大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
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西郷南洲翁宅地跡

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鹿児島中央駅から「ナポリ通り」を東に向かいます。

 

 

ナポリ通りとは、鹿児島市と姉妹都市であるナポリから名付けられたそうです。



4月初旬、通りに植えられたツツジが綺麗に咲いていました。

この通りを約200ほど歩いたところに共研公園があります。

 





この公園の入り口あたりが、西郷一家が安政2年(1855)から明治2年(1869)まで暮らした西郷南洲翁宅地です。



西郷隆盛は、下鍛冶屋町(現在の加治屋町)の下級藩士の屋敷に生まれ、青年期までを過ごしました。

安政2年(1855)12月、加治屋町の屋敷を売却し、この上之園町の屋敷に移ってきます。

明治2年(1869)7月、武家屋敷に移るまでここで十数年過ごしました。



by しずか

 

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| 鹿児島 | 07:54 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
坂本龍馬

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

大河西郷どんも坂本龍馬の登場で一挙に幕末の動乱期に入っていきます。

 

坂本龍馬が登場したのは、7月29日第28回「勝と龍馬」でした。そして次回(8月19日)第31回「龍馬との約束」です。

 

今回は、高知、神戸時代の龍馬の史跡を紹介します。

 

 

坂本龍馬像(土佐桂浜)

 

1862年3月(文久2年)(28歳)に脱藩して、勝海舟の弟子になりました。

1863年(29歳)、幕府が設立した神戸にある海軍操練所で勝の要請で塾頭を務める。
1865年5月(31歳)、西郷どんと一緒に薩摩に入りました。そして薩摩の援助で長崎に亀山車中を設立します。

 
桂浜

 
坂本龍馬誕生の地
高知市上町1丁目7(高知城から約300mの距離で家からお城を見ることができました)

 
高知城

 
勝が開いた海軍操練所の碑(神戸市)
龍馬は勝の弟子になって、この操練所の塾頭を務めました。龍馬29歳の時です。

 
| 高知 | 00:09 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
岩倉具視幽棲旧宅〜京都市

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岩倉具視は、文政8年(1825) 前権中納言・堀河康親の次男として生まれましたが、14歳の時に岩倉家の養子に入りました。
岩倉家の家領は150石。洛北の岩倉に所領があったことから岩倉を名乗ったと言われています。

 

安政5年(1858) 幕府がアメリカと日米修交通商条約を結ぶにあたり、公家88人が列参して条約締結反対の建議書を提出、岩倉はその中心人物となりました。
これ以降、岩倉の政治活動は一躍注目されるようになり、公武合体を推進して皇女和宮の将軍家降嫁にも尽力ました。

しかしこれが尊皇攘夷派から激しい憎悪を受け、身の危険を感じた岩倉は文久2年(1862)官職を辞して、岩倉村に隠棲しました。

 

 

 

地下鉄「国際会館駅」から京都バスで「岩倉実相院」下車。
すぐ近くに、岩倉具視が隠棲生活を送った「岩倉具視幽棲旧宅」があります。


表門

 

 

 

白壁の塀に沿って通用門へと向かう途中、茅葺屋根が見えました。

 

 

通用門より中に入ると、なんと!ここより先は写真NG(◎_◎;)

 

 

屋敷内には、岩倉具視が住まいとした「鄰雲軒(りんうんけん)」、遺品などを収蔵した「対岳(たいがく)文庫」、遺髪を埋葬した「遺髪塚」、そしてお手植えの松が残る「お庭」などがありましたが・・

 

写真がないのでパンフレットを。

 

 

 

 

岩倉具視は隠棲したとは言うものの密かに政治活動を行い、多数の志士たちがこの屋敷に頻繁に出入したといいます。
その中には、坂本龍馬・中岡慎太郎・大久保利通・品川弥次郎などもいました。

 

5年間に及ぶの隠棲生活の後、慶応3年(1867) ようやく洛中帰住が許され復職。
その後は朝議を主導して王政復古に尽力し、新政府の中心人物として大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛らとともに活躍しました。

 

 

