
享年62歳 茶々32才 秀頼5才 おね51歳
その亡骸は、遺言により阿弥陀ヶ峰の麓に壮麗で雄大な豊国社が建てられ祀られました。
 



 


 

豊国神社(樹下社)

新日吉神宮(いまひえ)

徳川の時代になり豊国廟は、徳川氏によってつぶされました。しかし、秀吉の人気は高く、阿弥陀ヶ峰への山道にある新日吉神宮(いまひえ)の一角に小さな樹下社(秀吉の若い時代の名前が木下であったことから きのしたしゃ このもとのやしろ 豊国神社)を建立して御霊を葬りました。徳川時代になり秀吉の霊は粗略に扱われたようです。


秀吉は幼少の頃、日吉丸と呼ばれていたので新日吉神宮の名前と関係があるようですが、ここは1160(永歴元)年の創建です。本殿の前に狛サルが安置されていますが、金網に囲われています。日吉と言う宮名といいサルが金網に入れられているのといい、なにか意図的なものを感じ、秀吉を閉じ込めてしまったという印象をもちます。しかし、網に入れられているのは、狛サルが逃げないように囲ってあります。

ここから北へすぐのところに豊国神社、おねが秀吉を弔うために建てた高台寺があります。


  
樹下社(このもとのやしろ)
鳥居が2ツあって、左側が豊国神社 右が秋葉神社と愛宕神社


   
新日吉神宮

 



  
大神を守るために本殿前に安置されている狛猿

 

 



今日吉神社と豊国廟
豊国廟は京都女子大の右にあります


 

 

 

ついにランキング第1位になりました。

皆様方の応援ありがとうございました。

今後もクリックよろしくお願い申し上げます。
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2016.08.08 Monday 03:32 | comments(5) | - | 
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