大河ドラマ「麒麟がくる」「いだてん」「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。
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蛤御門

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弾痕の跡

 

 

 

 

 

水戸藩跡

 

 

 

 

| 京都 | 19:49 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高瀬川沿い史蹟5 土佐藩邸跡 土佐稲荷

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高瀬川沿い史跡


10 土佐藩邸跡
11 土佐稲荷

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10:土佐藩邸跡
中京区木屋町通蛸薬師(たこやくし)西南角
1


18

藩邸が置かれたのは江戸元禄(1690年)、高瀬川に橋がかかっていました。

 

近くには、龍馬寓居・海援隊事務所、お龍の住家、中岡慎太郎寓居、龍馬・慎太郎が暗殺された近江屋があります。



 



11:土佐稲荷
中京区木屋町通蛸薬師西入北側
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Photo_3


岬神社とも言い、社伝では室町時代に鴨川の中州の岬(突端)に祠を建てたのが由来とされています。数度の移転後、土佐藩邸内に移されました。
土佐藩士のみならず、先斗町、木屋町などの町人からも信仰を集めていました。


 

 


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| 京都 | 00:01 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高瀬川沿い歴史史蹟4 近江屋 慎太郎寓居

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高瀬川沿い史蹟4

 

12:近江屋(龍馬、慎太郎遭難の地)

13:中岡慎太郎寓居(菊屋)

 

 

 

12:近江屋(龍馬、慎太郎遭難の地)

 

1867(慶応3)年11月9日(新暦)に、二条城にて将軍徳川慶喜は、政権を天皇に返上することを決め、大政奉還がなされました。

 

12月10日(新暦)、近江屋に居た坂本龍馬を中岡慎太郎が訪ねました。

 

そこへ、十津川郷士を名乗った男が龍馬を訪ねてきました。

 

対応した藤吉は後ろから切りつけられ

藤吉「ぎゃぁ!!!」

 

龍馬「ほたえなぁ!」 (土佐弁:騒ぐな)

 

刺客は階段を駆け上がり
「こなくそ!!」 (四国の方言でこの野郎)
と叫びながら龍馬に切りかかり額に一太刀・・・

 

慎太郎も切られるも援けを求めました。

龍馬は、その場で絶命。享年:33歳
慎太郎は、2日後に死亡。享年:30歳


近江屋(醤油屋)
中京区河原町通り四条上る
4_3




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四条河原町交差点
左に曲がると近江屋 正面右:南座
Photo_3



「誰が犯人???」

 

龍馬、慎太郎暗殺者は誰かとなると色々な説があって、当時、京都の町をわがもの顔で闊歩して志士を恐怖におとしいれていた新選組も疑われていますが、通説になっているのが「見回り組(幕府の京都治安部隊) 佐々木只三郎」です。

 

しかし、これも確証はありません。他には、薩摩藩説(西郷隆盛)、紀州藩説(いろは丸事件)、会津藩説(松平容保)などがあります。

 

土佐藩説は捨てがたいです。
●「こなくそ!!」は四国の方言
●後藤象二郎などの土佐藩上士たちは、郷士の龍馬、慎太郎などの活躍をよく思っていなかった、
●土佐藩は龍馬の情報を知る立場にあった
●土佐藩邸は、近江屋の近くにあるが、助けにいってない
案外、近くの仲間と思っていた者の犯行である可能性は高いです。

 

 

13:中岡慎太郎寓居

中岡慎太郎は、禁門の変に参加、そして、坂本龍馬と薩長同盟の成立に奔走し、武力による倒幕を考えていました。

1864(元治元)年12月10日(新暦)、坂本龍馬が居た近江屋を訪問中に何者かに襲撃され、龍馬は即死、慎太郎は2日間生き延び、暗殺犯について語っています。享年:30歳

 

 中岡慎太郎が住んでいた土佐藩御用達書林菊屋(書店)は、近江屋と通りを隔てた向かいにありました。

 

 

中岡慎太郎寓居;菊屋跡
中京区河原町四条上る米屋町382
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Photo3
   中岡慎太郎 碑と像


現在は抹茶館(喫茶店)になっています
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| 京都 | 00:01 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高瀬川沿い史蹟3 池田屋、酢屋、お龍寓居

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高瀬川沿い史蹟3

20:お龍寓居(寓居:仮の住まい)

8:池田屋
9:龍馬隠れ家;酢屋

 

20:お龍寓居(都会館ビル)

 

 

 

 

8:池田屋

あああ
AAAA

あああ

あああ

 

あああ
あああ
攘夷派受難者
あああ
あああ
9:龍馬隠れ家(酢屋)
あああ
あああ
寓居とは、仮の住まい
ああさ
ああああああ
あああ
先斗町
ああああ
ああああ庁
あああ
| 京都 | 00:01 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高瀬川沿い史蹟2 武市、吉村、本間など

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高瀬川 史蹟2

5 佐久間象山寓居  6  武市半平太寓居
7 吉村寅太郎寓居  14 古高俊太郎邸宅跡
15 本間精一郎遭難の地

 

 

 

 

5 佐久間象山寓居

 

 

6 武市端山(半平太)寓居跡

 

土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主、文久元年(1861年)、坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて土佐勤王党を結成

 

 

 

7 吉村寅太郎寓居跡

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14 古高俊太郎邸跡
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15 本間精一郎遭難の地
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越後(新潟県)の志士、尊王攘夷派で文久2年(1862)8月20日夜、先斗町で遊んだ帰り道ここで斬られた。享年29才
中京区木屋町通四条上る紙屋町
| 京都 | 19:15 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高瀬川沿い史蹟1 桂小五郎像ほか

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高瀬川沿い、歴史史蹟

 

1 桂小五郎銅像  2 長州藩跡

3 大村益次郎、佐久間象山遭難の地

4 桂小五郎、幾松寓居跡

 

 

 

 

1桂小五郎銅像

 

 

 

 

2長州藩屋敷跡

京都ホテルオークラ

 

 

3 佐久間象山(左)、大村益次郎(右)遭難の地

佐久間象山
   松代藩士(長野県) 開国論者で勝海舟、坂本龍馬、
   吉田松陰などに影響を与えた
大村益次郎
   長州藩士(山口県) 西洋兵学者 戊辰戦争の指揮を
   とり近代兵制のの創立者

 

 

 

 

 

 

 

4 桂小五郎、幾松寓居

 

 

 

 

| 京都 | 20:13 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
高瀬川 角倉了以別邸(京都)

京都の高瀬川沿いには、明治維新に関係した人物の史跡が沢山あります。

 

高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以(すみくらりょうい)によって開通され、中京区上樵木町を起点として京都と大阪の交易に寄与しました。

 

高瀬川の江戸時代初期(17世紀)の頃は、木材、練炭が高瀬舟に積まれて集まり、川沿いには、材木問屋、材木商の店、倉庫が立ち並びました。そこからこの辺りを「木屋町(きやまち)」と呼ばれました。

 

江戸中期(18世紀)には、人の往来が増え、料理屋、旅館、酒屋などの店が増えました。

 

幕末(19世紀)には、この辺りは繁華街になり、勤王志士の密会場所となり、坂本龍馬や桂小五郎などの寓居があり史跡が建っています。

 

 

 

高瀬川沿い地図

18:一の舟入が高瀬川の起点です。
10:七の舟入

舟入とは、船の荷物の積み下ろしや方向転換を行う場所。二条から四条の間に9カ所作られていた。

16:角倉了以銅像

17:角倉了以別邸



高瀬川について
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一の舟入(地図18)
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高瀬川は、水深が浅いことから船底が平らな船が造られました。


 





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舟入の 灯影に明くる 春の雪





七の舟入(地図10)
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角倉了以像(地図16の辺り)
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鴨川から水を引き、伏見・二条間をつなぐ高瀬川を施工した嵯峨の豪商



角倉了以別邸
中京区木屋町通二条下る東側
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現在は、和食がんご寿司店になっています。
以前には、長州藩軍人:山形有朋の住居
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木屋町通り




 



森鴎外の短編小説に「高瀬舟」があります。
京都の罪人を遠島に送るために高瀬川を下る舟に、病気の弟を殺した喜助という男が乗せられた。護送役の同心である羽田庄兵衛は、喜助がいかにも晴れやかな顔をしている事を不審に思い、訳を尋ねます。 苦しがる弟を殺すのは罪なのかと安楽死ともう一つのテーマーについて書かれています。

 

 

JUGEMテーマ:大河ドラマ

| 京都 | 17:27 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
新選組 壬生寺

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新選組の「壬生寺(みぶでら)」です。

 

 

 

江戸幕府最後の抵抗の一つが新選組です。

幕末に現れ、幕府を倒そうとした志士たちを捕らえ倒幕の流れを食い止めようと命を張った若者たちの集団です。


新選組の歴史

1863年

2月 将軍上洛の警護のため、江戸で集められて近藤勇たちが浪士組として京入りしました。

8月 八月十八日の政変の警備に出動して、その行動が評価され会津藩主松平容保から「新選組」の名を賜りました。
八月十八日の政変 会津と薩摩が長州藩を京都から追放する

 

 

 

1864年
6月5日 池田屋事件(長州藩士を中心にした尊王攘夷派の志士を惨殺、捕縛する)

 

 

 

1865年 
隊員が200名を超す集団になったため屯所を壬生村から西本願寺に移す。

 

 

 

1867年
 新選組、幕臣となる(農民だった近藤勇らの若者は武士になりたくて浪士組に入隊し、ついに幕府の正規隊員となりました)

 

11  坂本竜馬暗殺される

 

 

 

1868年(慶応4 明治元)

1月 鳥羽伏見の戦い

 

 

4 近藤勇捕縛され、板橋刑場で処刑される

 

 

5 沖田総司 江戸で肺結核のため病死

 

 

8 政府軍 会津若松城を攻撃 白虎隊自刃

 

 

 

9 明治に改元

 

 
1869(明治2)年

 

5函館で土方歳三戦死  新選組降伏

 

 

  幕府軍降伏 戊辰戦争終結

 




壬生寺
新選組の武芸の鍛錬の場でした。近藤や他隊士の墓があります。

 

 

 

 

 

 

 

 



幕末の京都の治安を守るため新選組が結成され、主に祇園、三条通りなどの町人街、繁華街の警護をしました。京都守護職は御所、見回り組は、二条城や官庁街を警護していたようです。



新選組隊員のお墓があります









 



















隊長:近藤 勇

 

 





芹沢鴨  平山五郎の墓
1863
年9
月内部抗争で粛清される 






河合耆三郎(きさぶろう)
1866年切腹



隊員7名の墓





ああ 新選組





 



 

 

 

 

| 京都 | 12:43 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
新選組 八木家

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1863(文久3)年 
                京都の治安維持のため新選組ができる

1867(慶応3)年 大政奉還

1868(慶応4 明治元)年 

       鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争がはじまる

     9月8日 明治に改元される

    江戸幕府最後の抵抗である戊辰戦争を終結させ、古い制度を改め近代国家に変わろうとしたのがこの年です。

1869(明治2)年 
                五稜郭陥落で新選組も幕府軍も完全敗北  

   

江戸幕府最後の抵抗の一つが新選組です。幕末に現れ、幕府を倒そうとした志士たちを捕らえ倒幕の流れを食い止めようと命を張った若者たちの集団です。

 

 

 

1863(文久3)年、将軍;家茂の上洛警護のために集められた浪士たち約200名は、上京して壬生村の八木邸、旧前川邸を屯所として、「壬生浪士組」が結成されました。

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Photo_20210511013701

 

 

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八木邸
Img_8019

 

 

Img_8022

 

 

Photo


新選組発祥の地(クリック拡大)
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八木家玄関
Img_8009


芹沢鴨が惨殺された部屋
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所在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町24





京都鶴屋鶴寿庵
八木家は、昔からの由緒ある家で、京都守護職とも関係があって、そんなことから浪士組を受け入れたようです。今は、お菓子屋さんを経営しておられるようです。

Img_8020


入場料を払うとお茶とお菓子がついてきます。
Img_8015

 



旧前川邸(八木邸東隣りに在ります)
こちらにも新選組隊士が住んでいました。

Img_8055


 

 

 

 

| 京都 | 01:53 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
足利将軍菩提寺の等持院(2)霊光殿

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等持院の方丈の隣に立つ霊光殿には、足利尊氏が念持仏として信仰された利運地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊として、達磨大師と夢窓国師とを左右に、足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が、徳川家康の像と共に両側に安置されています。

IMG_2373 等持院

足利歴代の将軍像の中には、室町幕府13代将軍・足利義輝の木像もあります。

霊光殿の足利義輝の木像
Ashikaga_yoshiteru.jpg画像(Wikipediaより)

国立歴史民俗博物館蔵の足利義輝像 
800px-Ashikaga_Yoshiteru.jpg画像(Wikipediaより)

室町幕府 13代将軍 (在職 1546〜65) 。義晴の子。母は近衛尚通の娘。幼名は菊童。初名は義藤。天文 23 (1554) 年2月 12日義輝と改名。同 15年正五位下左馬頭となり,日ならずして父義晴の譲りを受けて征夷大将軍となり,従四位下に進み,翌年2月 17日参議左中将。この年,細川晴元と畠山政国の争いに,畠山にくみしたため,細川勢に洛北の北白川城を攻められ,父とともに近江坂本へ逃れた。のち晴元と和し,同 17年6月帰洛した。しかし翌 18年晴元が家臣三好長慶と摂津に戦って敗れたため,義晴父子は晴元とともに再び坂本へ移った。同 19年5月4日義晴が病没したので,義輝が家督を継いだ。同 20年三好氏の近江進攻により,坂本からさらに北の山中の高島郡朽木に移ったが,同 21年には三好氏との和約ができ,晴元は堅田から出奔し,義輝は京都に帰った。翌 22年7月長慶の京都侵入により,山城杉坂から近江竜華に逃れ,京都は長慶の制圧するところとなり,義輝の動静は不明となる。永禄1 (58) 年朽木から竜華に出てきた義輝,晴元主従は,近江の六角義賢の助けを得て坂本に陣を移し,西進して三好軍と京都攻防戦を重ねたが,11月和議が成立して入洛した。永禄7 (64) 年7月長慶が没すると,翌年その後嗣義継と,専権をふるっていた義継の臣松永久秀に京亭を急襲され,義輝は自殺した。( ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)
※義輝の最期については諸説あり

家康の像は、42才の厄除けの霊験を受けたもので、石清水八幡宮豊蔵坊にありましたが、廃仏毀釈後に等持院に移されました。

 


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| 京都 | 10:51 | comments(0) | - |- pookmark↑PAGE TOP