大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
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西南戦争の舞台となった熊本城

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熊本城は1601年から7年の歳月をかけて、初代肥後藩主・加藤清正によって築城された天下の名城です。

城郭の周囲は5.3km、面積98万屐⊂詁發砲和臈啓蕕半天守、そして数多の建物や城門を備えた堂々たる威容を誇る巨城です。

巧妙に配置された石垣の上には、防衛の拠点をなる櫓が建ち、「狭間」「石落とし」「忍返し」など、他の城に比べて数段抜きんでた規模の防戦体制がとられ、また「武者返し」と呼ばれる特殊技術を駆使した石垣もめぐらされています。

 

明治10年2月15日から17日にかけて、西郷隆盛率いる薩軍13,000が鹿児島から順次北上。
22日、熊本鎮台が籠城する熊本城を囲み、西南戦争が始まりました。

攻防戦は50日余りにわたって繰り広げられましたが、熊本城はこれに耐え、難攻不落な造りを天下に知らしめました。

 

西郷隆盛はこう言ったと伝わります。
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか 清正公に負けたとでごわす」

 

 

ところで、西南戦争で熊本城の天守閣・本丸御殿一帯が焼失しましたが、これは戦争が始まる3日前(明治10年2月19日)に出火して焼失したもので、薩軍の放火なのか、あるいは熊本鎮台の自焼なのか、原因は不明とされてきました。


近年では、兵に籠城を覚悟させるため司令長官の谷干城が命じ参謀の児玉源太郎が火を付けたのではないか、または不用建物取り払いのための出火だったなど、自焼説が有力となっています。
 

焼失した大天守と小天守は、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで外観復元されました。

再建は、古写真や絵地図をもとに瓦の列や枚数など細部まで忠実に行われたそうです。

しかし平成28年4月の熊本地震により、その大・小天守も石垣などと共に被災しました。

上記の写真は、その6年前に撮ったものです。

 

 

 

また本丸御殿も平成20年に「本丸御殿大広間」として復元されました。

これも江戸時代の絵図や文献、明治初期に撮影された写真、発掘調査の出土品を手掛かりにして復元されたものです

 

その本丸御殿大広間のなかでも、一番格式が高い部屋が「昭君之間(しょうくんのま)です。

「昭君」とは「将軍」を意味していると言われ、加藤清正が豊臣秀吉の遺児・秀頼を熊本城へ迎え入れるために用意したという説もあります。

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 熊本 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
篤姫と西郷の仲は???

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篤姫と西郷どんの関係はどうだったのでしょうか

 

ドラマでは、西郷どんが薩摩藩邸に務めていた時、大地震が起こり、西郷が身を挺して篤姫を守った。その時篤姫が「私を連れて逃げて・・・・」と西郷に言いました。

 

その後、実家の薩摩藩軍に攻められた篤姫は、実家を憎みますが、新政府軍の強さを感じて、政府軍の最高責任者:西郷宛に「徳川家の救済、江戸での戦いを避けるよう」手紙で懇願しました。

 

彼女のこの行動で、まだ篤姫に熱い思いを抱いていた西郷が、勝海舟と直談判して江戸城無血開城につながったのでしょう。

 

篤姫は、藩主島津家の分家にあたる今和泉島津家で生まれ名は於一(おいち)とも呼ばれていました。



 
今和泉駅



 
篤姫海岸


篤姫の名は地元名産品のその名が残っています。
  


 
篤姫も桜島を見ていました

 



 

篤姫は夫:13代将軍:家定の亡き後、天璋院と名を変えて過ごしましたが、最後は脳溢血で亡くなりました。享年:48歳 

実家:薩摩藩に嫁ぎ先の徳川家を滅ぼされたとの思いがあってか一度も鹿児島に帰ることはありませんでした。
 

| 鹿児島 | 13:16 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
山内容堂・西郷南洲会見の地

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高知市鷹匠町のホテル三翠園がある場所には、かつて山内容堂の別邸下屋敷がありました。

 

IMG_1141 山内容堂・西郷会見の地

戦後、会見場所の屋敷は売却され、現在は大部分が三翠園の敷地になっています。



三翠園の庭園に山内容堂・西郷南州会見の地の碑があります。



慶応3年(1867)年2月、西郷隆盛は、薩摩藩主・島津久光の命を受け、四候会議への参加を促すために来高し、この日本庭園内で容堂と会見しました。





慶応三年 ( 西暦一八六七年 ) 二月十七日薩摩島津公の命に依り西郷隆盛来藩す山内容堂は当邸内物見座敷此君亭に土佐藩士・福岡孝弟を従へ西郷隆盛及薩摩藩士・吉井友美を引見し共に時局の重大性を語り西郷隆盛は頻に山内容堂公に上洛を促した結果ここに肝胆相照し遂に明治維新回天の基礎を確立した由緒深き邸跡である。
(案内板より)

 

 

 


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| 高知 | 09:47 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
私学校跡〜鹿児島市

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遣韓使節問題決裂で辞表を出した西郷隆盛は、帰郷して一介の農夫として静かに暮らそうとしました。
ところが桐野利秋・篠原国幹などの将官をはじめ、薩摩出身の多数の将士が職を辞し、西郷の後を追って続々と鹿児島へ帰郷しました。
しかし帰郷したものの、この若者たちには目的も職もなく、毎日無為に過ごすしかない状態。
そこで1874年(明治7)6月、彼らを指導・教育するために「私学校」が設立されました。

 

 

鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校と村田新八が監督する砲隊学校。これを本校として県内各地に分校が設けられ、その費用は県令・大山綱良のはからいで県庁から支給されました。
銃隊学校・砲隊学校の他に、西郷らの賞典禄(戊辰戦争の賜金)を運営費とした賞典学校も設けられました。
オランダ人やイギリス人教師を招いて幅広い教育を施し、5人の生徒をヨーロッパに留学させています。
また庄内藩からは、西郷の人徳を慕って2名が入学しています。
この他、旧教導団の生徒を収容して、原野を開墾して農作物をつくる「吉野開墾社」も設立され、西郷隆盛も開墾に従事しました。

 

 

しかし私学校は軍事教育、精神修養の団体という傾向が強く、やがて年々強大化して反政府の気運を高まらせ、ついに過激派生徒が暴走。
政府火薬庫の襲撃によって西南戦争を引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史をとじました。
石垣には政府軍の凄まじい攻撃を物語る散弾の跡が残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 鹿児島 | 13:14 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
佐賀の乱に敗れた江藤新平が西郷を訪ねた鰻温泉

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西郷隆盛は、指宿の鰻湖畔にたたずむ江戸時代から続く温泉地である鰻温泉をこよなく愛し、幕末から明治にかけて、幾度も湯治に訪れたといわれています。

IMG_9179 鰻温泉

IMG_9190 鰻温泉

明治7年、征韓論に敗れ,鹿児島に帰ってきた西郷が突然、犬13匹を連れて鰻湖畔に泊まりに来て、約一月滞在しました。

IMG_9243 西郷南洲翁逗留の家

IMG_9209 西郷滞在記

昼は開聞岳辺りへ猟に出かけたり、近所の子どもたちと遊んだりして、毎晩温泉に浸かり、福村市左衛門宅に逗留しました。
この時、佐賀の乱に敗れた江藤新平が西郷を訪ね、新政府打倒に向け協力を依頼しましたが、西郷はこれを断りました。

一ヶ月の滞在後、西郷は、滞在した福村家に御礼として犬を1匹差し上げようと申し出たところ、宿主が犬は怖いからと断られ、代わりに西郷が着ていたフランネルのシャツを残していきました。