私は、岩倉具視はこの屋敷で密かに暮らしていたようなイメージを持っていたのですが、意外にも地域の人と交流し、明治維新後に東京に移り住んでも、京都に来た時には岩倉を訪れて旧交を温めたそうです。

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
古高俊太郎顕彰碑〜守山市

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古高俊太郎は、よく長州藩士と誤解される事が多いのですが、実は近江国栗太郡古高村(現:守山市古高町)出身の勤王の志士です。

幕末、京都河原町で桝屋喜右衛門を名乗り、長州藩の間者として情報活動と武器調達にあたっていました。

しかし元治元年6月8日(1864年7月8日)新選組に踏み込まれて逮捕され、壬生屯所の前川邸で新選組の近藤勇・土方歳三から拷問を受けました。

それにより「京を追われた長州藩が、御所に火を放ち、佐幕派の公家を幽閉し、大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去る」という計画が暴露され、ここから池田屋事件が起こりました。

古高俊太郎が自白したかどうかは、今も謎です。



その後、古高俊太郎は六角獄舎に収容されましたが、7月20日(8月21日)に禁門の変によって大火が起こり、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人によって斬首されました。享年36歳。

 

 

古高俊太郎の出身地(守山市古高町)にある福寿院

 

その境内に、古高俊太郎顕彰会によって建てられた顕彰碑があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 滋賀 | 11:14 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
池田屋騒動2 古高俊太郎

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池田屋騒動のきっかけとなった古高俊太郎の記事です。

 

古高俊太郎は、梅田雲浜のもとで勤王思想を学び勤王志士とも交流のあった人物です。京都で枡屋湯浅喜右衛門と変名して、福岡藩黒田家御用達「枡屋」を構え、密かに武器を集め、同志と連絡をとったり援助をするなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていました。

しかし、1864(元治元)年6月5日(旧暦)早朝、新選組に捕縛され壬生の屯所で拷問を受け自白させられ、これが、池田屋騒動の端緒となったと言われています。

 

 

古高俊太郎邸跡(升屋)地図下14

京都市下京区西木屋町四条上る

8池田屋  13中岡慎太郎寓居跡 
12近江屋(龍馬、慎太郎遭難の地)

 

古高俊太郎邸宅跡


 
現在は、和食屋しる幸

 

 

 

 

 

 

| 京都 | 00:04 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
池田屋騒動 1

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7月22日「大河:禁門の変」で、西郷吉之助は「出陣」の一声を発することで幕末の大混乱の中に飛び込んでゆく決意を固めました。

そして、蛤御門の戦いで、西郷が陣頭指揮をとって長州との闘いに挑みました。

西郷どん、いよいよ幕末の動乱の中に身を置き、明治維新へと日本を導いていきます。どんな西郷の動きが見れるのか楽しみです。

 

今回は、ドラマの中ではほとんどスルー状態だった「池田屋騒動」を記事にしました。

 

1864(元治元)年6月(旧暦)、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は三条小橋西詰北側の旅館「池田屋(長州定宿)」で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇率いる新選組10名で襲撃し、倒幕派7名を惨殺した。この事件で倒幕が1年遅れたとも言われています。

  

新選組は、1863(文久3)年に東海道53次の終点であるここ三条大橋、小橋を渡り、池田屋の前を通って壬生屯所に向かいました。それより1年数か月後にこの事件を起こしました。
(参考資料:池田屋説明板より)

 

 

池田屋地図
中京区三条通川原町車入
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池田屋
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Photo



ビルの谷間に池田屋跡、右に行ったところが三条小橋西詰
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現在は新選組の雰囲気のある居酒屋です。
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倒幕派死傷者氏名(クリック拡大)
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| 京都 | 12:55 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
来嶋又兵衛生誕地〜又兵衛の銅像

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大河ドラマ「花燃ゆ」の年に、山口県の来嶋又兵衛生誕地を訪ねました。

前回の「西郷どん」では禁門の変が描かれ、長州力さんが来嶋又兵衛を演じましたね。

IMG_6513 来島

又兵衛は、この近くに屋敷を構えていた喜多村家の次男として誕生。

20歳の時、俵山(長門市)の来島家に婿養子に行きました。

IMG_6509 来島

IMG_6514 来島

来嶋又兵衛
文化14年(1817年)1月8日、長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男として生まれましたが、天保7年(1836年)、大津郡俵山村の大組(八組)の上士・来島政常(又兵衛)の婿養子となります。

弘化3年(1846年)、江戸に出て剣術修行に励み、武芸の達人となりました。
嘉永元年(1848年)に帰国、家督を継ぎ、同年10月に手廻組に入隊後、藩主世子・毛利定広の駕籠奉行を務めるなど、藩の要職を歴任。

翌嘉永2年(1851年)、養父の政常が病死したため、来島家累代の名前を継承し、来島又兵衛政久と改名。

文久3年(1863年)、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。
八月十八日の政変後、萩に戻り、高杉晋作の奇兵隊創設に続き、又兵衛も遊撃隊を組織して自ら総督となります。
翌元治元年(1864年)、長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、禁門の変の前に家老福原元舛蕕閥Δ望緲譟∋摩藩・島津久光の暗殺を計画したが失敗。
一旦長州に戻りますが、藩主・毛利敬親に改めて出兵を促し、6月に福原・益田親施・国司親相・久坂玄瑞らと再度上洛。

禁門の変では、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げましたが、蛤御門の戦いで、薩摩藩兵の銃撃隊・川路利良の狙撃で胸を撃たれ、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突き、首をはねられて死亡。享年48。

又兵衛は、豪快なイメージがあると思いますが、駕籠奉行、大検使役、学習院御用掛などを歴任した能吏でもあり、食事や酒などの細かい出費まで記録していたという几帳面な面もあったそうです。

この神社で写真を撮っていた時、郷土の歴史の研究をされている方に声をかけていただき、この後、又兵衛の生家跡や又兵衛ゆかりの地などに案内していただきました。

生家は、厳島神社の北方約150mの地点にあり、宅地跡は田んぼとなって、「喜多村家旧宅跡」の石柱が田んぼの南側に建っています。

IMG_6511 来島

 

by しずか

 

| 山口 | 10:15 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
蛤御門の変と来嶋又兵衛の最期

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 来嶋又兵衛は、浪人者や庶民を集めて結成した遊撃隊を率いて嵯峨から出撃し、会津藩兵が護衛する蛤御門を攻撃し、戦が始 まりました。


一時は、来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入し、優勢でしたが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転。
長州勢は次々に銃弾に倒れていきます。

蛤御門(はまぐりごもん)は、京都御苑の外郭九門の一つで、正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」といいます。

天明8年1月30日(1788年3月7日)に発生した天明の大火で御所が炎上した折に、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリにたとえて「蛤御門」と呼ばれるようになりました。



元治元年7月19日(1864年8月20日)の蛤御門の変の際、門の周辺が長州藩との激戦地となり、門柱に命中した弾痕を確認することができます。



現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど東の位置に、南を向いて建てられていたそうです。
(Wikioediaより)





蛤御門 

江戸時代末期の1864(元治元年)、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩・桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っています。この門は新在家門といわれてましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれてます。


烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込んだ来嶋又兵衛は、遊撃隊の中でよく目立ち、すぐに指揮官とわかるような恰好であったといいます。



長州勢が劣勢である中、又兵衛は、何とか前線に踏みとどまろうと必死でした。
しかし、薩摩藩兵の銃撃隊の川路利良の銃弾が来島の胸を貫きます。
もはやこれまでかと来島は死期を悟り、甥の喜多村武七に介錯を命じると、槍で自ら喉をついた後、首を刎ねられて亡くなりました。

京都御苑の蛤御門を入ったところに清水谷家の椋という木があります。
又兵衛は、この木の下で討ち死にしたといわれています。



かってはここに公家の清水谷家の屋敷があったために、「清水谷家の椋」と呼ばれています。



清水谷家の椋

 この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
 1864(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死にしたとも伝えられています。

by しずか

 

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| 京都 | 11:05 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
渉成園〜京都市

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東本願寺から、東に歩いて10分くらいの所に、東本願寺別邸「渉成園」があります。


 

渉成園は約10,600坪の敷地を有し、大小2つの池と園林堂(詩仏堂)、書院群、そして数棟の茶室で構成される東本願寺の別邸です。

 

幕末の文久3年(1863)、東本願寺に滞在していた一橋慶喜は、忙しい職務の合間をぬって渉成園をよく訪れたといいます。

慶喜が訪れた翌年、禁門の変ですべての建物が焼失したため、現在の建物は明治以降に再興されたものですが、お庭は当時の姿をとどめています。
 

渉成園には、徳川慶喜の揮毫による「渉成園」の題字額が残っているそうです・・が、普段は非公開?

 

 

渉成園の高石垣 斬新なデザインです。

 


「傍花閣(ぼうかかく)」
左右に階段があり、階段の上には屋根が取り付けられています。



「園林堂(おんりんどう)」(持仏堂)



閬風亭(ろうふうてい)



閬風亭の前には、雄大な印月池(いんげつち)が広がります。

広さは1,700坪(◎_◎;)



印月池(いんげつち)の西南の端には、お茶室「漱枕居(そうちんきょ)」があります。




お茶室と言えば、こんな2階建てのお茶室もありました。

「蘆菴(ろあん)」

2階から眺望を楽しむお煎茶席だそうです。


印月池にかかる「侵雪橋(しんせつきょう)」を渡ると・・


またお茶室がありました。

「縮遠亭」

 

渉成園は歴代お上人の隠居所だったので、公家や茶人など文化人との交流も盛んに行われたようです。

幕末にも迎賓館として利用され、将軍家茂をはじめ多くの要人たちも訪れました。

 


「回棹廊(かいとうろう)」




印月池には、源融(みなもとのとおる)の供養塔といわれる九重の塔もあります。

源融は、源氏物語の主人公「光源氏」のモデルと言われています。
渉成園は源融の邸宅・河原院跡であるという伝説があったため、このような供養塔や塩釜の手水水などが趣向として配されているそうです。





ところで、渉成園は周囲に「カラタチ」を生垣として植えたことから、「枳殻邸」とも呼ばれるそうです。

「枳殻(きこく)」って、どんな花かと思ったら・・


白くて可憐な花でした。


 



 


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| 京都 | 00:00 | comments(6) | - |- pookmark↑PAGE TOP
東本願寺〜京都市

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文久3年(1863)、攘夷決行をめぐって政局が混乱する中、14代将軍家茂が上洛する事になります。

これはまさに、3代将軍家光が上洛して以来、230年ぶりの事でした。

そこで将軍後見職であった一橋慶喜が先がけて京都に入り、家茂が上洛するまでの3か月間、京の情勢を把握したり、朝廷との交渉などにあたりました。

その時宿舎としたのが東本願寺です。

 

 

東本願寺 御影堂門


御影堂門は、東福寺・知恩院と合わせて「京都三大門」と称されるそうです。



東本願寺は、慶長7年(1602)、教如上人が徳川家康からこの地を寄進された事に始まります。

慶長8年には阿弥陀堂、翌9年に御影堂が建立されました。

しかしその後、4度の火災に遭ったそうです。

現在の建物は、禁門の変による京都大火のあと、明治13年(1880)から15年の歳月をかけて再建されたものです。

そしてここ数年、修復のため大きな屋根で囲まれていましたが、2015年に工事も完了し、両堂とも一般公開されるようになりました。


「御影堂」


 


 

 


「阿弥陀堂」




阿弥陀堂内陣の柱も天井もすべて金箔が施され、まるで黄金の世界です。

ただし、御影堂、阿弥陀堂とも内部は写真NG。



案内に沿って奥の方に進むと「ギャラリー」があり、さらに地下に進むと「視聴覚ホール」がありました。



ホールの横にあった「火焔太鼓」 高さ4mもある大きな太鼓です。

東本願寺には何度か来ていますが、こんなに奥まで参拝したのは初めて。

 

 

また東本願寺から歩いて10分くらいの場所に、慶喜が京都滞在中に訪れたという別邸「渉成園」があります。
その記事は次に・・・


 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP