大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて 

大河ドラマゆかりの地の史跡、番組の感想、関連番組を紹介しています。今年は「西郷どん」」を応援します!
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円通寺 彰義隊の墓

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また彰義隊士の墓があります。

彰義隊士の墓



慶応四年(1868)五月十五日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、当寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をいただけた。
これが、逆に明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となった。
「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬(現在でも記念碑があるが、火葬場所で墓では無い)
遺骸266体を当寺に埋葬する。(円通寺サイトより)
 

 

IMG_1114 彰義隊士の墓

死節之墓


彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたが、当寺に移築されたもの。
やはり賊軍にて、おおぴらな供養が当時は出来なかった為と思われる。しかし官許のある当寺に移築する事により、彰義隊と合わせて供養が出来ることになった。

土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。(円通寺サイトより)

三河屋幸三郎の墓


文政6年生まれ。江戸神田の雑貨商。横浜での貿易で巨富をえる。上野戦争のあと,放置されていた彰義隊の戦死者を千住三ノ輪の円通寺に埋葬。三幸の通称で,侠商として旧幕臣らにしたわれた。明治22年5月5日死去。67歳。伊豆(いず)八丈島(東京都)出身。姓は浅岡。 (コトバンクより)
三幸、又は親分檀家などと呼ばれた、侠骨の義商。当寺に彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力した、その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力した。「死節之墓」は三河屋の別宅に在った物。(円通寺サイトより)

大鳥圭介の墓



江戸末期〜明治初期の軍人,政治家,外交官。播磨(はりま)赤穂の医師の家に生まれ,緒方洪庵の適々斎塾を経て,江川太郎左衛門に師事。江川の推薦を得て幕臣となり,戊辰戦争では榎本武揚に従う。明治政府出仕後は開拓使御用掛,工部大学長,学習院長,華族女学校長などを歴任,1889年特命全権公使として清国に渡り,日清戦争前夜の外交工作を画策。(コトバンクより)

松平太郎の墓


旧幕臣・陸軍奉行、榎本武揚らと函館を占領した。
蝦夷島「副総裁」に選出される。(総裁は榎本武揚)
西洋かぶれと目される榎本・大鳥に反感をもっていた幕臣の票が集まった為と思われる。

土方歳三らと「一本木」にて交戦するが敗走し五稜郭に戻る。

最後まで抵抗を主張するが榎本に説得され降伏する。
のち、静岡に隠遁して余生を送る。(円通寺サイトより)

小芝長之助
IMG_1132 小芝長之助

将軍家御庭番を務めていたが、戊辰戦争が勃発し、慶応4年(1868年)4月11日に江戸城の無血開城が決定すると、憤激のあまり城内に放火して脱走した過激派。
榎本武揚艦隊の蝦夷地渡航に同行し、箱館政権(蝦夷共和国)下では探索役主任と陸軍奉行並土方歳三の管轄である箱館市中取締役を兼任。
土方の戦死の知らせを聞いて、本営五稜郭より一本木関門まで遺体を引き取りに行った。
箱館戦争降伏後、松江藩預かりとなり、明治4年(1871年)4月に赦免。晩年、東京三ノ輪円通寺の墓守として生活していた。
大正元年(1912年)頃、日野の土方家を突然訪れ、土方歳三の位牌を目の前にして泣き崩れたと言う。その4年後、死去。享年88。(Wikipediaより)

