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竹千代像

[ 静岡 ]

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静岡駅北口駅前広場に、徳川家康像竹千代像があります。

竹千代像


徳川家康像


平成19年度に家康の駿府城入城四百年を記念し、「大御所四百年祭」展開してきた事業の一環として平成21年3月19日、銅像が設置され、像台座の題字は、徳川宗家第十八代当主・徳川恒孝氏によって書かれました。



家康にとって駿府は、最長約25年を過ごした地です。

今川家の人質として過ごした幼少期と江戸に移るまでの数年間、晩年の大御所時代の3度を駿府城で過ごしました。

竹千代像は、家康公が8歳から19歳まで今川氏の人質として過ごした幼少期の姿。

家康像は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を支配した頃の壮年期の家康の姿です。

この像の横に、久能山国宝指定記念碑があります。



by shizuka



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2017.02.23 Thursday 07:00 | comments(3) | - | 

奥山方広寺(4)奥山半僧坊

[ 静岡 ]

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奥山半僧坊

 

 

 

奥山半僧坊大権現

方広寺の鎮守さま。伝えによると、無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。風は帆柱を折れよとばかりに吹き荒れ、雨は滝のごとく落ち、波は逆巻いて禅師のお乗りになっている船をいまにも飲み込もうとする勢いでありました。大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。そして、ここでお姿を消されたといわれます。
禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰をあつめております。
毎年10月に御大祭がおこなわれております。(奥山方広寺HPより)

 

 

 

 

見事な龍の彫刻です!

 

 

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2017.02.19 Sunday 23:59 | comments(4) | - | 

奥山方広寺(3)五百羅漢像

[ 静岡 ]

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方広寺の境内には五百羅漢像が点在しています。

釈迦入滅後、教典編纂の第一結集(けつじゅう)、第四結集に500名の仏弟子達が集まったことに由来します。

方広寺には、次のような記録が残っているそうです。

「寺門に入るに先立つて白崖峰と言はれる巨岩上に一群の羅漢が安置され、全境内の樹下石上に姿態自由な立像坐像臥像が苔衣を着て或は禪思し、或は流水を俯瞰し或は行雲を仰視して居る。是は寶歷年中 拙巌和尚が圓覺經を提唱するに當つて大藏經を渉獵し、偶、諸大羅漢が世間に現在して遺法を護ると云ふ文を讀み、更にまた開山禪師曾て支那天台の石橋に茶を獻ぜられしに、羅漢が身を現じて 別峰に禪師を呼ばれたる故事を思い、方廣の寺名が天台に因み、五百の雲衲の數の亦相通ずるに依って五百躰を彫刻せしめ明和七年完成した物である。」

こちらは、羅漢の庭にある羅漢像です。

羅漢の庭

 

 

その他、境内の至る所に羅漢像が点在しています。

 

 

 

 

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2017.02.16 Thursday 07:00 | comments(2) | - | 

奥山方広寺(2)本堂

[ 静岡 ]

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方広寺の本堂は、明治38年から大正7年にかけて竣工されたもので、間口32m奥行27mの東海屈指の建物です。

 





中央の大額「深奥山」は山岡鉄舟の書によるものです。

 



それでは本堂の中に入ってみましょう。
中は撮影OKです。

 



 



秘仏・阿弥陀如来像



山門に安置されていた阿弥陀如来像が、本堂に特別公開されていました。

案内板によると

「この像が彫られたのは、天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀に討たれた年、井伊直虎が亡くなった年でもあります。
戦国の動乱期に京都で彫られた木像は、絢爛豪華ではありませんが、穏やかでおおらかなご尊顔をされています。」

 

 

 

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2017.02.14 Tuesday 18:49 | comments(6) | - | 

奥山方広寺(1)瀬戸方久が寄進した三重塔

[ 静岡 ]

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奥山方広寺は、奥山にある臨済宗方広寺派の大本山で、山号は深奥山(じんのうざん)、別称「奥山半僧坊」本尊は釈迦如来。

1371年(建徳2年)奥山朝藤の開基により、後醍醐天皇の皇子・無文元選を開山として創建されました。

1587年(天正15年)後陽成天皇の勅願所となり、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられています。

60ヘクタールの広大な敷地に多数の歴史的な伽藍があります。

この日は、三重塔の横にある本堂最寄りの駐車場まで車で行き、そこから歩いて回りました。

三重の塔

 


この三重の塔は、元は瀬戸方久が寄進したものですが、当時の塔は消失し、現在の塔は山口玄洞が再建したものです。

瀬戸方久とは、ムロツヨシさんが乞食同然のボロボロの格好で登場しましたが、後に豪商にのし上がり、井伊家の財政を握るキーパーソンになり、堀川城主となる人です。



ここから本堂が見えます。

 



亀背橋


この橋を渡ると間もなく本堂です。


 

 

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2017.02.12 Sunday 19:20 | comments(3) | - | 

奥山氏居館跡

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浜松市北区引佐町に鎮座する奥山神社の向かい側に、奥山氏の居城であった奥山氏居館跡があります。

奥山神社


奥山氏は、井伊家の分家で、8代頃から分かれ、引佐の奥山郷を領地にした奥山朝清を称したことに始まり、方広寺の南西約2kmの中村地区の高台が居館跡となっています。

 

 



井伊家の分家である奥山氏の居館跡がこの地に想定されています。奥山氏は分家とはいうものの、嫡流家に匹敵する力を持っていました。南北朝時代の当主奥山六郎次郎朝藤は、後醍醐天皇の皇子、無文元選招き、奥山方広寺を開いています。また、奥山氏一族は、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元に従い、多くの戦死者を出したといわれています。井伊直政の実母
奥山因幡守朝利の娘)も奧山氏の出身です。

現在はみかん畑となっています。

 


居館跡からの眺め

 


井伊氏の本拠・三岳城の支城として使われた奥山城は、標高200mに築かれた奧山家の戦時用の山城で、永世11年(1514)、井伊直虎の父・直盛が反今川軍に同調した際、敗れてこの城に逃れたといいます。
しかし、大部分は、採石のために削り取られてしまい、果樹園の一角に土塁が残るのみだそうです。

 

 

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2017.02.09 Thursday 11:16 | comments(4) | - | 

井伊氏居館跡

[ 静岡 ]

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井伊谷の四区公民館の前に井伊家居館跡の案内板があります。

 




戦国時代、井伊氏が平時を過ごした居館の跡で、江戸時代の記録によると、山麓にあった井伊氏の居館は、本丸のほか、二ノ丸、三ノ丸に分かれていたとされており、山上の曲輪(井伊谷城)は「御所の丸」と呼ばれていたそうです。

 





 井伊氏居館跡

江戸幕府の柱石の大名中、数少ない大老職の家柄と仰がれた彦根藩主井伊氏発祥の地は、引佐の井伊郷で、この場所が屋形の跡です。
井伊氏の元祖共保公は、藤原鎌足5世の裔、閑院左大臣冬嗣の男良門の流れを掬む藤原備中守共資を父とし、共資が一條天皇の正暦年中、遠江の廳に来住した時、井伊郷の荘司三宅篤茂の女を娉い、寛弘7年正月篤茂の館に於いて生誕したと謂われております。
以来日本八介の一、遠江の井伊ノ介と謳われ、南北朝、東海に於ける南朝の拠点として、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、ここ城山に御所を構え、東北三嶽山頂に山城を営み、激烈な戦火を繰り広げました。
以後戦運南朝に利あらず、戦国の世には今川氏の為に悲運を繰返し、直政公出生の翌年、永禄5年には幼主直政公も此處を立退き、遂に主無き館となりました。
嘉永5年6月、彦根藩主、時の大老井伊直弼公は親しく此の館跡を訪れ、境内にある守護社井伊大明神に詣で旁附近の史跡を巡覧した事が伝えられています。

平成元年8月吉日
引佐町歴史と文化を守る会
引佐支部有志一同

当時を偲ぶものといえば、お堀と石垣の跡ぐらいです。

 



この公民館の辺りが、居館の二の丸で

 



本丸は北側のこの辺りのようです。

 



向こうに見える緑の山が、井伊谷城跡です。

 

 

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2017.02.08 Wednesday 15:28 | comments(2) | - | 

龍潭寺(2)開山・黙宗瑞淵禅師を祀る開山堂

[ 静岡 ]

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龍潭寺の歴史は古く、天平5年(733)に行基菩薩によって開創されたと伝わります。

天文年間(1532〜1555)に井伊谷城主・井伊直平が井伊氏の菩提寺であった自浄院に文叔瑞郁を招き、井伊直盛が文叔の後継であった黙宗瑞淵を開山として龍泰寺とし、のち龍潭寺と改めたことに始まります。

八世徹叟和尚が建立した楼閣造りの開山堂

 


塔上に井伊氏の家紋・彦根橘と彦根井筒(井桁)が見られます。

 



堂内には、文叔瑞都、黙宗瑞淵の像や身代わり地蔵が祀られています。

文叔瑞都の像



黙宗瑞淵の像



身代わり地蔵

 

 

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2017.02.04 Saturday 09:27 | comments(9) | - | 

龍潭寺(1)

[ 静岡 ]

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井伊谷 龍潭寺は次郎法師・井伊直虎ゆかりのお寺です。

井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。

井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。

保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。

室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。

戦国時代になると、24代・井伊直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。

幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。

こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。

参道


山門



山門を潜ると、正面が石垣になっており、鍵の手に回って、本堂へと進みます。

 



これは、龍潭寺が、井伊谷城の南の砦の役割を担っていたからだそうです。

 



 



井伊家・宗良親王 菩提寺 
 萬松山 龍潭寺

 当寺の歴史は古く、天平5年(733)行基菩薩開創八幡山地蔵寺に始まると伝えられています。寺の南に井伊氏祖共保公出生の伝説を残す八幡宮御手洗の井戸があります。
 この寺域はもと井伊八幡宮の境内でしたが、五百年前井伊氏がこの地に龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。
 龍潭寺は井伊城南の守り砦の役目を果たしてきた歴史があります。この参道石垣等に小規模ながら城郭造りの跡が残されています。
 朱印地であった境内地二万四千坪は、明治政府が没収、その後一万余坪が返還されました。龍潭寺の森は日本の森百選に選ばれています。この森に包まれ点在する龍潭寺伽藍は、江戸時代建立の貴重な文化財で長い歴史をひめてよく保存され今日に至っています。

井伊直政公出世の地の碑

 



 徳川四天王        
    井伊直政
 
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田で名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。8歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長します。
 15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は、旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付けます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は6万石に出世、井伊家の再興を果たしました。
 慶長5年、関ヶ原合戦で
は東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
 慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じました。

 

2017.01.30 Monday 11:58 | comments(3) | - | 

駿府城公園〜静岡市

[ 静岡 ]

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今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。
9代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。
永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。


徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。
しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。


その後、徳川家康は、関ケ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。
慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。

この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。


城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」「二の丸」「三の丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。<案内板より抜粋>

 

 

現在、城跡には東御門・巽櫓が復元されて、駿府城公園となっています。

 

巽櫓

 

 

東御門

 

 

発掘された本丸堀

 

本丸跡には徳川家康公の像がありました。

 

 

 

 

 

 

 


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2017.01.24 Tuesday 10:28 | comments(6) | - | 
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