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新野左馬助を祀る左馬武神社

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

新野氏は、現在の御前崎市新野を拠点とした鎌倉御家人・新野太郎に始まり、その後、鎌倉末期以降、今川氏の祖国氏の三男俊氏の子俊国が、新野氏の名跡を継いだものと考えられています。  

新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)は今川氏の一族であり、新野舟ヶ谷城の城主で新野村三千石を治めていました。親矩も新野新城(舟ケ谷城)の城主として今川氏に出仕していました。

左馬助は、井伊直虎の母親(祐椿尼)の兄にあたり、妻は奥山因幡守の妹。
親矩は井伊氏の縁戚であったこともあり、妹の娘で井伊家の家督を継いだ直虎や、徳川方へ寝返った嫌疑により今川氏真に討たれた井伊直親の遺児・虎松(後の井伊直政)を保護しました。

桶狭間の戦いの後、今川家は急速に衰え、三河国の松平元康などの離反が相次ぐ中、左馬助は今川家に忠節を尽くしましたが、永禄7年(1564年)、今川家に謀叛を起こした飯尾連龍の引馬城を攻め、天間橋(安間橋)付近で討ち死にしました。

虎松は、後に井伊直政となり、関ケ原合戦後、彦根18万石城主に出世。直政は、命の恩人である新野左馬助に報いるため、左馬助の息女を直政の重臣に婚礼させています。

また、井伊家においては、幕末になり、34代・井伊直中は、その子・井伊中守(大老・井伊直弼の兄)に新野左馬助親矩の名跡を相続させ、新野家を再興します。
                   
名跡相続後、新野村に左馬助の墳墓調査を行い、間蔵に墓石を発見しますが、この地が現在の左馬武神社です。

昨年、御前崎の新野左馬助の里を訪ねました。

こちらが観光案内所です。
あいにくこの日は休館日のようでした。

 

 



が、ここに周辺案内図や、外にも資料があるので、助かりました。

 







ここから車で数分行くと、小高い山に建つ神社が左手にあります。

IMG_0351 左馬武神社

左馬武神社(さまたけじんじゃ)は、地元住民から「情けの武将」として慕われる新野左馬助を祀っています。

急な階段が続きますが、整備されています。

 



周りは茶畑です。

 

 


左馬助の墓とされる五輪塔

 







境内からの眺め

 



「新野左馬助公顕彰会」により管理され、毎年4月に手もみの新茶が献上されています。

(御前崎市商工観光課パンフレット参照)

 

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2017.03.21 Tuesday 11:18 | comments(3) | - | 

寺野六所神社

[ 静岡 ]

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渋川つつじ公園の近くにある寺野六所神社

 


井伊直親(亀之丞)が、井伊谷に帰還する道筋で、寺野宝蔵寺観音堂に寄進された後、六所神社に奉納されたと伝わる「青葉の笛」を所蔵しています。

「青葉の笛」の公開日は限られており、井伊谷の地域遺産センターは複製品が展示されています。

 



「建立の時代は詳かではないが、文献棟札等より天慶年間と伝う。後承久年間に至りこの土地は三河国乃信濃国に通ずる要衝あった。其の後建武中興の時代に至り領主井伊遠江守道政、井伊谷城に宗良親王を迎奉り官軍に従いて王事につくす。宗良親王におかれては、王政復古を願い掛けられこれの満願の時、当神社へ宝物として横笛一本を寄進された。此れを青葉の笛と称する。」
(静岡県神社庁ホームページ参照)

 

 

 

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2017.03.20 Monday 09:37 | comments(4) | - | 

亀之丞(井伊直親)が青葉の笛を寄進した寺野宝蔵寺観音堂

[ 静岡 ]

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浜松市北区引佐町渋川の寺野宝蔵寺観音堂

 



弘治元年(1555)、亀之丞(井伊直親)が信州の松源寺から井伊谷へ帰国の際、青葉の笛は、最初このお堂に寄進され、のちに六所神社に奉納されたといわれています。




山号にちなんだ正式名称は「直笛山(ちょくてきざん)宝蔵寺」
井伊直親の『直』と『笛』の字が用いられています。

観音堂は、毎年1月3日に、寺野ひよんどりが行なわれることでも知られています。



ひよんどりは、「火踊り」がなまり伝えられたもので、松明を手に、五穀豊穣や無病息災を祈願しながら舞い踊る祭礼で、約400年前から伝承されています。
13番の舞のなかでも、3匹の鬼が松明を叩き消す全国でも珍しい舞があるそうです。

 

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2017.03.18 Saturday 11:47 | comments(5) | - | 

大樹寺

[ 静岡 ]

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永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの今川義元討死の報を聞いた松平元康(のちの徳川家康)は、岡崎の松平家の菩提寺・大樹寺に手勢18名ととも逃げ込みました。

しかし寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げると、登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)」の経文[汚れなき世を築くために生きよ」の教えを説いて諭しました。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固め、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させました。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになります。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空となった古巣の岡崎城に辿り着いたとされています。

大樹寺の歴史

応仁元年(1467年)、松平氏宗家第4代当主の松平親忠が井田野合戦の死者を弔うために千人塚を築きました。しかし、塚が振動し、悪病が蔓延するなどの事態となり、増上寺開山聖聡の孫弟子勢誉愚底(せいよぐてい)に念仏をさせて抑えたといいます。
文明7年(1475年)、戦死者供養のため松平親忠の開基、勢誉愚底の開山により大樹寺が創建されました。「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して、勢誉愚底により命名されたと伝わるものです。
親忠により大樹寺は松平氏の菩提寺とされ、松平郷の高月院にあった墓から分骨され、先代3代である松平親氏墓、松平泰親墓及び松平信光墓が大樹寺に作られました。
天文4年(1535年)、松平氏宗家第7代当主松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔が建立され、現在、国の重要文化財となっています。

山門



寛永18年(1641)徳川家光建立(県指定文化財)
楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)が掲げられ、釈迦三尊16羅漢を安置しています。

 



本堂



松平家と徳川幕府の庇護のもと隆盛を誇っていた大樹寺も、安政2年(1855)幕末の騒然たる時代に、出火により本堂、庫裏、書院など主要建物が全焼し、後に約2〜3割減の規模で再建されたそうです。


鐘楼



寛永18年(1641)3代・徳川家光公建立。楼上の大鐘は9代・家重改鋳によるもの。

松平八代墓

 



元和元年(1615)徳川家康は、先祖松平八代廟所を寺内に建立しました。

 



元和3年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされます。

昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立しました。

徳川家康の墓

 

 

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2017.03.17 Friday 11:21 | comments(4) | - | 

虎松(井伊直政)ゆかりの子育て地蔵と梛の木

[ 静岡 ]

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龍潭寺の境内にある子育て地蔵


虎松の無事成長祈願仏

永禄5年(1562年)虎松の2歳の時、父の井伊直親は今川氏真の手に掛かり 掛川城下で殺されました。

虎松も今川氏に命を狙われましたが、井伊直虎の母の兄である新野左馬之助(親矩)が、今川氏真や寿桂尼に助命嘆願し、虎松を保護。虎松は、親矩のもとで母と暮らすことになります。

しかし、虎松の行方については諸説あり、永禄7年(1564年)、左馬之助が引馬城攻めで討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、井伊直盛の正室・祐椿尼と実母が養育したともいいます。

永禄11年(1568年)、武田氏が今川氏を攻めようとした際、家老の小野但馬守が今川氏からの命令として、虎松を殺し、小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして、左馬之助の叔父が住職をしていた浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入れました。

 



虎松の人形


また、虎松ゆかりの梛の木もあります。





梛の木

 井伊家24代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃井伊家の安泰を念じて植えられた御神木です。
 1560年(永禄年間)当時の井伊家は、22代直盛の戦死、23代直親が誅殺され、家老小野但馬の謀反など受難の時期でした。
 直政母子は龍潭寺松岳院に身を寄せ、お地蔵様を祀りその傍らに「なぎの木」を植えて我が子の安泰を日々念じたといわれます。
 「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるとも云われています。

直虎と虎松

 

 

 

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2017.03.17 Friday 01:52 | comments(5) | - | 

虎松誕生 井伊直政出世の地

[ 静岡 ]

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永禄4年(1561年)2月19日、井伊直親と奥山朝利の娘との間に長男・虎松(後の井伊直政)が誕生。

しかし、父の直親は、直政の生まれた翌年の永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺されてしまいます。
当時、虎松はわずか2歳であったため、井伊直虎が井伊家の当主となります。

天正3(1575)年,浜松城下で徳川家康に見いだされ、虎松を万千代と改めます。
さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられました。

元服後は、2井伊直政と名を変え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。

龍潭寺の境内に、井伊直政出世の地の碑があります。

井伊直政公出世の地の碑




 徳川四天王        
    井伊直政
 
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田で名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。8歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長します。
 15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は、旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付けます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は6万石に出世、井伊家の再興を果たしました。
 慶長5年、関ヶ原合戦で
は東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
 慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じました。

 

 

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2017.03.14 Tuesday 11:46 | comments(5) | - | 

岡崎城

[ 愛知 ]

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徳川家康は、天文11年(1542)三河国岡崎城主・松平広忠の長男として岡崎城で生まれました。

しかし6歳で人質として駿河の今川氏へ行く途中で織田方に捕らえられ、その後人質交換で織田から今川に引き渡されるなど、苦難の幼少時を過ごしました。

その後今川氏の元で元服し、今川氏一族の娘・瀬名(後の築山殿)と結婚。

1560年の桶狭間の戦いでの今川義元死去を機に岡崎に帰った時には19歳になっていました。

 

岡崎城

 

城の前にあるのは、家康の遺訓「人の人生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし・・」

 

岡崎城の天守は、田中吉政が城主の時代に創建されましたが、その後地震で倒壊したと考えられています。
その後元和3年(1617)本田康紀が城主の時に三層三階、地下一階で東に井戸櫓、南に付け櫓を付属した複合天守が再建されましたが、250年余後の明治初期に破却。

現在の天守は昭和34年に再建されたものです。

 

この礎石は、田中吉政時代の天守の心柱の礎石だそうです。

 

天守台の石垣は野面積みで、これもかなり古いようです。

 

5階の展望室から眺める景色

 

 

 

お城の庭には、家康公の「えな塚」があります。

 

 

そして家康公「産湯の井戸」

 

 

岡崎城の周りは「岡崎公園」として整備されています。

 

三河武士のやかた家康館

 

岡崎公園の表玄関「大手門」

 

徳川家康公像

 

家康公・竹千代像ベンチ

 

徳川家康の生誕地にちなんで、岡崎公園内にはこのような竹千代像が多く見られました。

 

 

   by  めりい

 

 

 

 

 


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2017.03.13 Monday 00:00 | comments(4) | - | 

井伊直盛・桶狭間戦死者の墓

[ 静岡 ]

JUGEMテーマ:大河ドラマ

 

永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦い今川義元が討たれ、その先鋒隊を任されていた井伊直盛は自刃しました。

亡くなる直前に直盛は、南渓和尚に遺言を残します。

ひとつは、自らの葬儀を南渓和尚に任せること。

もう一つは、井伊直親小野但馬守との衝突を避けるため、直親が家中の信頼を得るまではすぐに家督を直親に継がせず、しばらくの間、中野直由に政(まつりごと)を任せ、井伊家を団結させるように遺言したといわれています。

桶狭間の戦いで戦死した井伊直盛と、小野玄蕃、田中善三郎、奥山彦一郎、奥山六郎次郎ら重臣16人の葬儀は、南渓和尚により、
龍潭寺で執り行われ、龍潭寺の墓所に葬られました。





正面向かって左側が、直盛の墓です。



龍潭寺殿前信州太守天運道鑑大居士と戒名が刻まれています。



桶狭間戦死者の墓



小野玄蕃の墓

 



IMG_4667 小野

小野玄蕃

小野朝直。井伊直盛の家老を務めた小野和泉守政直の子。小野但馬守道好の弟。
井伊直親の正室と同じく、奥山朝利の娘と結婚しました。
父と兄は井伊氏を裏切った奸臣として知られていますが、玄蕃の子の小野朝之は生涯井伊家についていきます。

 

 

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2017.03.10 Friday 00:00 | comments(3) | - | 

史蹟桶狭間古戦場〜豊明市

[ 愛知 ]

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名鉄「中京競馬場駅」で降りて徒歩数分の所に、豊明市の「史蹟桶狭間古戦場」があります。

 

 

 

公園に入ってすぐ「七石表(一号碑)」と書いた案内板があります。

これが、今川義元の戦死した場所を示す石碑だと伝わります。

 

その後ろには、今川義元のお墓もありました。

 

七石表は桶狭間の合戦で戦死した7人の武将の位置を表示しているそうです。

一号碑は「今川義元」の戦死した位置。
二号碑は、今川家の重臣「松井宗信」の戦死した位置。
三号碑〜七号碑は、氏名不詳の今川方の武将が戦死した位置。

公園の中を見ると、あちこちに石碑が点在しています。

 

名前が分からない武将が、この辺りでバタバタと倒れていたってことですね。

 

 

 

 

「史蹟桶狭間古戦場」の向かい側には、今川義元の本陣があったという「高徳院」があります。

 

山門をくぐって、すぐに目についたのがこの本陣跡の碑。
今川義元公の直系19代の子孫の方によって建てられたそうです。

 

その奥には本堂

 

山門の横には、今川義元三百回忌に建てられたという供養塔がありました。

 

 

ところで、今川勢2万5千、信長勢3千といわれる大勢の戦いなので、桶狭間古戦場はいくつあっても不思議ではないのですが、「今川義元本陣跡」や「義元公戦死の地」はやっぱりひとつでしょう。

名古屋市か豊明市か、さてどちらなのでしょう?

歴史のロマンですね。

 

 

       by  めりい

 




 


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2017.03.08 Wednesday 00:00 | comments(4) | - | 

桶狭間古戦場公園〜名古屋市

[ 愛知 ]

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名鉄「有松駅」から南に歩いて15分。

ここに、駿河・遠江・三河の三国を支配する有力大名・今川義元が、尾張の小大名・織田信長に討ち取られたという「桶狭間古戦場」があります。

 

永禄3年(1560)5月19日、駿河の今川義元が2万5千(諸説あり)の大軍を率いて尾張に迫ると、織田信長はわずか2千足らずの兵で奇襲をかけ、義元を討ち取りました。
戦国時代の勢力図を塗り替えるこの一戦が展開されたのが、ここ桶狭間です。

当時、桶狭間山の裾野であるこの辺りは深田であったといわれ、そこに足を取られた義元は、信長軍にあっけなく首をはねられたといいます。


桶狭間古戦場公園には、織田信長と今川義元の銅像があります。

 

 

公園の片隅にある「今川義元戦死の地」

この右側の墓石は、昭和28年(1953)に偶然発見されたもので駿公墓碣(すんこうぼけつ)」と刻まれています。

造られた年月は不明で、当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めてひっそり供養したものではないかと言われています。

 

 

「義元公 首洗いの泉」

今川義元公の首級をこの泉で洗い清めたと言われています。

 

 

 

首荒いの泉の後方から道に出ると、今川義元が本陣を置いていた桶狭間山への案内板があります。

ただし現在、桶狭間山は開発されて住宅地となっているため山はありませんが、住宅の前の急な坂道や段差が当時を物語っています。

 

その住宅地の一角に「今川義元本陣跡」の碑がたっていました。

 

 

 

実は桶狭間古戦場は、ここ名古屋だけでなく、お隣の豊明市にもあります。

 

次回は豊明市の「史蹟桶狭間古戦場」の記事を書きたいと思います。

 

 

    by めりい

 

 

 

 


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2017.03.06 Monday 00:00 | comments(4) | - | 
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