新門辰五郎の碑
IMG_1129 新門辰五郎

幕末維新期の侠客。江戸町火消しの元締。本名町田辰五郎。錺職人の子として下谷に生まれ,上野輪王寺の寺僧町田仁右衛門の養子になる。鳶人足から人足頭,町火消十番組の頭になり,浅草寺の門番も勤める。江戸の火消しには幕府の定火消し,大名火消し,裕福な町衆が金を出しあって雇う町火消しの別があり,町火消しは下位に立たされていたが,辰五郎は浅草の香具師,大道芸人などから入る金を背景に勇み肌の男たちを十番組に配し,柳川藩の大名火消し相手の喧嘩で18名を死傷させて勇名をはせ,この罪で江戸所払になる。夜な夜な妻妾のところに戻るのが露見して捕まり,拷問されたが屈せず佃島人足寄場に送られる。弘化3(1846)年の本郷丸山火事で佃島に火が入ると,囚人を小金井小次郎らと指揮して消火に貢献,赦免される。 娘が将軍徳川慶喜の妾になっている縁で慶応年間(1865〜68),子分300人を連れて将軍警備で京都に行く。京都では河原町,大坂では堂島に居を構え,妾も置いて,将軍お抱えの江戸の親分として羽振りをきかせた。鳥羽伏見の戦に敗れて開陽丸で江戸に敗走する慶喜から,大坂城に忘れてきた馬印の大金扇を取ってくることを命じられ,これを持って子分と共に陸路東海道を江戸に着いた。慶喜が水戸に謹慎になった際,2万両の甲州金を輸送し,徳川家の駿府(静岡県)移住にも付き従い,最後まで佐幕派の義理を守った。浅草の自宅で没。


余談ですが・・・1963年3月に発生しした吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られ、敷地内に被害者の慰霊地蔵・よしのぶ地蔵があります。

IMG_1113 よしのぶ地蔵


一方、昭和13年、上野公園の寛永寺総門の黒門跡に、蜀山人の歌碑が建てられました。

 

| 東京 | 15:47 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
円通寺 寛永寺から移築した黒門

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東京都荒川区南千住の円通寺
 

 



寺伝によれば、延暦10年(791年)、坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。

巨大な観音像


 

 



明治維新の折、慶応4年(1868年)の戊辰戦争(上野戦争)で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりで、当寺の住職が火葬を行いました。
 

 

IMG_1145 円通寺

そのため、当寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、彰義隊士の墓もあります。

黒門

IMG_1107 黒門

慶応4年(1868年)5月15日上野東台に於て、彰義隊と官軍の激戦が展開され、その中心地に建っていたのが、この黒門です。
明治40年10月、帝室博物館より特に当寺に下賜せられたもの。
 

 

IMG_1108 黒門

弾痕が激戦を物語っています。
 

 


 

 



 

by しずか

 

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| 東京 | 22:29 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
西郷隆盛像と寛永寺

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10月7日 第37回「江戸無血開城」が一週間遅れで放送されました。

 

吉之助は、三人に会いました。

 

天璋院からは「徳川を滅ぼさないでほしい」と頼まれました。

薩摩藩邸で勝からは「抵抗はしないので、江戸城を攻めないでほしい」

寛永寺で将軍:慶喜に面会して慶喜からは「戦わなかったのは、外国から日本を守るためだ」

 

西郷は、戦わずして江戸幕府を終わらせようと心に決めましたが戊辰戦争が起こってしまいます。

 

西郷が将軍:慶喜に面会した寛永寺は、3代家光の時(寛永2、1625年)に建立されました。
徳川家の菩提寺として増上寺とともに発展していき、最盛期の江戸時代後期には、上野公園のほぼ全域が境内となるくらい広大なものでした。

上野の山は、幕末の1868年(慶応4)の彰義隊と政府軍との戦いの場となり、幕府軍の敗北で終わり、主な建物は焼失してしまいました。

幕府軍の最高責任者の徳川慶喜が蟄居していた部屋が今でも保存されています。
明治維新後、境内は没収され公園用地となり寺は廃止状態におちぶれてしまいました。1875(明治6)年に本堂が復興されましたが、寺の規模は大幅に縮小されてしまいました。

 

寛永寺表門

 

 
根本中堂

 
彰義隊墓

 


 

上野公園 西郷隆盛像

 

 

 

 

 

 

| 東京 | 13:39 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP
勝海舟ゆかりの四合(しあわせ)稲荷

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六本木一丁目で下車し、ビルの合間を通り抜けて行くと、緑に囲まれた森に赤坂の氷川神社あります。





元禄の頃、この地は、忠臣蔵・浅野内匠頭の夫人 瑤泉院の実家である浅野土佐守邸跡で、大石内蔵助が討ち入り前に訪れて別れを告げたといわれています。

内匠頭切腹後、瑤泉院はここに預けられていました。

「雪の別れ」で有名な南部坂が近くにあります。
 
氷川神社社殿




この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。

江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗によって享保15年(1730年)に建てられました。
吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。
通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。
しかしただ簡素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。
また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。  
     平成22年(2010年)3月 東京都教育委員会 
 
氷川神社の境内に
勝海舟四合(しあわせ)稲荷名付けたという神社があります。
 


明治31年(1898年)、古呂故稲荷・地頭稲荷・本氷川稲荷・玉川稲荷の四社が合祀されています。
 


四合稲荷神社 御祭神: 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

1.古呂故(ころこ)稲荷 : 赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座
2.地頭(じぬし)稲荷 : 氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座
3.本(もと)氷川稲荷 : 本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座
4.玉川(たまがわ)稲荷 : 赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座
以上の四社を明治31年遷座合祀し、幕末より赤坂在住の勝海舟により、『四合(しあわせ)稲荷』と称えられた。 大正14年に、鈴降(すずふり)稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)、及び縁起(えんぎ)稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)の二社を、 また昭和9年に明徳(めいとく)稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を遷座合祀し、現在に至っている。 勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額も現存する。
(案内板より)

 

 

by しずか

 

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| 東京 | 11:12 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
勝海舟生誕の地〜東京都墨田区

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東京都内を流れる隅田川。そのほとりに、勝海舟の像が建っています。

 

 

 

 

勝海舟は文政6年(1823)旗本・勝小吉の長男として江戸本所(東京都墨田区)に生まれました。
旗本とはいうものの、下級武士であるため、貧しい少年時代を過ごしたといいます。 


両国公園の一角に生誕の地の碑が建っています。
勝海舟生誕の地の碑


しかし貧しい少年時代でありながらも、島田虎之助に直心影流の剣術を学び、また永井青崖に弟子入りして蘭学を学びました。

神社の境内で夜通し剣術の稽古をしたという牛嶋神社跡

 


剣の師匠の勧めで禅修行にも励んだという弘福寺



万延元年(1860)勝海舟は、福沢諭吉らとともに、幕府の軍艦でアメリカに渡航するというチャンスに恵まれます。
アメリカで見たすべての事は大きな驚きであったでしょうし、大きな収穫もあった事でしょう。


その後は幕府の中で、広い視野を持つ開明派として活躍し、江戸城無血開城という大きな功績を残しました。

 

 

 


 


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| 東京 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
淀の戦い

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鳥羽伏見の戦いが始まってから3日めの1月5日、淀の千両松でも激しい戦闘が繰り広げられました。


戊辰役東軍戦死者埋骨地

当時宇治川の左岸や右岸には池や沼地が広がり、川に沿った狭い堤防道での戦闘は凄惨を極め、新政府軍、旧幕府軍とも多くの犠牲者が出たといいます。

 

 

一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、本陣である淀で敵を迎え討とうとします。
淀城に入って大坂の援軍を待てば、十分に新政府軍を食い止めることが出来ると思ったのですが、なんと頼みとする淀藩は、城門を閉じ銃口を向け旧幕府軍の入城を拒絶したのです。


淀城址

 


幕末当時の藩主は徳川幕府の老中であった稲葉正邦。
淀藩稲葉家といえば、春日局の夫であった稲葉正成を祖とした譜代大名です。

 

稲葉正成を御祭神とした稲葉神社

 

しかしこの時、藩主である正邦は江戸に滞在していて不在でした。
しかも新政府側の三条実美から「徳川に付いてはならない」と圧力をかけられていたのです。
悩みに悩んだ淀藩の家臣たちは、武装中立という道を選びました。

 

 

一方新政府は、仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を授け征夷大将軍に任命。
この日、錦旗を掲げた新政府軍は本陣のあった東寺を出発して、鳥羽街道を淀小橋まで南進して来ました。

 


この時点で、新政府軍は「官軍」となり、旧幕府軍は朝敵の「賊軍」となったのです。
日和見の藩が次々と新政府側に寝返り、夕方、新政府軍は淀の徳川本陣を占領しました。

 


翌6日、大阪城にいた徳川慶喜は「たとえ大阪城が焼け落ちようとも断固守り抜くべし」と家臣の前で演説しました。
しかしその夜、わずかな側近を連れ開陽丸に乗って江戸へ逃亡・・


徳川家の権威が完全に地に落ちた瞬間でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(2) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鳥羽伏見の戦いの砲弾跡が残る妙教寺

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鳥羽伏見の戦い初日は、薩摩軍の士気の高さと綿密な戦略により、旧幕府軍は惨憺たる敗北を喫しました。

しかし翌4日、旧幕府軍は反撃を開始。
大阪湾では徳川艦隊が薩摩の軍艦を砲撃し、また伏見では陸軍の徳川伝習隊が次々と新政府軍を打倒し、徳川の底力を見せました。

 


鳥羽街道をずっと南に下がった淀城址近くに「妙教寺」があります。


この日、この辺りは戦場となり、その巻き添えで妙教寺本堂は幕府軍から砲弾を受けました。
当時の住職は、史実を伝えようと砲弾と砲弾跡を残したそうです。

 

春に特別公開がありました。

 


本堂(内部は写真NGでした)


砲弾は本堂右側の壁から飛び込み、なんと本堂正面を横切って左側の柱を貫通し、左下に落ちたそうです。
現在、壁の砲弾跡にはガラスがはめられていて、その辺りだけうっすら明るくなっていました。

また柱には、見事な穴がぽっかり開いていました。

 

スタッフの方が、複製の砲弾を使って、柱を貫通する様子を再現して下さいました。
そのあと、砲弾に触らせてもらいました、重っ!(◎_◎;)


本物の砲弾は、隣の書院に展示されていましたが、これは触れません。


でも、よくまあ爆発せずに、現在まで残ったものですね。
当時の戦いの様子を雄弁に語る証拠品です。

 


本堂を出て、砲弾の壁穴を外側から撮るため、本堂右横から覗いてみました。

 

このガラスの場所です。


こちらは南に面していているので、淀城側から砲弾が飛んできた事が分かります。

だから幕府側から撃ったと推定できるわけですね。

 

 

また境内には、榎本武揚の揮毫による「戊辰役東軍戦死者之碑」もありました。

 

 

 

ところで後日テレビを見ていたら、この砲弾は「四斤山砲」という非常に強い貫通能力がある大砲から撃たれた弾で、中には火薬と起爆装置が入っていると説明されていました。

しかも、四斤山砲を使っていたのは新政府側で、この日反撃を開始した旧幕府軍も、この強力な兵器の登場で陣地を破壊されて敗退を余儀なくされたといいます。

 

新政府側の砲弾か、旧幕府の砲弾かはともかく、こんな殺傷能力の強い武器を使い、しかも住民を巻き添えにしながら戦っていたわけです。

そう考えると、戦いを放棄して早々に江戸へ帰った徳川慶喜の判断は、正しかったのではないかと・・

そんな風にも思えます。

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 14:34 | comments(5) | - |- pookmark↑PAGE TOP
鳥羽伏見の戦い

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慶応4年(1868)正月2日、旧幕府および会津・桑名両藩の兵からなる1万の大軍が、薩摩討伐の勅許を得るため大阪城から京の御所へ向けて進軍を開始しました。
そして翌3日、鳥羽街道小枝橋付で旧幕府軍と薩摩軍は対峙。

 

小枝橋付近

 

 

旧幕府軍は入京を阻止され、薩摩軍との間で長時間にわたって小競り合いになりましたが、夕闇迫る午後5時ごろ、ついに強行突破を開始。
その途端、薩摩軍の一斉砲撃が始まり「鳥羽の戦い」の火蓋は切って落とされました。

 

薩摩軍が布陣した鳥羽の「城南宮」

 

城南宮拝殿


城南宮西側石の鳥居

 

薩摩軍は、城南宮の石の鳥居から小枝橋に続く参道に大砲を4門設置し、川土手の竹藪や参道に銃を持った多くの兵を布陣させていました。

 

城南宮から200mほど離れた「秋の山」


当時この辺りには竹が一面に茂り、冬の夕暮れの闇に紛れて、ここにも多くの薩摩兵を潜ませていました。

薩摩軍は、言葉巧みに旧幕府軍を下がらせ、自軍に有利なこの場所で戦いを展開したといいます。

 

 

激戦地だったと伝わる赤池交差点

 

 


一方、鳥羽の砲声が伏見に届くと、伏見奉行所を包囲していた薩摩軍も一斉に砲撃を開始。

「伏見の戦い」も同時に始まりました。

 

薩摩軍が布陣した「御香宮神社」

 

御香宮神社にある伏見の戦い跡の碑」

 

 

桃陵団地の中に建つ「伏見奉行所跡」の石標


旧幕府軍の重要な戦略拠点で、会津兵や新選組などが布陣していました。

 


本願寺別院(伏見御堂)


会津兵が駐屯しました。

 

 

伏見奉行所から京へ向けて攻め上がろうとする旧幕府軍と、それを防ごうとする薩摩・長州の攻防で、伏見は両軍入り乱れる市街戦となりました。


両軍が激突した最前線に残る、料亭「魚三楼」の弾丸の跡。

 

 

しかし御香宮神社の高台に据えた薩摩藩の大砲が伏見奉行所を直撃。
伏見奉行所は炎上し、旧幕府軍は退却を余儀なくされました。

 

 

この日の深夜、西郷隆盛が戦場を視察し味方を鼓舞したと伝わります。

 

 

 

 

 

 

 


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| 京都 | 00:00 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
徳川慶喜と大阪城

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16日大河「戦の鬼」が放送されました。

慶喜は、大政奉還したあと、二条城から大阪城に移動しました。新政府軍との戦いが始まりましたが、岩倉の仕組んだ軍の先頭に錦の御旗をたてることで、新政府軍が正当な軍であることを印象付け、幕府軍は劣勢にたたされました。

 

今回は、慶喜が逃げ込んだ大阪城と当時の大阪の紹介です。

 

大阪城は、幕府の直轄の城でした。


 
現在は、お城の周りには高層ビルが立ち並んでいます。

 

1868年頃の大坂は、日本の経済の中心地で藩の蔵屋敷が集まっていました。

 

堂島川にあった蔵屋敷地図

薩摩藩と長州藩の蔵屋敷が中央にあります。
大阪城はここより東約3K
北に約1Kで大阪駅です

 
玉江橋南詰めにある石碑「蔵屋敷がこの辺りに多く立ち並んでいたのを表す」
元は高松藩の蔵屋敷でしたが、リーガロイヤルホテルが建っています

 
中津藩の跡には福沢諭吉先生誕生の地の石碑が建っています。川は埋め立てられ朝日放送が建っています。

 
福沢諭吉誕生地

 

 
黒田藩蔵屋敷長屋門
堂島にあった門を茶臼山に移築して保存されています
| 大阪 | 03:35 | comments(3) | - |- pookmark↑PAGE TOP
王政復古の大号令

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慶応3年(1867年)10月、土佐の建白を受け入れるかたちで、徳川慶喜が大政奉還を一行。新たに自らを首班とする公儀成体を作ろうとしますが、すでに倒幕の姿勢を決めていた薩摩藩は、徳川家を排除し、天皇親政の新政府を樹立すべく、王政復古のクーデターを起こすことになります。
同年、12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止されました。そこへ、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して、京都御所の御学問所において、「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めました。


御学問所(おがくもんじょ)

小御所の北側に位置しています。
入母屋桧皮葺の書院造りの建物で、和歌の会など学芸に関する行事のほか臣下との対面にも用いられました。

 

 

 

同日、18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、新設された三職による最初の会議が、御所の小御所で開かれ、山内容堂ら公議政体派と岩倉具視が激論を交わしましたが、結果、徳川慶喜の内大臣辞職および徳川家領の冊封が決定されました。

小御所は、清涼殿の東、紫宸殿の北東に位置する南北棟の建物。屋根は入母屋造、檜皮葺。会議、対面や皇太子の元服などの儀式に用いられた建物です。

慶応3年(1867年、新暦では1868年1月)に徳川慶喜の処置を決めるための「小御所会議」が開かれた場所として知られています。
 

安政度造営の小御所は1954年8月16日に花火の火が燃え移って焼失し、現存する建物は1958年、旧建物に忠実に再建されたもの。
 
| 京都 | 00:00 | comments(4) | - |- pookmark↑PAGE TOP