そのシャツは、現在「いぶすき西郷どん館に展示されています。

IMG_9155 いぶすき西郷どん館

福村家にはこの他、金箔塗りの陶磁製大皿、鉄砲の洗浄棒などもが残されているそうです。

IMG_9245 西郷南洲翁逗留の家

ここに、佐賀の乱に敗れた江藤新平が訪れ、西郷と激論したといわれています。

IMG_9244 西郷南洲翁逗留の家

西郷南洲翁逗留の家
   征韓論に敗れた南洲翁が、鰻温泉を訪れたのは明治7年1月の末、
  供と猟犬をつれて、この福村市左衛門方に逗留した。
   毎日狩猟に出かけ、夜は読書し、雨の日は村の子供達と遊んだという。
   佐賀の乱に敗れた江藤新平が訪れ、大義に生きる翁と、国を憂い激論した
  といわれる。

   福村家には翁が愛用したシャツが家宝として残されている。
               昭和52年9月  山川町観光協会

 


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| 鹿児島 | 06:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
江藤新平と佐賀の乱

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明治維新の四大雄藩を「薩長土肥」といいますが、肥前佐賀藩出身の江藤新平・大隈重信・副島種臣たちは、明治新政府の首脳陣として、法制・財政・外交など分野で重要な役割を果たしました。

 

佐賀城址 城門

 


なかでも佐賀藩の下級武士の家に生まれた江藤新平は、初代司法卿に就任し、新政日本における司法制度の育成と司法権の確立、そして民法の基礎作りなどに尽力しました。

しかし明治6年、朝鮮への使節派遣をめぐって正当な手続きを経た閣議決定がなし崩しにされると、西郷隆盛に続いて江藤もまた、いさぎよく新政府を去りました。

 

 

江藤の郷里佐賀では、政府の欧化政策や専制圧政に不満を持つ「憂国党」や、江藤の影響を受けて征韓実施を唱える「征韓党」が組織されて、反政府勢力が渦巻いていました。
それらの不平士族の暴発を抑えることができず、江藤は「佐賀の乱」に巻き込まれました。

 

 

明治7年2月16日、憂国党と征韓党は県庁が置かれていた佐賀城を攻撃。

攻防戦が繰り広げられた佐賀城には、銃弾の痕が今も残されています。

 

 

江藤率いる佐賀軍は緒戦において勝利を収めたものの、続々と援軍を送る政府軍には勝てず、2月末には政府軍が佐賀城を占拠。

佐賀軍は壊滅しました。

江藤はこの渦中に戦線を離脱して鹿児島の西郷のもとを訪れ、助力を依頼しました。

 

 

次回の鹿児島の記事へ続きます。

 

 

 

 

 

 

 


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| 佐賀 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷・大久保の座禅石

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鹿児島護国神社から坂道を約200mほど城山団地方面にのぼって行くと、坂の途中にこの看板があります。

IMG_9573 座禅石

ここを曲がると、座禅石公園という小さな公園があります。

IMG_9574 座禅石

IMG_9575 座禅石

 



この公園には、若き日の西郷隆盛、大久保利通はじめ精忠組のメンバーが、座禅を組んで修行したという西郷・大久保の座禅石があります。

IMG_9580 座禅石

石は現在の国道3号線沿いの誓光寺の庭にあったもので、西郷、大久保をはじめ、当時の若き志士たちが誓光寺の住職であった円了無参の教えを受け、日夜座禅し、修行に励んだといいます。
昭和52年(1977)、鹿児島市の記念物(史跡)に指定されました。

座禅石の横には「南洲・甲東参禅之處・・・」と刻まれた記念碑が立っています。

IMG_9581 座禅石

IMG_9587 座禅石

西郷・大久保座禅石「志を鍛えた石」 −西郷・大久保ら精忠組の青春−
 
西郷隆盛や大久保利通の青春時代をじっと見守った人物がいました。

 草(そう)牟田(むた)誓光寺(せいこうじ)の住職円(えん)了無参(りょうむさん)和尚といい、城下南林寺や島津家菩提寺福昌寺の住職を勤めた名僧です。

 当時、薩摩藩は、次の藩主をめぐって斉彬を押す一派と久光派が対立。

 ついに久光の実母であるお由羅の暗殺計画へと発展しました。

 首謀者の一人赤山靱負(1850年3月切腹)は、可愛がっていた西郷への血染めの肌着を残して切腹。大久保の父は喜界島へ流罪になりました。

 下級役人の仕事を黙々とこなし、仲間と「近思録(きんしろく)」(朱子学の書物)を読み、誓光寺で座禅を組んでいた2人に最初の試練が訪れたのです。

 揺れ動く藩政の中で、座禅によって自分を見つめ直すことは、大きな時代の流れを見極める助けとなりました。

| 鹿児島 | 17:33 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷どんの娘「菊子」の人生

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林真理子さんの原作「西郷どん!」に、京都市長になったばかりの西郷菊次郎を囲んで、舞妓たちが「手鞠唄」を歌う場面があります。

 

一掛け二掛け三掛けて 四掛けて五掛けて橋の上
橋の欄干に手をかけて  はるか彼方を 眺めれば
十七八の姉さんが 花と線香手に持って
ねえさん、ねえさん、どこ行くの
私は九州鹿児島の 西郷隆盛 娘です
明治十年その年に 切腹なされた父上の お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン


私、この唄知っています!
歌詞は少々違う所もありますが、子どもの頃、この唄を歌って手まりをついて遊びました。
西郷隆盛が誰とも知らずに、名前だけは覚えました。

 

 

この唄の主人公「西郷隆盛 娘」と言えば、奄美大島で生まれた「菊草」の事。
後に奄美大島の母・愛加那の元を離れて鹿児島に来ましたが、それからどのような人生を送ったのでしょう。
興味を持ってドラマを見ていたのですが、あれ?ドラマには登場しない?

 

菊草の母 愛加那        wikipediaより

 

菊草のその後を追って、つらつら調べてみると・・・

「菊草」は鹿児島に引き取られて「菊子」と名を改めたそうです。

そして14歳の時に父・隆盛の従弟「大山誠之助」と婚約しました。
誠之助は「大山巌」の弟です。

しかし西南戦争が起こったため、誠之助も参戦そして敗戦。

投降・収監され、ようやく結婚したのは明治13年、誠之助30歳の時。

菊子は17歳になっていました。

 

その後4人の子どもに恵まれ、ようやく幸せになったかと思うのですが、実は誠之助には生活力がなく、借金を重ねていたというダメ男。
林真理子さんの原作の中で、誠之助は言ってます。

「わしは西郷さんから、島の娘を押し付けられた」と。


明治40年頃、菊子は誠之助と別居し当時京都市長をしていた菊次郎のもとに身を寄せました。

菊次郎は、京都市左京区聖護院川原町にあった官舎に住んでいたそうですが、その具体的な場所は特定できないそうです。

林真理子さんの原作では、菊次郎は門跡寺院「聖護院」の離れに住んでいる事になっています。
 

京都市左京区聖護院にある「聖護院

 

兄の許でようやく安定した生活を得た菊子ですが、残念ながら2年後の明治42年に48歳という若さで亡くなりました。

お墓はひとまず京都に埋葬されたそうですが、後、東京の大山家の菩提寺に移されたといいます。
 

 

ネットで調べていると、奄美新聞社のHPに「菊草(菊子)」?とされる写真が掲載されていました。
西郷菊次郎のひ孫宅で発見されたそうです。

 

奄美大島新聞社の記事→http://amamishimbun.co.jp/2018/03/02/6054/


菊子の生涯を思うと、奄美大島から言葉も風習も違う鹿児島に来て、しかも父は戦いで死に、夫は頼りにならず、どれだけ苦労をしたか、想像するに余りあります。

でも晩年の写真を見ると、ようやく兄のもとで、奄美大島時代のように兄妹仲良く幸せに暮らした様子が伺えます。

 

これからも「菊子」さんの足取りを追って、いろんな資料が出てきて欲しいですね。

 

 

 

 

 

 

 


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| - | 19:06 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
幕末 神戸事件

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幕末、尊王攘夷の高まるなか、幕府は開国に踏み切りましたが、入ってきた外国人との間に摩擦が起こりました。

 

1862(文久2)年、生麦村(横浜市鶴見区生麦)付近で薩摩藩島津久光の行列に騎馬のイギリス人が乱入したのを、藩士が殺傷した生麦事件が起こりました。この解決に薩摩とイギリスが対立して薩英戦争えとつながります。

 

 

1868年(慶応4)1月11日、備前(岡山)藩の行列が三宮神社(兵庫県神戸市)近くを通りかかった時、フランス兵が行列を横切った。その行為を無礼だとした、備前藩の鉄砲隊が威嚇射撃をした。その行動に怒ったフランス、イギリスが神戸の街を占領した。これが神戸事件で、外国勢はその責任を新政府に要求し、備前藩は、隊長の滝善三郎に切腹を命じた。
2月9日、永福寺にて、古来の作法にのっとり滝善三郎の切腹は見事に行われた。(享年32歳)
彼の切腹が外国が新政府を認めた最初の外交問題です。
市民は滝善三郎を事件の犠牲者として哀れみ、永福寺に慰霊碑を建てた。のちに能福寺に移されました。

※当時はまだ慶応年間でしたが、後に明治の年号が使われさかのぼって1868年1月1日から明治と定められました。



 
三宮神社
神戸事件は神戸の中心地で起こりました。
JR三宮と元町の中間くらい南にあります。

 
碑が設置されています

 
当時の大砲が置かれています


 
瀧善三郎の墓(能福寺)
責任をとって切腹した瀧の墓。

 
切腹の場面

 
能福寺


 
| 兵庫 | 13:16 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
幕末四賢公 11日紀行

 

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11月11日大河ドラマ「両雄激突」の紀行で西郷どんの屋敷跡が紹介されていました。このブログでは、11月10日に紹介しています。

西郷どんがストレス解消のために元将軍家のお狩場(目黒区駒場野)で狩りをしていました。その時の服装が上野にある犬を連れた西郷さんの銅像の姿です。

上野公園にある西郷さん



 
今回は、幕末の四賢公(しけんこう)について書きます。

福井藩主(松平春嶽)、宇和島藩主(伊達宗城)、薩摩藩主(島津斉彬後に久光)、土佐藩主(山内容堂)をいいます。

幕府の政治に参画し、有力大名を政治に参加させる改革をしようとしましたが、老中:阿部正弘が1857(安政4)年に死亡し、井伊直弼が老中となり安政の大獄が始まると4名は、謹慎させられ活動はできなくなりました。
1860(安政7)年、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されて以後、1863(文久3)年にかけて、謹慎が逐次解かれた。自由の身となった彼らは、隠居の身ながら幕政・藩政に影響を与えた。

 

山内 容堂 (やまうち ようどう)を紹介します。

1827(文政10)年、土佐藩15代藩主として生まれる。名前は豊信、容堂は、隠居後の呼び名。

当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。政敵の西郷からは、「単純な佐幕派の方が始末がいいと言われた」。

※佐幕とは、幕府を補佐するの意

 

龍馬がたてた政権を朝廷に返す案「船中八策」を理解しており、容堂はこれを妙案と思い、15代将軍・慶喜に建白。1867(慶応3年1)年11月9日に、大政奉還が成立した。



関ヶ原の戦いで功績があったため、家康から土佐藩を拝領したのが「功名が辻の山内一豊」です。それから15代続き、江戸時代の最後の藩主が山内容堂です。


山内容堂公

 
誕生碑
お城の東側にあります

 
高知城

 
道路の右:容堂公屋敷跡 左:下屋敷

 
山内神社

 
杯を片手に持った山内容堂公

酒と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。

維新後は、東京で妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。1872(明治5)年、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳で生涯を閉じた。

(参考資料:Wikipedia)
| 高知 | 00:01 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP